ついに念願のティヴォリへ!
私がイタリアへ行きたい理由の半分ほどは、このティヴォリにあります。
ティヴォリを描いた絵画はどれも美しく、殆ど呪咀のような讃美が惜しみなく捧げられています。 それが本当に美しいのは、ただ純粋にピクチャレスクというのもあるけれど、画家の心からの賛嘆も大なり小なり込められているからなのです。
ティヴォリという場所は、どれ程美しいところだろう!
誰も彼もがティヴォリに行かなければならないと唆します。
私もティヴォリの賛美者の輪に加わりたいのです。
古代からローマ郊外の景勝地として、多くの別荘が建ったという古い土地ティヴォリ。
世界遺産にも登録されているヴィラ・アドリアーナ、すなわちハドリアヌス帝の広大な別荘跡もその中の一つです。
とても交通の便の悪いというティボリ。仕方ないので、半日観光の現地ツアーで。本当は少なくともその二倍はティヴォリに費やしたかったものです。が、例え半分でも、私にとって行く価値がある。
土曜の道路は空いていて、朝9時には一番乗りで、ハドリアヌス帝廃墟に到着しました。
その辺りに住みついているらしい野犬と野良猫、そして頭上遥か高く、糸杉の並木の上から降る、耳慣れない鳥たちの合唱に迎えられます。
「この鳥の声は何でしょう?」
誰も知らない。愚問でした、私を含め普通の人が、生活圏外のこの小さな隣人の鳴き声で、その種類を言い当てられる訳がありません。
冬の朝の低い太陽。高原のようなぴりっとした、しかし穏やかな寒さ。
空気は湿り気を帯びて、ほの白く薄霞の中に、淡く長い影を引くオリーブの古木の林。その色彩は、輝ける銀色と明るい灰色。
廃墟は今や、鳥の住みかです。常に数種類の鳥の鳴き声が聞こえる。主に、澄んだ高音の早口のさえずり。歩みを進めるごとに、人に驚いて椋鳥ほどの鳥の群れが飛び立ちます。
すっかり化粧石の剥がされた壁をくぐれば、広々とした広場です。木はやはり整形されている。
ピラネージ<Veduta degli avanzi del Castro Pretorio nella Villa Adriana a Tivoli>
大体、こんな感じ!・・・というのは冗談として。
当たり前ですが、ピラネージのより、復元が進んでいるのではないかしら。いや、この壁は同種のものと思うけど、正直ピラネージの版画が後々のこの池のある場所を描いたものかどうかは、ちょっとわかりませんが。
ピラネージ<Avanzi di una Sala appartenente al Castro Pretorio nella Villa Adriana>
用途不明の殆ど崩れた半円形の壁と半ドームの痕跡。穿たれた壁龕が特徴的。確か「哲学の間」みたいな名前だったと思います。かつては、この窪みにいちいち何か彫刻でも置いてあったのでしょうか?
ここが廃墟と化して以来、再利用出来る部分はきっとすっかり採石されてしまったのでしょう。半円形の壁だけが残っています。
ところで、ピラネージの版画の日本語におけるタイトルが分かりません…。
用途不明の水をはった円形の空間、通称海の劇場。
幾重にも輪を描く壁と柱と池の縁、水の反射のリズムが華麗で面白い空間で、見所の一つ。
まさに絵のような廃墟が残る。
ヨハン・クリスティアン・ラインハルト<Avanzi della bibliotheca in villa Adriana>
この版画は、18世紀ももう最末期のものみたい。
ところどころに倒れた列柱と台座の跡。青く広がる空もこの柱の跡がある上は、きっと屋根に覆われていた。
今なお残る一部屋ごとに模様の違うモザイクの床。
どの模様も美しく、危うく全ての床を写真に収めてきてしまうところです。…とかいってこの床も復元だったらどうしよう?(笑)
崩れかけた今なお背の高い建築と、いかにもイタリアなひょろ長く頭でっかちな松、遠くに見える糸杉の細長いシルエット、こんもり見えるオリーヴの木、これぞ絵に描いたイタリア風景。
不思議なドリス式角柱の並ぶ広間だった場所。
どこを向いても、まるで絵のよう。
大浴場は一番のハイライトで、高い天上に、明かりとりの穴が開いています。
足組みの跡に出来た壁の四角い穴に、巣でもあるのか中型の黒い鳥が出たり入ったりしている。
ピラネージ<Rovine d'una Galleria di Statue nella Villa Adriana a Tivoli>
…ちょっとはピラネージのエッチングに近付けたかな!? この写真は、正直一生懸命、狙った。が、あの景色を100%再現することは、少なくとも簡単なデジタルカメラでは不可能でした。もっと広角なレンズなのかな。
かの時代は、草木が繁茂して薄暗い、きっとこんな感じだった。多分、ここだと思うのだけど、タイトル(彫刻ギャラリーの廃墟)が現代(大浴場)と違いすぎてて、本当にそうかよくわかりません。
驚いたことに、日本の銭湯みたく、人の声、靴音が、よく反響します。半分崩れたとはいえ、ドームの音響は不滅のようです。
ローマのお風呂も音が響くのだなぁ。
