4月は忙しくなりそうで、いつ書きあがるとも知れないので、途中でアップ。
まだ、書く事が整理出来ていないでところどころ文脈崩壊しているけど、まあ、新品の廃墟状態(笑)で記事挙げます。
ユベール・ロベール展見に行きましたとも!
どこまでここでお話出来るか知れないけど、その感想は。
まずは…展示を見て、初めてあれほど沢山なロベールを見たけれど…
どうやら私は彼を弁護しなければなりません。
何というか絵だけを見ると、ユベール・ロベール、ひょっとして油絵より赤チョークの素描の方が上手いような(笑)
素描の、闊達で淀みない颯爽とした筆致は、的確な細部の省略で明暗とものの形と空気を鮮やかに描き出します。
が、丁寧なタブローになると、色はやや濁って明るく穏やかで綺麗だけど、何だか奥行きやその画中に漂う空気が、浅い。(まあ、彼の価値はそこではないけど)
で、豪華なゲスト陣に名画オーラで負けてるというか(笑)
とりあえず、一番の感想は、クロード・ロラン半端無え、だった事を白状します。二番目は、ブーシェ先生のきらきらっぷり飛び抜けてる☆ あれ、ロベールを見に行ったのにな!
かつてル-ヴルで、もっとラフで寛いだ筆致のロベールの小さな廃墟が、それとそっくりの画風のフラゴナールと並んでいるのを見たけど、そういう素描みたいな油彩の方が面白かったな~。
さて、そんな訳でそれでも挫けずロベール愛を語ります。そういう残念なところもいいよ、ロベール(笑)
それでも、まろりーの代弁者であることには変わらないのです。
初めはユベール・ロベールの肖像。作者不詳だけど、原画は仲良しらしいヴィジェ=ル・ブラン。
真面目な顔で在らぬ方向を見つめて芸術的な霊感を受けているご様子。
そのヴィジェ=ル・ブランの伝えるロベール像を何かの本の引用で読んだけれど、嘘か誠かそれが私のロベールイメージだったりします。
ロベールは、さる宴会の折り、軽業師のコスプレで登場したかと思うと、おもむろに床に一本の白線を引き、その線の上をいかにも綱渡りをしているように歩いてみせたので、場は大爆笑であった、と。
この顔…やりそうな顔だ。教養深く社交上手で快活な人だったそうです。
さて、次がユベール・ロベールの源流として紹介されているクロード・ロランとサルヴァトル・ローザ。
正直、この二枚がこの展示の最大のクライマックスな気がします(笑)
クロード・ロラン<笛を吹く牧人のいる風景>
クロード、本当半端ない!
彼がこの種の絵を描いてこの方、彼に対する讃美が止まない訳です。 この世ならざる輝きに満ちた大気。何より画面を満たして全てに調和をもたらすこの輝く大気。大きく育った木々の中、古代風の神殿が配されて、古代風の服の人物たちが居て、笛を吹く人がいて、サトゥルヌスの黄金時代もかくやというばかり。
重くなく軽くなく、悲劇でも喜劇でもない、これ程の壮麗さは、確かにロベールにはないものです。
十八世紀も相変わらず、模範で在り続けたクロード。
現実の風景にクロードらしさを求め、特に風景画を好むイギリスでは、クロードの絵のような実際の風景に出くわすと大喜びで、その風景を額入りのわざと黄ばんだ鏡に映して、「まるで絵のようだ」と楽しんだのだとか。
そして、そんな風景がそこかしこにごろごろしているのが、クロードが描いたような廃墟に富んだイタリアだった。というより、クロードの絵の霊感源はイタリアの風景だから、イタリアがクロードっぽいのではなく、クロードがイタリアっぽいのだけど、その辺が錯綜してしまうのが、現実に絵画の虚構を求めるピトレスクの美学。