あの廃墟画の中でもとりわけ印象的なピラネージの絵には、もちろんこの反響は描かれていなかった。そうか、この絵の中の人たちの声や靴音も、しんとした中で響いていたのに違いありません。
崩れた天上から垂れる蔓草の野趣溢れること。垂れ下がる草ってピクチャレスク萌えポイントだと思うの。木漏れ日の美しいこと。この植物に呑まれたファンシーな廃墟が十八世紀には存在したのです。今は、発掘も進み、綺麗に整備され、石も剥き出しになっている。
あんまり白黒なので、やはりロベールにお出まし願えば、廃墟は大体こんな感じだったようです。
ユベール・ロベール<ローマの廃墟>(現代の通り名は知りません)
好き勝手に遺跡を生活に使う人達。こんな人たちは、ローマやティヴォリには今やいませんが、この構図はロベールの画興を多いに誘ったようです。
始めから分かっていることだけれど、本当はこの手の廃墟が本当にアルカディアの霊気を帯びるには、もっと豊かで生命力旺盛な植物が必要です。つまりは、「人工」と対比しながら調和する「自然」が。
牧歌の舞台はもちろんそのような自然があるところなのだから。
アルカディアは常に廃墟の石くれのように、断片として私の眼前に現れます。
結局、遠くに霞むアルカディアを垣間見るには、現実の世界に転がる断片を集めないとなりません。
それで再び大建築を創れたらいいのだけれど、一体それにはどれだけの石材と技量が必要なことか。蒐積物も、せいぜいが個人的な小グロッタなりヴンダーカンマーなりに飾るが関の山です。まあ、アルカディアとは、多分、始めからそのようなものなのでしょう。
……誰か日本語でアルカディア論を網羅して建築している理想の書物など無いものでしょうか。
本当にこういう露天風呂あったら最高ですね。……ハワイ風の温泉施設なんか作ってないで、今すぐハドリアヌス風の温泉施設を作るべきだ。
ところで、割と本気でテルマエ・ロマエは観てから行けばよかったです。何か銭湯の穴にでも吸い込まれてローマの浴場にタイムスリップしないかな!(笑)
あの話、多分ちょうどハドリアヌス帝時代というかハドリアヌス帝の話だったはずです。
この別荘跡のピクチャレスクさのためだけに、私はハドリアヌスが大好きなのでした。実はハドリアヌスがいつ頃に何を為したか歴史的なことはよく知らない。
ローマのお風呂は夢です。
ユベール・ロベールのテルマエ・ロマエはこんなの…。
ユベール・ロベール<The Bathing Pool>
絶対、違う。でも、何となくローマ。分かるよ、その気持ち(笑)
相変わらず突っ込みどころ満載のドリーム炸裂が大好きです。
ついでにエルミタージュ展にやってきたお風呂もどうぞ。
ロベール<ローマの公共浴場>
廃墟のロベールは、始めから廃墟を新築することも厭わない男だと思います。
こういう大江戸温泉物語みたいな観光施設無いかな!?
ちょっと脱線しました。
とても感動した一画。
お風呂の天井。まだわずかに残る、装飾。これが全面に貼ってあったらどうだろう! いかにも脆そうなそれが、よく時の流れに耐えたという驚きと、すっかり失われも不思議でないと思われるものが残っている喜び。この残骸しか見えないのに、想像の中で極美のものに変わります。
とっても巨大な建物。倉庫の跡だとか。
ピラネージ<Rovine di uno degli alloggiamenti dè Soldati presso ad una delle eminenti fabbriche di Adriano nella sua Villa in Tivoli>
人像柱とワニの彫刻のある長方形の池は、絶妙な場所に生きているかのようなワニの彫刻が置かれていて、エジプトの運河の記憶が反映されているそう。で、エジプトで溺れ死んだハドリアヌス帝の愛人アントニウスを記念しているのだとか。片側が屋根付きで、かつては人像柱が並んでいて壮麗だったに違いない。
ピラネージ<Avanzi del Tempio del Dio Canopo nella Villa Adriana in Tivoli>
遺跡だけでなく、周りの年さびた木々が美しい。
帰り道の両側も、壮麗なる糸杉の並木。陰る空、聳える梢、うねる幹。
これが糸杉!
根を広く張らず、高く真っ直ぐ伸びるという糸杉。日本には普通には生えていないこの樹には、ローマの松とともに強烈な異国情緒を感じます。それでいて、数々の名画で親しんでいる、という不思議な愛着をも覚えています。
糸杉の表象。昔からこの樹に何かしかの人間の思いを乗せてきた、その糸杉。
頭上枝葉の間から一羽の鴉の、がらがら鳴く声。
……糸杉に鴉、ロマンチック! 君、分かっているね。(まあこのような背の高い木がいつだって鴉のお気に入りなだけなんだろうけど。)
蒼古なる廃墟の禽よ、君や何と啼く。
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糸杉といえば、私が最も好きな素描に描かれた、あのヴィラ・デステの糸杉は、250年経った今でもまだ生えているのでしょうか?
かつての貴族の館、バルベリーニ宮殿は今や美術館となっていて、やはりイタリア美術を中心に名画を所狭しと並べてあります。
偶然ですが、空にカモメが写ったのが嬉しい。
午後四時頃、でしょうか、殆ど誰も中にいなくて、寂しいくらいの独り占めです。
いちいちの部屋に天井画があって、一番始めに入った部屋で見たものが一番覚えやすくて好きでした。
一面空色に塗られた中に様々な種類の鳥たちが飛んでいます。
応時は壁もフレスコの装飾などで覆われていたのか知れませんが、壁はどこも一面の白。
一部屋だけ、薄暗い中に噴水があり、壁の装飾がすっかり傷んで僅かに形跡だけを残している。かつては、騙し絵による屋内庭園の趣だったのでしょうか? 今はまるでファンタジックな洞窟のよう。
一階だけでなく、二階も展示室。二階へは、いったん外へ出て屋外の階段を上らねばならない。
石造りの古い階段。蜂の紋章が所々。
さて中身は。
ブロンズィーノが気持ち悪かった。ごく普通の甲冑を来た男性肖像。のはずなのですが、表面の異常なほどの滑らかさが、何だかぬらぬらしていて、気持ち悪い。
ボルゲーゼでも、にょろりとしたプロポーションを持て余すように地面に座ったヨハネが、病んだ顔していてやはり気持ち悪かったけど、こちらも、入念で丁寧な仕上げのはずなのに、執念深すぎて気持ち悪いという不思議。
グエルチーノに出会う。ああ、この絵はここにあったのか…(笑)プーサンの前になんでもなく飾られている。
グエルチーノ<Et in Arcadia Ego.(アルカディアにも我あり)>
この絵も、私がどうしてもイタリアに少しでもいいから行かなければならなかった理由の幾ばくかを負っています。
…ある程度詳しく?はこちらの過去記事をご参照ください(笑)→アルカディアの墓についての徒然。
案外にそう大きくない絵で、全体的にダークトーンでぱっと目立つ訳でもありません。
しかし、まあ、君が起点だ。斜視なる本名ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリに敬意を!
カラヴァッジョは面白かった!ナルキッソスにユディットとホロフェルネス。
カラヴァッジョ<ナルキッソス>
本当にショッキングな程シンプルな画面。地面と水面とがちょうど潔く真ん中で分けられている。殆ど同じ上下反転した人物。ほんのわずかの違いで、水鏡を覗いている人だと認識できる、多分ぎりぎりのシンプルさなんじゃないだろうか。
カラヴァッジョ<ホロフェルネスの首を斬るユディット>
確かに、アルテミシア・ジェンティレスキより、ずっと弱々しい(笑)
参考図版。アルテミジア・ジェンティレスキ<ホロフェルネスの首を斬るユディット>
ちょっと骨とか斬りにくいなあ、みたいな眉をひそめているものの、案外のんびりした顔して、多分カラヴァッジョは、首を斬られる側により感情移入していた気がします。
オラツィオ・ジェンティレスキ<ホロフェルネスの首を持つユディット>
ヴァチカンにあったパパのジェンティレスキのユディットは、やはり男性目線な感じがします。一番、ファム・ファタル的な夢が入っているというか。多分、無意識に。でも格好いいよね。
同じ部屋で、ついにマンフレディの絵を見た。でも、図像すっかり忘れた…。
カラヴァッジョとセットになって出てくる、マンフレディ。しかし図版が載る事のないマンフレディ。因みに、「カラヴァッジョ=マンフレディ様式」ってマニアック?(マニアックかどうかも分からないし、生きている言葉なのかも分からない(笑))な専門用語のみで何となく頭に入ってるマンフレディという固有名詞。おそらく、早死にしたカラヴァッジョの後を引き継ぎ、通俗化して広めた人…なんじゃないかと勝手に思うのですが…いえ、「カラヴァッジョ=マンフレディ様式」について、何の説明も無くて類推するしか…。どうしても図版の無い人、きっとカラヴァッジョの劣化コピーみたいなものだったのかなぁ、ちょっと見てみたいな。とか思っていたのに、これっぽっちも何の絵だったかも思いだせない。おかしいな・・・? これがマンフレディ・クオリティてやつなんだろうか…。
そして、別室にあるベアトリーチェ・チェンチの肖像。
グイド・レーニ<ベアトリーチェ・チェンチ>
いつ見ても感動的です。本当に美しい絵。お涙頂戴の気配が全く嫌らしくないのは、やはり画家が心から同情していたとしか思えません。
振り返る彼女が前に向き直ったその先には、首を斬る処刑台がある。彼女の最後の一瞥と笑顔。
首を斬られる人を描くために、カラヴァッジョが彼女の公開処刑を見に行った、とかそうでないとか、伝え聞いていますが、私は確かな出どころは知りません。