果ては自分の庭園にそんなピクチャレスクな風景を人工的に作り出したり(素敵な木を植えるに留まらず、新品の廃墟を建てたり、完全な建築をわざわざ半壊させたり!)、それが新しい庭園のスタイルとしてイギリス式庭園と呼ばれイギリスを越えて流行しだしたり。
この流行は、後々ロベールの芸術活動に深く関わって行くことになります。
さて、クロードは規範ではあったけれど、十八世紀の画家たちは、ただの模倣に終わらない新機軸を打ち建てようともしていたのでした。
模倣から抜け出す為に一番推奨されたのが戸外での外光のもとでのスケッチ。ロベールの数々の赤チョークによる素描はそのような背景で制作されていったのですが、ロベールの素描は、単なる油彩の練習ではありません。モノトーンにはなるけれど、それは油彩以上に彼の素直な気分、とりわけ自分が目にするものを賛美する気分を表しているようです。
ユベール・ロベール<ボルゲーゼの壺>
そしてロベールの新機軸は、これは私の印象に過ぎないけれど、クロードのバロック的壮麗さと引き換えに、神話を等身大の人間サイズに引き下ろしたこと。
廃墟はクロードの神話と繋がっているけど、そこにいる人たちは、紛れもなく我々観者と同じ世界の人間です。廃墟を日常として使っている洗濯女、羊飼い、地元人、発掘者や観光客など。遠大な神話という化石のようなものと、小さな一個の血の通った生身の人間と、そのあわいで媒介しているのが、ロベールの廃墟なのです。
そんな廃墟など個々の対象に焦点を置き、いとも易々と、軽々と、饒舌に、その対象を積み木のように組み合わせて空想や観光地の記憶に戯れる愉悦がどの絵にもあらわれています。
ってこの文章は、あとに配されるべきものかな。要推敲。
そしてサルヴァトル・ローザ。これが、名にし負うローザ!
サルヴァトル・ローザ<メルクリウスのいる風景>
って、ローザの絵は購入したカタログから移さないと駄目っぽいので、今は似たような図で代用。
ローザの絵は、何となく格好いいなーと思いつつも、まだまだ詳しく知らない。全然本物は見たことないし、図版もあまり沢山は見れていないのだもの。格好いい系の風景画だと思っています。今回、ローザの廃墟ないけど。
この画家が出てくる時にほぼ必ず引用される言葉を、私も繰り返しましょう。
'Precipices, mountains, wolves, torrents, rumblings: Salvator Rosa'
「断崖、山岳、狼、急流、雷鳴ーサルヴァトル・ローザ」
Byホレス・ウォルポール
これが、ローザ!
霊感に満ちた筆致。ただ一筆の白い絵の具の擦れが、山を降る小黒い急流の水飛沫になる。
先ほどちらりと単語を出した「ピクチャレスク」。フランス語ではピトレスクになりますが、ピクチャレスクの代表格として、十八世紀に人気を博したのがローザ。
簡単に言えば、当時、特にピクチャレスクで視覚に訴えるものと(勝手に)定義されたのが、ごつごつしたもの、滑らかでないもの、不規則なものなどでした。
ローザの描く荒々しい自然は、絵画として変化に富み、これもまた、クロードみたく異世界ファンタジーを思い起こさせます。
この風景は「山賊が現われそう」と評されて、「っていうかローザ本人が山賊でしょ(違))」という伝説まで生みます。
きっとお分かりになるかと思いますが、山賊、海賊、盗賊、とにかく賊というものに、善良で安全な市民はファンタジーを感じるものです。
ちなみに、18世紀当時のローザの生地ナポリ周辺は、本当に山賊が出没したのだとか。
そして、崩れてごつごつした表面を見せる廃墟は、完全な建物よりピクチャレスクなのです。
という感じに、ロベールに続く。
ロベール本人に到達するまえに、時間切れとなりました。あれれ。ごめんなさい、推敲ゼロできっと、まだ分かりにくい。