面白い彫刻。ヴェールをかぶった人の彫刻。全て石なのに、透けたヴェールをかぶっている。
ピエトロ・ダ・コルトーナの巨大な天井画のある天井の高い巨大なホール。光沢のある布の壁に、小さな窓から、黄昏時の光が反射しています。
ピエトロ・ダ・コルトーナ<神の摂理の勝利>
天井が突き抜けて天国まで見えるかのような効果で描かれています。はるか頭上高く、雲に乗って舞う人々。
…が、実は多分、言う程はよく見えなかったのです。巨大過ぎて視野に収まらないのと、黄昏の暗さと、生来の視力の悪さで。
「空飛ぶ人々」などと言ったけれど、実際は、殆ど明るく光る一人くらいしか、多分きちんと見えていない。とにかく暗くて、ようやく3匹の蜂さん(バルベリーニ家の紋章)を見分けられるくらい。うーん、真っ当に見るには、予め画像をはっきり頭に入れておいて、見えないところを記憶で補う必要があったようです。
夕方は、この天井画を見るに、最良ではないかも知れません。
ただ、(負け惜しみを言えば、)何かその暗さと広さと静かさが、現実的な感覚から自分を拉し去り、自分こそがその空間の異物かのような、この世ならざる感覚を誘います。宴のあとの寂しさ、過ぎ去った時の哀愁。
我々は裏口のようなところから入ってきましたが、おそらくここがこの館の中心で客を迎えるのもここなのでしょうか?
廊下の窓から日没を眺める。今朝見たようなテンペラの黄味がかった群青の輝きの中に、石造りの建物と松のシルエット。
館を出て、再び屋外の階段。ライオンさんがお見送り。
あれっ、この浅浮き彫りのライオンさんも古代ローマの何かだったりするのだろうか…?似たものに見覚えが…。
ジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージ<牢獄>(第2版5葉・ライオンの浅浮き彫り)
外に出れば冬の街はすっかり日没。再び地下鉄に乗ってテルミニ駅前の宿まで帰りました。
後々、帰国後に私は私にとって重大な見落としがあったことに気付きました。
ボロミーニ設計の、楕円形の美しい螺旋階段があるのが、このバルベリーニ宮殿だということです。
向こう側には何があるのだろう、と思いながら通り過ぎたあの向こう側にあったに違いありません。本来なら何よりも優先して見たかったはずです。
とても悔しい。
もういいまた行く。
<<目次へ戻る <ボルゲーゼ編 ハドリアヌス帝別荘廃墟編>
バロック美術の素晴らしいコレクションを誇るボルゲーゼ宮の、横手の小さな庭には実のなるオレンジとレモンの木が交互に植えてある。木々の間から珍しい鳥の声がする。
奥のいかにもな人型の彫刻だの、植物の幾何学な模様だの、丸く刈り込んだ木だの、イメージに描くイタリアそのまま。
美術館に入る前に、このボルゲーゼ公園の前の小さな売店で、冬が旬という赤いオレンジの生搾りジュースを飲む。ホテルの簡単な朝食後は飲まず食わずなので、コップ一杯オレンジ4つ分ほどを一息に飲んでしまいました。それもあって非常に美味。因みに、午後1時頃。これが結局この日の昼食。
さて、玄関口の古代彫刻の断片に迎えられながら中に入ると、そこは広いホールになっていて、入り口の正面には、この期間だけ特別に他の場所から貸し出されている祭壇画が置かれていました。
フラ・アンジェリコ<受胎告知>
フラ・アンジェリコの受胎告知…! まさか、受胎告知の画家(だと私は思っている)フラ・アンジェリコの受胎告知が見れるなんて? わざわざ、本来この美術館にないのに? 彼の絵そのものを鑑賞する前に、そんな運命的な偶然に心踊るのでした。つまりは、既にこの時点でフラ・アンジェリコに対して、まっすぐな目線は持てず、初めから「素晴らしい」というバイアスがかかっているということ。
プレデラの部分は飛ばしますよ(笑)
極めて美しいアーチの建築空間と金の翼の天使が降りてきた閉ざされた庭園。奥でアダムとイヴがエデンを追放されている。その原罪とは無縁の中庭で、原罪の贖い主が金の言葉でマリアの体内に宿る。
バチカンの聖ニコラスの光はそのままに、より見やすい遠近方のアーチの連なり。ゴシックの名残とも見れる金の豪華さ、本当、2枚目にしてフラ・アンジェリコはすっかり私を虜にしてしまいました。
ボルゲーゼは写真撮影禁止でしたので、写真はなし。
個人コレクションが核になった美術館は、どれもその個人の趣味が反映されて個性的で面白いものです。カラヴァッジョを始めとする数々のバロック美術、何といっても、ベルニーニの代表作にしてバロック彫刻の傑作を所蔵するボルゲーゼ美術館。ベルニーニといいコレッジョといいクラナッハといい真面目な顔して全体的にちょいちょいエロティックなものを混ぜて来ます。
展示の手法もバロック風で、小部屋などは中央に置かれた彫刻に合わせて装飾が組み立てられています。作品そのものだけでなく、天井から壁から、装飾の粋を尽くした館全てが美術館というやつで、有体に言えば、昔のヨーロッパの豪奢な貴族っぽい歴史的な雰囲気を楽しめます。天井画などは余りに綺麗で、どこがオリジナルかひょっとして全て復元なのか知れない。
例えば、アポロンとダフネ。天井画も、壁に掛かる絵もアポロンが主題。
(彫刻なので、もしでしたら外部リンクで画像を確認して下さいな。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Apollo_and_Daphne_(Bernini)
この名高いアポロとダフネ。翻るアポロンの衣が螺旋に渦を巻いて、女性のように滑やかで細く引き締まった彼の足――それでもダフネの足よりは十分男らしい――その片足が後ろに投げ出されて、今の瞬間まで走って来たことを物語ります。ダフネはまさに月桂樹となろうとするところ。仰け反る体と、根や葉と化して細く枝分かれしつつある指先、足先のほのかな痛々しさ。
体を覆い始めた木のざらざらした質感が、滑らかなダフネの肌を強調します。この女性の柔肌というものに、どれだけベルニーニが執着したかが知れます。
例えば、ミケランジェロとカラヴァッジョ(どちらもミケランジェロなのだけど…)は、多かれ少なかれホモっぽいところがある。どれだけホモかはここでは論じないことにして(あれ、友よ、ひょっとしてそういう話を期待しますか(笑))、でも一方でベルニーニは、全くそちらの方面には縁がなさそうで、まあ、女性が大好きだったことは確かでしょう。
女性に対するとんでもない観察眼は、サトゥルヌスとプロセルピナに多いに発揮されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Rape_of_Proserpina
冥府の王の武骨なごつい指が、持ち上げた乙女の脇腹や太ももに食い込んでいる。プロセルピナの方は泣きながら目一杯に抵抗して身体を捻り、結局鑑賞者は、一番形が混み入って目立つところ、サトゥルヌスの手のあたりに目が行くという訳です。
この視点、発想。それが、大理石とは思えない弾力、柔らかさで確かに実現されているのですから、やはりベルニーニの着想だけでなく、技巧にも感嘆せざるを得ません。
ダイナミックにポーズを決め、お互い攫おうとしたり抵抗したりで鑑賞者を気にする余裕のない神々の足元で、ざらついた毛並みのケルベロスが彼らを支えながら鑑賞者を見ているのが、ちょっとユーモラスで個人的に好き。本来物語には登場しない三つ首犬が、彫刻の重心という目的の為に冥界からわざわざ連れ出されている。あの世のセキュリティが少し疎かになってもペルセポネを略奪したかったのです。
もっと前に作られたという同じくベルニーニのダヴィデは、今、宿敵ゴリアテに向かって投石しようと全身に力を溜めたところ。顔も不細工なほど唇を噛んでそれを強調します。このブサイクを恐れないデザインセンスがバロック!
次の瞬間には、放たれた弓弦みたく、全ての力を石に注ぐのでしょう。素晴らしいものですが、アポロとサトゥルヌスと比べてしまうと、やはり野郎は地味です。
ナポレオンのイタリア人主席彫刻家、カノーヴァのギリシア風の薄衣を着けた半裸の婦人肖像。
http://it.wikipedia.org/wiki/Paolina_Borghese_(Canova)
生身の人間を写したコスプレ肖像で、ガイドさんによれば、当時は上流の女性をこのように露出度の高い格好で表現するのはけしからんと批判されたのだとか。…そういえば、似たようなダヴィッドのレカミエ夫人も何か同じような不興をかっていた気がします。
ダヴィッド<レカミエ夫人>
動きの一瞬を捉えたベルニーニと、びっくりさせる事はないけれど、不動に落ち着いたカノーヴァと、芸術上の目指す理念の違いを見比べることが出来る。だろうと思います。…このような言い方をするのは、実際現地で見比べていた訳ではないので(笑)
正直に白状すれば、カノーヴァよりベルニーニが見たかったので…。
ヘルマプロディトゥスが背中を向けて横たわっている。部屋の奥へは入れないので、言われなければうつ伏せに横たわる女性に見えます。後ろ向きのヘルムアプロディトス。言葉の上ではやや詩的な感じさえします。そして、やはりボルゲーゼ美術館はこういうねたが好きなのではないでしょうか…。