しかし、まあ、ユベール・ロベールの絵は、案外見たままな感じなので(笑)
ロベールの描いたアルカディアというものは、いわば「遠くにありて思うもの」。「帰りたい、でも帰れない」というような理想郷なのです。
それは、ウェルギリウスの「牧歌」という詩に描き出され、第一歌の「田園追放」で始まり、第十歌の「ガルスの死」で終わる、そんな何もないところ。
どんなに言葉を尽くしても、見えない人には見えないし、見える人には言葉など要らない、それがアルカディア。
<アルカディアの牧人>
次回、もうちょっとましになった記事の続きをお届けします。期待はしないで(笑)
ロベール展感想の続き
あ、ロベール展の感想に際して、これだけは先に言っておかなくては。
同時開催のピラネージの「牢獄展」ね、最高。下手すると、ロベール以上(笑)
当時人気がなかったのか、数も希少な第1版と、大幅な描きこみがなされてよりダイナミックに修正された(普通、牢獄の図版はこちらをつかう)第2版とを、並べて展示。
これ以上の展示の仕方はありません。
具体的で明暗のはっきりした第二版もいいけど、第1版も好き。絵の中の空間が、描きこみが少ない分広々していて、楽しい。
さて、どんな罪を犯せば、あの牢獄に無期懲役になれるのか、きっと考えずにはいられないはずです。
ユベール・ロベール展が楽しみすぎて、仕方のないまろりーです。本当、どきどきする。まるで、肖像画でしか見たことのない婚約者に初めて会うかのような、ときめきです。
ユベール・ロベール、廃墟のロベールこそは、このまろりーの代弁者。このような絵が描けたらなぁ!こんな風にムーサと戯れられないものでしょうか。
矢も楯もたまらず、上野を通りすがったおり、図版だけ先に買ってきました。馬鹿だなぁ・・・。冒頭の論文と参考文献表が楽しみ!
・・・まだ、なかの展示を見る暇はなくて、見れていないのですが。いやーこんなロベール展なんてものが実現するなんて思わなかった。本当、涙が出る程嬉しい!!しかも同時開催、ピラネージの牢獄ですって、幸せすぎる。
廃墟への思い入れと、アルカディアを希求する気持ちと、過去への追憶、神話世界への憧憬・・・、牧歌。
ロベールについて、展示を見る前に、自分の先入観をまとめておこうかな。
しかし、まとまる見込みがつかない。
廃墟論、庭園の美学、ルソーを代表する思想、革命機運、古代遺跡の発掘と新古典主義の流行、ウェルギリウスと牧歌、田園の美、ピクチャレスクと崇高美の勃興、おそらくはアカデミーとサロンとか。うーん、18世紀後半に横たわる色々な美術の問題がてんこもりでまろりーの力では書けそうもないな。美学系はちょっと暗いよ。
これでフラゴとか加われば、18世紀の社会がすごく浮き彫りに・・・・って本でも一冊書くつもりかしら?待て待て、妄想で留めておこう・・・。
ロベールについて今までちょびちょび書いているからそれをまとめてみるか…。自分、なに書いてたかしら・・・。
ああ、本当に!楽しみで仕方がないのです。暇さえあれば、廃墟とアルカディアのことを考えています。
図版をちらちら見たけどね、「アルカディアの牧人」なんて、もうロベール一回死ねばいいよ、プッサンのアルカディアの牧人のパロディのようだ。遠くから牧人の墓を見ている。その墓には「我もまたアルカディアの牧人 ユベール」(!)と書いてある。ずるいよ、その台詞は。et ego pastor in Arcadiaだって!?完全に、ego(私)は人間じゃないか、プッサンのように「死」と解釈しうるのではなく…。ゲーテと同じ事言いやがった、羨ましすぎて妬ましい!!