シンバルを持って踊る古代のサテュロス像の部屋。最も部屋の内装と彫刻が同調した部屋だったと思います。
中央にシンバルを打って踊る荘重なサティール像、天井画は陽気な山羊足の粗野な仲間達が縦横無尽に手すりによじ登ったり、梁のメダイオンや柱に青いリボンをかけながら、部屋の人々を見下ろしています。現実以上にくっきりした輪郭のサテュロスたち。絵画のイリュージョンの力をもってして、神話の世界から現実の邸宅に空想の生き物を呼び出す昂揚感はいつでも面白いものです。
現地に行かないとそのイリュージョンの力を体感出来ない図版にも再現されない(そもそも図版にならない)こういう天井画が、まさに旅行の醍醐味です。
絵画について。いちいち言うと本当ににきりがない。以前、日本の特別展で見たものと再会したり、再会ならず残念だったり。密かな大ファン、ホントホルストのスザンヌ見たかったなあー。やはりボルゲーゼ好み(?)の。
初期(多分)と後期と見比べることの出来るティツィアーノ。予想以上に聖愛と俗愛は綺麗だった。
そしてカラヴァッジョ。
本当、カラヴァッジョがごろごろしている。
美術館のショップで、「Il Liuto der Caravaggio(カラヴァッジョのリュート音楽)」というタイトルでにやりなCDを購入。
こういうタイトルを関するCD、ついつい集めちゃったりしてます。血眼になって探さないけど、見かけたら買っちゃう。ちなみに、他に「ゲインズバラの為の音楽」「ヤン・ステーンの音楽」「フランス・ハルス周辺の音楽」など持ってます(笑)
で、このCDも素敵だった。
ひたすらカラヴァッジョ時代のリュート曲を独奏しているものですが、黒背景的な雰囲気がいい! リュート曲の詳しいことは分からないけれど、やっぱりチェンバロには無い、フレットノイズが生っぽい音で格好いいのよね。わざと立てるものなのか、立ってしまうものなのか知らないのだけど。
さて外へ。
外は一帯公園で、ボルゲーゼの公園は地図で見ると、とても広大です。その中にも興味を惹くものはありました。しかしもちろんのんびり回っている時間はありません。こんな場所も、まだ見ることが出来るのでしょうか?
ベラスケス<ヴィラ・メディチの庭>
ボルゲーゼ公園のそばにあるということです。
丘の上にある庭園から長い坂道を降りて、次はバルベリーニ宮殿へ。
<<目次へ戻る <ヴァチカン編 バルベリーニ編>
体内時計の時差を合わせる暇もあらばこそ、1日目が始まります。
本日の予定は、バチカン美術館→ボルゲーゼ美術館→バルベリーニ美術館。
あらかじめ、朝から晩まで3つの美術館を回るという、贅沢にしてハードなツアーに申し込んでいて、ガイドさん案内のもと、ローマで最も大きな駅のテルミニ駅から地下鉄に乗って、まずは法王退位に浮き足立つバチカンへ向かいます。直ぐ隣のサン・ピエトロ大聖堂はまた別日。
絵画館に入る前、テラスからバチカンの庭の一部を見下ろす。中は立ち入り禁止。中心に泉のある整形庭園は、塀で囲われて、道に沿ってオレンジの実る鉢植えが置かれています。イタリアでも冬は柑橘類の季節。
バチカンが各教会から集めたというピナコテーカ(絵画館)そのものは案外普通の美術館で、もちろん内装は重厚な雰囲気たっぷりですが、ゴシック辺りから名だたるイタリア美術をまんべんなく時系列に見ることが出来ます。
ジョットの殆ど完璧な祭壇画。これほど完璧なジョットは初めて見ます。
ジョットの祭壇画
フラ・アンジェリコの聖ニコラウス伝。画面はどこも明晰、いかにも初期ルネサンスな線遠近法、全体は非現実なほど輪郭線で区切られ、だけどぱりっとしつつも柔らかく、清らかな光に満ちて、たった今描かれたような鮮やかさ、滑らかさ。
フラ・アンジェリコの聖ニコラウス
この小さな絵は非常に気に入って、ほとんど知識として覚えているに過ぎないフラ・アンジェリコを、フラ・アンジェリコとして初めて認識させました。
実を言えば、フラ・アンジェリコを目的としないこの旅行中後々にも、この画家とは度々すれ違うことになります。
フラ・アンジェリコ。すっかり誰よりも気になるルネサンス画家の一人となりました。
フィリッポ・リッピの艶っぽい聖母子像。
どこかの教会から剥がした奏楽する天使のフレスコ画断片。傷んでいるものの、恐らく天井の方を飾っていた天使達を地上の目線で間近に見る。もちろん、奏楽の天使は私の無条件に好む画題なのです。
メロッツォ・ダ・フォルリの奏楽の天使
初期から中期、そして後期と見比べることの出来るラファエロ。しかし一番気になったのが隣にあったタペストリー。
???飛び出す3Dタペストリー。もとは大きなタピスリーの一部。これは何?このむさいおっさんは誰?
グイド・レーニにカラヴァッジョ。日本の絵とだいぶ違う足元に薔薇の散るザビエル像。
最後に、理想風景の中にいるアダムとイヴ。
ヴェンツェル・ペーターのアダムとエヴァ。
蛇から林檎を受け取っているところですが、彼らは小さく描かれ、主題はそれではありません。生き生きとした表情豊かな楽園の被造物たる動物たち。身近なものからエキゾチックなものまで博物誌的に描いてあります。周りに同じ多分ドイツ人画家の絵が掛けてあって、やはり動物画。シマウマ、ライオン、虎、梟、科学的興味に相まって、表情豊かで心底動物が好きそうな画家の感情移入を感じられる描きぶり。
ヴェンツェル・ペーターの梟ちゃん。正直、ラファエロよりかわいい。
やはりバチカンにあっても、こういういかにも啓蒙の時代らしい絵に反応してしまうのは、もはや第二の習性です。
でも、このように野生の動物を個性ある存在として、感情移入した書き方をするのって、18世紀以前にはあまり無かったのではないでしょうか? 私が無知なだけかしら。
ちなみに、離れた棟にシャガール、マティス、ダリなど近代的な絵画もありましたが、そこはツアー的に素通りとなりました。
絵画館は普通の間違いない名画ばかりですが、バチカン美術館の白眉はやはり古代のコレクションです。
松ぼっくりの中庭を通り抜けて、美しいグロテスク模様の描かれた階段へ。
建築そのものが、彫刻を飾る壁龕となっているのが面白い。松ぼっくりは豊穣のシンボルで、古代ローマのものだそう。ヴァチカン美術館は、掘り出したものを適当に格好良く組み合わせて、構成してくる、まるで生の奇想画(カプリッチョ)!(色々ばらばらなモチーフを空想で組み合わせた絵のこと。)カプリッチョなるものは、昔からのローマの習慣に過ぎないのかも知れません。
グロテスク階段は古代ローマの遺跡の壁に描かれていた文様を模したもので、発見場所は地下に埋もれて洞窟(グロッタ)のようだったのでグロッタ風=グロテスクという。もちろん、今の世で普通に言うグロテスクの元の言葉ですが、バチカンのこのグロテスクは、繊細にして派手からず地味からず、余白とのバランスが絶妙で趣味がいい。
ヴェルヴェデーレのアポロン、ラオコーンのある八角形の中庭。
その八角形の青空から射す陽光が、一見無造作に置かれた古代彫刻に強い陰影をつけています。
アポロンは改修中で柵に囲われて、肩の上を正面からしか見ることが出来ない。少し残念だ。
残念なアポロン。
因みに、このアポロン像の写真は、なるべく多くの部分を撮ろうと、腕をめいっぱい上に伸ばしてシャッターを押したものです。
床に敷かれて誰からも踏まれている古代のモザイク。
もとは浴場の床でしょうか、どれも水に因む神や怪獣がモチーフです。その白地に黒い塗り潰しの怪物たちの生き生きとしたこと。そして、それを恐らく元有ったように床の上に見て、古代ローマと目的違わず足の下に踏めること。
パンテオン風の天井から注がれる柔らかい陽光を受けて、堂々たるハドリアヌス帝とその愛人アントニウスの胸像。天然の光が直接に射して彫りの深い顔の一番高い所に反射する。
明日は、憧れの観光地、この人の別荘の廃墟へ行くのだと思うと、特別な、多少他の彫像より親密な気持ちで見上げてしまいます。幸いハドリアヌスは、顔立ちに特徴もあるので、尚更親しみやすい。
周りの遺跡から掘り出してきたであろう古代の素晴らしい遺物が、あちらの壁際、こちらの窓辺、所狭しと並べてあります。彫刻の台座もまた別の遺物という。
本当にイタリアはローマの遺産で食べている。こんなに素晴らしいコレクションが何百年も前からごろごろしているとは。そして、ここが遺産の全てではない。……あらゆる画家の創意が尽きなかった訳です。
そしてそれが、誰にでも公開されている現代の幸福!
どこの廊下も凝った天井画で、好きでした。一番のお気に入りは、漆喰装飾のように描かれた天井。特にどうというものではないけれど、グリフォンなどの白いレリーフモチーフが、菫、青、黄の地に軽快に描かれ、現代に近い室内装飾センスが、装飾しかない建物のなかで快適です。まあ、多分、近代のもの。
ラファエロやミケランジェロの詳しい事は、ものの本に任せようと思いますが。
ラファエロの間へ。かねて聞いていた通り、窓からの実際の光と画中の光と呼応して、同じ方向に影が出来ています。しかし窓の光よりずっと穏やかな光は、画中の何十人もの人物達の色彩を完璧に統率しています。
図版ではよく見るこの半円形の壁画ですが、なかなか面白いのはその下の部分。
図版に載らないから、ラファエロが描いた訳ではないのでしょうか、主役のフレスコを支える人像柱やその他の建築要素の目騙し的な装飾。
が、ラファエロだけなら落ち着いて、意外と過ごしやすい部屋かも知れませんが、この下部の装飾は案外煩い。
さて、ラファエロを見にこの部屋へ来た我々ですが、本来は、ラファエロのための部屋ではないはず。しかし、この装飾しかなくて落ち着かない場所で、一体ラファエロ鑑賞以外の何が出来るというのでしょう。
システィーナ礼拝堂。鮮烈。色だけでなく、輪郭も厳しく鮮やかに、実際に見るよりはっきりと、場面と場面の間の預言者たちは本当に彫刻のように、壁面の手前に浮きだしている! 確かな重量感と存在感、しかし天地のない天井で、地上の重力を離れた浮遊感。いいえ、決してよる辺なくふわふわしているのではなく、確固として在る。
ただ、宗教画かと言われると、どうもはっきり言えません。あるのは思想というより、人体を越えた人体です。建築とか、絵画とか、彫刻である以上に、ミケランジェロ。
二重螺旋の階段を降りて出口へ。非常に美しい階段、奈落の底へ導くかのような素敵な空間ですが、妙な傾斜でとても降りづらい。だんだんブレーキが利かなくなって、転ぶと多分…下まで止まらない。
さて、タクシーに乗ってボルゲーゼ美術館へ!