アルカディアの墓に私も葬られたい。
という、興奮さめやらぬ乱文。ちょっと言わせて欲しかったの、脈絡を欠いても。
とりあえず、まろりーのテンションの高さに比して、お土産のテンションの低さに笑みを禁じ得ません。予算の少なさというか、知名度のなさというか。
まあ、ね、グッズにもなりにくいよね。これこそまろりーローマの廃墟フィギュアとか欲しかったけど(無いよ、そんなの)
三菱一号館の「ルドンとその周辺-夢見る世紀末展」行ってきましたので感想を。
目玉のグラン・ブーケですが、想像以上の美しさ!!あまりの美しさに、その場にもし誰も居なかったなら、泣きだしていたところです。
オディロン・ルドン<グラン・ブーケ(大きな花束)>
私も幸運でした。この縦2メートルを超える絵がただ一枚掛けられた部屋に足を踏み入れた時、そこには壁に4人程が寄りかかってこの絵を眺めているだけで、この嘗て見たことのないグラン・ブーケの全てが、目に飛び込んできたのでした。
それは絵の内側から輝くようで、パステルという軽やかな素材のなせる技なのでしょうか、これがもともとは布と顔料だったことを忘れさせる程の衝撃でした。
さて、まろりーはこの感動を伝えるに、十分な語彙を持ちません。まろりーは何とか、この絵を言葉に置き換えようとしたけれど、とてもとても追いつくものではありません。
この絵さえ無ければ、もう少し展示を早く見終わることが出来たと思うのですが、なにしろ立ち去りがたくて、暫くはこの部屋を出る事が出来ませんでした。
この感動の一部は、きっと照明技術に捧げねばならないでしょう。
この信じられない程の巨大なパステル画の全てを均等に照らす、この絵のためだけに用意された照明の素晴らしさ。勿論この弱々しい媒体を守るためにその他の照明はなく、暗室の中でこの絵だけを輝かせている、この特別な照明。顔料は一部の光を吸収し、一部の光を反射して、絶妙な具合です。油絵だったら、ここまで輝くのかどうか?
三菱一号館のルドン展は、このグラン・ブーケを新規収蔵した記念で開催されたとのことですが、ええ、その喜びは並みのものではないようです。油絵より耐久性に欠けるというパステル画だから、いつでも見れることにはならないと思うけど、購入してくれてありがとう、ですこちらとしては。
そばにスフィンクスの絵があって、ちょうどソポクレスのオイディプス王を読んだ後のことで、タイムリー。ドラマとしては、オイディプス王が主人公だとは思うけど、絵としては、スピンクスの方が描きがいがある、と思うのは、個人的主観。
<翼のある横向きの胸像(スフィンクス)>
ある時期、ルドンは観衆に親しみやすいギリシア神話を元にした絵を描いていたとの事ですが、ちょうどソポクレスのオイディプスを読んだ後で(2度目)、ギリシア神話欠乏症を発症しているまろりーに(まろりーは時々ギリシア神話を読まないと欲求不満に陥る)、本当ちょうど良く。
<アポロンの戦車>
ちょうど、ちょっとアポロンがマルシュアスの皮でも剥がないかなーと思っていたおり、デルポイの怪蛇ピュトンを射殺しているらしいポイボスな太陽神の雄姿が。
意外な程、燃え盛っていてアポロンさん大丈夫かと思ったけど(←絵の見方が間違っている)、隣にアポロンの戦車から落ちるパエトンがいたり、オルフェウスがいたりと、神話画はいいですね、文字の連なりを時間をかけて読まずとも、一目で神話の色々が再生されます。って、ルドンの絵はそういう物語の挿絵的なものではないのですから、今の文章は聞き流して下さい。
このオルフェウスの死を題材にした油彩で(多分)、色彩が非常に美しく、色で酔えます。
<オルフェウスの死>
オルフェウスは、愛する妻を冥界から連れ帰ることに失敗し、以後、他の女性を拒むようになりました。その態度がトラキアの狂えるバッカスの女信徒たちの怒りを買い、彼は八つ裂きにされ、その首は歌いながら竪琴と共に川を流れて行った、そういう話が下敷きだけど、その為の絵画ではなく、オルフェウスの首は色彩の音楽的な効果というものを暗示しているらしい。