<目次へ戻る ボルゲーゼ編>
余談。螺旋階段というのも、ルネサンス以降流行ったようで、螺旋階段の美術・文化史みたいなテーマ、面白いかも知れない。
ユベール・ロベール<カプラローラのファルネーゼ邸螺旋階段>
上の写真を撮るために、微妙に画中の人と同じことをしてしまった・・・。
でも、やるよね、素敵な螺旋階段で。吹き抜けを見上げる&覗きこむって。
Et ego in Arcadia!
イタリア旅行記を書くにあたっては、この言葉から始めないとなりません。
18世紀に大流行したイタリアへの旅行は、まさしくこの言葉がテーマだったように思います。少なくとも、私にそうだと錯覚させるには十分なほど、18世紀の私の愛する人たちはみんな、絵なり文章なり音楽なり、それぞれのやり方で口ぐちにイタリアを褒め称え、イタリアへの愛を表明しています。
イタリアこそが愛と詩と美と夢の神話の地アルカディアであると。
素晴らしい「イタリア紀行」をものしたゲーテ氏も、その一人でした。
イタリア紀行の記述によると、彼は悪魔とロマンの北国(笑)ドイツにいて、夢のイタリア行きたい病に感染し、ついには夢のイタリアに自分がいないジレンマに一葉のイタリアの版画さえも見られなくなり、この病を治すにはイタリアに行くしかないと決心した、ということです。
ゲーテのイタリア紀行の素晴らしいところは、人間の情念の塊であるロマンに疲れていたゲーテが、イタリアの旅行を通して、何か新しい自分へと「再生」していく、そんな様子が(おそらく意図的に)追体験できるように描かれていることです。
そもそもゲーテはイタリアこそが自分を再生へと導く、そんな国だと思い定めていたのでした。
ゲーテだけでなく、旅行者はみんなイタリアに対して、初めから先入観としてアルカディア色のフィルターを掛けています。
そのアルカディア・フィルター、あるいは現実の風景をわざと理想風景画風に映し出すというクロード・グラス的なものが余りに美しかったので、いつのまにか私自身もすっかりちょっとしたイタリア病には掛かっていたのでした。
参考:ゲーテにイタリア病を感染された過去記事
さて、イタリア旅行の記事を書くにあたって、とりあえず書き出しだけは壮大にしておこうと思って、このような能書きをでっち上げてみましたが、この書き方を100倍に希釈したのが、実質4日の当イタリア滞在記録でございます。
イタリアが美術に与えた影響は今更言うまでもないし、言うには大きすぎる問題なので言わないけれど、ようするに、西洋の美術が好きな人間は、イタリアを避けては通れない訳で、イタリアであるというだけで、旅行に出かける動機になるという訳です。
ポケットにいっぱい遺跡や美術のかけらを詰め込んで、なるべく沢山持って帰りたいの。その断片で、庭にフォリーやグロッタを作るわ。その庭園の真ん中にはローマの噴水盤を。
カミーユ・コロー<ローマ、アカデミー・ド・フランスの噴水盤>
目次~~~~~
1、第1日目―ヴァチカン編
2、第1日目―ボルゲーゼ編
3、第1日目―バルベリーニ編
4、第2日目―ヴィラ・アドリアーナ(ハドリアヌス帝の廃墟)
5、第2日目―ヴィラ・デステ(エステ荘)前編・邸内
第2日目―ヴィラ・デステ(エステ荘)後編・庭園
6、第2日目―カラヴァッジョ、ベルニーニ、ボロミーニの為のバロック聖堂巡り
7、第3日目―ボマルツォ怪物公園
8、第3日目―チヴィタ・バニョレージョ、
9、第3日目―オルヴィエート
10、第4日目―サン・ピエトロ大聖堂、コロッセオ、フォロ・ロマーノ、気ままに町歩き、サンタ・マリア・マッジョーレ
予め言っておかなければならないのは、上の記事はすべて主観のみの産物だということです。正確な観光情報などは全く含みませんので、ご了承くださいませ。