画面のあちこちで様々な色が響き合っていて、さていつまで眺めたらその響きを見終わったことになるやら、判断に迷う。
ぜひともバッカスの信徒になりたかったのに、バッカスからは生まれついて拒まれた身の上、美食も色事もこのまろりーを満足させないからには、あとはもうムーサたちに縋るしかないという訳で、このような色彩に酩酊するのは、何とも楽しい事です。
<青い花瓶の花々>
そんな色彩の響きを楽しませてくれるのが、ルドンのお花の絵。ポストカードとしてお持ち帰り出来たのは、これと例の大きな花束。他にもポストカードになってたら欲しかったなー。
さてさて、ここまで記事を書きまして、一向に黒い絵が出てこないのを訝る方もいらっしゃるかも知れません。ルドンといえば。代表して一枚を。
<夢の中で 第8葉、幻視>
若いころは、このようなグロテスクで一見難解な白と黒の世界で名を上げたルドン。
彼のような奇想を、多かれ少なかれ、人は誰でも持っているものと思います。だけど、彼のように紙の上に再現出来る人は極めて稀です。
不思議と、これだけ奇妙で突飛で、あまりにも現実的な脈絡のない絵、それにとりとめもない憂愁に満ちているのに、いやらしさや下品さ、独りよがりや無頼なところが無いと思うのです。明るい絵という訳ではないけど、社会や周りの環境や生きる事に対する恨みつらみとかがなくて。
これだけ思うさま空想を形に出来るというのは、ごくごく単純に羨ましい限りだ。
<我が友アルマン・クラヴォーの思い出に 第6葉、日の光>
時々、ちょっとわかりやすいのもある。無くなった友人への追悼。a la memoire de...(…の思い出に)という定型句が泣かせます。
何かが居る内側。外の新しい世界へ誘う日の光。窓の外には、まっすぐな、樹が一本。
冒頭でご紹介しましたグランブーケの前後には、その他の象徴派の様々面白い絵がありました。が、今回は割愛。モロー、ムンク、ベルナール、ドニ、ファンタン=ラトゥールなど。
<瞳をとじて>
展示の最後を飾るのは、何度かルドンのモチーフに現れる目を閉じる人。
展示の終わりにこれは、ちょっとくさいなーと思いつつも、ここは素直に、目を閉じてその空想に身をゆだねてみては。
もっとも、ブログのタイトルがこの結びをぶち壊しにしていますが(笑)
ちらしの絵が非常に美しかったので、初めて聞いた名前だったけど、アンリ・ル・シダネル展に行って来ました。
一言お詫び。ちょっと図版を用意するのに骨が折れそうで、ひとまず文章だけ挙げます。
アンリ・ル・シダネル参考図
画像はグーグル検索で引っかけたので、とりあえずはそちらをご覧下さいませ。雰囲気はきっと伝わるはず。
簡単にル・シダネルという人について、覚えてきたばかりのことを。
時代はだいたい十九世紀後半から第二次大戦前まで活躍した人で、モネやルノワールなど印象派の次かその次世代くらいの人だそうです。
その穏やかで親しみやすい画風から、生前は絶大な人気を誇っていたらしいのですが、多分それ故に現在は半ば忘れられてしまったようです。――何しろ芸術の殉教者でもなければ、ミステリアスな画家でもない、呪われた画家でもないし、絵画の革命家でもないのですから、昨今は流行らないという訳です。
美術史の流れでは、「親密派」という流派に分類されるようです。親密派とは、家族や子供、家庭の室内や食卓、庭など、多くの人にとって身近なテーマを好んで取り上げた画家をいう言葉。
まあ、別の立場から悪意のある言い方をすれば小市民的といえますが、それはまた別のお話。
さて、親密派といえばボナールやヴュイヤールが筆頭として挙げられますが、彼らに比べると我らがル・シダネル描き方が真面目だと思います。真面目というか…、つまり、ものの形は目で見えるそのままに取り、大胆なデフォルメとか強調とかジャポニスムとかお洒落なことはしません。
まあ、時代はいわゆる前衛美術が華々しい頃で、既に美術の新しい流れは、そちらの方に傾いていた一方で、ル・シダネルはどちらかと言えば形の取り方から言えば古典主義の生き残りのようでした。
同時代にあって美術の革新には直接には貢献しなかった、ということで現在はやや無視されがちなのかも知れません。多分それ故に同時代にあって人気を博したのではないでしょうか。前衛という未知との遭遇より、慣れた旧来のものの方が好ましいと感じる人は多いものです。
ル・シダネル独特と言えるのが、室内や庭園を描いた画中に人物が全くいない事。だからといって、居るべきはずのところに誰も居ない寂寥感やシュールさは全く感じません。
〈テーブルの絵など〉
しかし、「どこかに人の気配がある」と繰り返し説明されていた通り、画面は我々の日常の空間と地続きであり、その日常の一角が画家の精神を通り抜け、筆によってカンバスに写されています。
そこで切り取られた画面には、何かプラスの感情が漂っているようです。その感情とは…ぴったりの言葉が思いつかないな、自らの築きあげた生活への賛美や噛みしめるような愛着と言えましょうか、でも言葉で言うほど大袈裟なものではなく、目の前のものをいとおしむ気持ち。
そして、その喜ばしい瞬間瞬間は二度と戻ってこない、それ故の愛情。
画面に誰もいないから、かえって親近感を呼ぶのかも知れません。何ものかを特定させる情報がない替わりに、誰のものでもある日常。それも、労苦や不安とはある程度無縁の日常。さりとて絶望的に遠くの理想郷でもない。そこにいてそこを視ているのは、絵の前の鑑賞者なのです。
しかし、私の興味をもっとも惹いたのは、色そのものでした。
ときに印象派の影響が顕著な色斑を連ねる描き方を採用するシダネル。
その手の描方は、もちろん印象派風に、近付けば何を描いたか判別出来なくなります。判別出来なくなって、ただの色の連続と化したとき、その視野いっぱいに収まる色の、互いの響き合いが極めて美しく調和しています。
〈白の静物画など〉
色の調和は画家の最大の関心事の一つだったようです。
そのトーンは、多く明るい灰色を基調とします。ただの灰色ではありません。藤色、桃色、肉色、萌黄、浅葱、など微妙な中間調の混じるあらゆる種類の灰色です。
それを画家は決して印象ではなく、もっと深慮をもって、選り抜きの色を一つ一つカンバスに置いています。
そのような灰色の点々は、ある程度規則正しく並べられ、あらゆる灰色で埋められた画面は、離れて眺めると、全てが混じった輝かしい灰色になります。このような灰色は見たことがありません。
〈月夜のテラスなど〉
黄昏や月夜など、薄明を好んで描いたというル・シダネル。そのような風景は自ずと太陽の光に紛れて隠された何事か世界の神秘を語っているように見えるものですが、そのことを意識しながらも、殊更声高にでもなく、彼は自然体で描写しています。己の声でその世界をかき乱さない。
もちろん全てが薄暗く灰色という訳ではありません。黄昏に漏れ出る誰かの家の灯火が、灰色の中に、特別に鮮やかな色で差してあり、視線をそこへ導きます。
〈運河の家の絵、雪中の家の絵など〉
それはしばしば現れるモチーフの一つ。
手ずから作った自宅の庭園は今でも観光名所なほどの力の入れようで、まさに夢のような庭園。いえ、そもそも庭園というものには、人の夢を託すものです。
〈夜のあずま屋と咲き乱れる薔薇の絵など〉
呼び物の一つであった大きなカンバス。月光に映える薔薇とは、記号としてはロマンチックとも言えますが、「蒼白く病める月の下で、陶酔の中に死んでゆく薔薇」みたいな感傷に溺れることはありません。因みに、引用元はポーの詩(笑)正確な引用ではないが、こんな感じのロマンチック描写に出会いました。
晩年はヴェルサイユに暮らし、華やかでない庭園の一隅の絵など描いていたとのこと。
〈苔むしたサティールの絵など〉
昔の栄華を知るも、今は忘れられたようになっているサティール。
彼は今を描きますが、そこに感じられる過去の蓄積を愛していたようです。
そうして描き出される絵は、決して「昔は良かった」という後ろ向きのものではなく、「過去を経た今がいい」という肯定。押し付けるでもなく、声高に説得するでもなく、流れてきて二度と戻らない時を愛でながら、今を生きるささやかな讃歌。
アンリ・ル・シダネルの絵を通して、そのような価値観を追体験(あるいは擬似体験)することは、見る人の心に、穏やかな憩いと慰めをもたらすことでしょう。
と、なんか上から目線にきりがよい感じになりました。ちょっと大袈裟な物言い。そんな大袈裟な絵ではないところが持ち味なのだけど。
個人的で、おそらく誰にも伝わらない感想は、「クープランの<三人の寡婦>はこのような絵のテーブルを囲んでいそうだな」。それは、私の空想にのみ寄るものだから、もちろん掘り下げません。
この記事をひと言で要約すれば、気に入った、とくに色遣いがまろりー好み、なんだけどそれじゃあ自分の備忘にならない(笑)
ヴェネチア展の感想を話そうと思います。よりそれっぽい発音はヴェネツィア展になるか…。ともかく江戸東京博物館でやっている美術展です。
ヴェネチアという都市の歩みを中世末期から18世紀くらいまで様々なものから見てみようという内容で、絵画だけでなく、彫刻、地図、地球儀、航海道具、ゴンドラの飾り、家具、衣服、模型など、珍品の数々が並べられていました。
結構ピエトロ・ロンギなど18世紀ねたが多くて、個人的には大喜びです。
あと、やはり大好きなご衣裳も、総督の帽子や財務官の服、18世紀に流行した刺繍の美しいスーツにドレス、と飾られていたので、これもやはり大喜びです。
まあ、絵画の事でも。
広く浅くの展示なので、ヴェネチア派絵画の歩みを見よ、みたいな壮大さなどは期待できない。
でも個々の絵は結構印象的で、いちいち面白かったものの、いちいち感想を言うのも、いつものように徒らに記事を長くするので、今回は同じ無駄でも短く目指してみようとの心算。
さて、数で目をひいたのがピエトロ・ロンギとその工房の風俗画。
実は、ロンギの絵をまとめて見たことはなかった。上流っぽい(ただのお金持ち?)人たちの風俗画を生き生きと幾分軽いタッチで、その変わり過度な感情移入もなく描くピエトロ・ロンギ。おそらく、当時に人気があって売れた絵を売れるように描いた結果、現代人が想像する「18世紀らしさ」のイメージに、彼の絵画が大きな影響を与えているのではないかと思える程の、その時代らしさ。(いいな、ロンギ。何かの機会に本格的に調べてみたいものだ)
田園へお散歩に行く人たち、華やかな服を着て集まる人々、仮面とマント--つまり非日常--を着けて、画中お忍び気分で舞踏に賭博に遊び歩く人々。いえいえ、楽しいですね、ロンギの絵は。今も昔も世俗のファンシーを誘います。
ピエトロ・ロンギ<香水売り>
例えば、同じ室内の昼と夜を描いてある二枚の絵。片や演奏会、片や舞踏会に興じる着飾った男女達が描かれます。 吹き抜けの部屋は幾分高いところから、ドールハウスみたいにあらゆる細部が見渡せるような視点を取ります。
昼間の演奏会では、楽師達は中央に集められ、その周りで人物達は聞くも聞かないも自由に振る舞います。演っているのは、きっと同時代のヴェネチア人ヴィヴァルディの音楽に違いない(安直)。違うにしても、まあ、概ねそんなような音楽だらう。
夜になれば舞踏会。やはり中央には若い踊り手が一組。左右の壁沿いに椅子が並べられ、人々は立ったり座ったり。おそらく、奥の窓際に楽師たち。おそらくと言うのは、わたしが、舞踏の場に必要なはずの楽師が画中に居たかどうか忘れてしまったため(笑)きっとメヌエットなりアルマンドなり、ひょっとしてカナリーやシシリエンヌか、ともかく当世風の舞曲を演奏するのでは。
沢山の蝋燭が贅沢に立てられたシャンデリアは空間のちょうど真ん中にくるよう吊り下げられ、だから吹き抜けの二階の廊下にいる人は踊るカップルと同時にそのシャンデリアを見下ろすことになる。そうして欄干にもたれる人々の影が、大きくぼやけながら天井に揺らめいています。
シャンデリアでも照らしきれない壁際には、所謂ルイ15世様式の燭台付きの鏡がいくつも架けられて、自らの蝋燭とシャンデリアの蝋燭の灯りを反射している。思えば、ルイ14世の頃はヴェネチアは高価な鏡の名産地であったな。この斜陽の頃のヴェネチア共和国はどうなんだろう。
…どうやら、のっけからこの絵の前に留まり過ぎたようです。絵は軽快に描き飛ばしてあって、量産品といったところ。どうせならポストカードでお土産になってくれればよかったのに。
ベリーニの聖母子。
ジョヴァンニ・ベリーニ<聖母子>
一言で言えば、極美。どのように美しいかは、まあ、ルネサンス絵画には大方お決まりの。と言って記事短縮。淡い中間色とはっきりとした輪郭、柔らかく穏やかな光、清廉として問答無用の美しさです。
大体、ピエトロ・ロンギの後に置く意味が分かりませんが、人間の世俗の欲望に忠実な(むしろ掻き立てる、更に画家側の商魂も逞しい)絵画の後の聖母子とは(笑)。余計に濁りなく美しく見えるというものです。
以下まろりメモ。
ベリーニといえば、迫真の質感描写のヴェネチア総督。
ベリーニ<レオナルド・ロレダンの肖像>
それと比べると古風ともいえる画風だった。初期作品なのか宗教画は大衆に馴染む古めの画風が好まれたのか。
ミケランジェロのレダをもとにした大きな絵。 四角いカンバスの中いっぱいに、組み合った白鳥と人体を詰め込むには、どのような構図を取らせたらよいかという創意を感じる一枚。
両者とも目的の為にとても非現実的な捻じれたポーズを取らされており、輪郭がぼかされた肌の質感は柔らかいものの、全体には冷ややかです。ミケランジェロは輪郭をしっかり取る方がお好みだったと思うので、この辺はヴェネチア好み、という事なのでしょうか?
ミケランジェロのコピーはルーベンスも描いています。ルーベンスのとポーズは変わらないけど、ルーベンスのよりはもっとよそよそしくマニエリスム風であったと思います。
まろりーは、レダは騙し討ちされたと思っていたのだけど、この絵はどうやらそうでないように見えます。暗緑色の背景(多分)、白い肌のレダと上に乗る白鳥の傍らに赤いドレスが床に脱ぎ捨ててあって、当世風の、白鳥には扱いにくそうなそれは、まだ空気を含んで、袖がレダの腕の形を保っています。
無論、まろりーはギリシア神話に忠実でない、と言いたいのではなく、神話という口実と仄めかされる現実感が奇妙に混じって、その混交がとても好きです。いや、決してエロティックだからという理由でなく!いや、別にそう思うならそう思ってくれても構いませんが(笑)
ウェヌスとサテュロス。
セバスティアーノ・ロッチ<ウェヌスとクピドとサテュロス>
正直、それほど良い絵だとは思わないけど(笑)
ウェヌスは愛と美の女神。サテュロスは、山羊の足を持つ山野の神。人間的文化的洗練とは無縁の彼らは粗野でしばしば乱暴な性格ですが、自然の生命力、生殖力が神格化した存在です。
つまり、愛の女神と生命力の神の力が結びつけば、一族繁栄のための子宝の恵みが得られる、はずなのですが。
今回は勝手が違うようです。ウェヌスの寝所に入りこんだ醜く粗野なサテュロス。しかし、愛の炎を掻き立てるクピードーは眠り込み、ウェヌスにその気は全くないご様子。彼を指差し、洗練なき愛は願い下げとばかり余裕綽々、嘲りの表情をこの場面に遭遇した我々に見せつけます。
どうもサテュロスに分が悪いようで、それともリベルタンにはサテュロスの力は邪魔だとでも。…一応のイタリア絵画に対してその解釈はちょっとフレンチかな(笑)
あるいは、これを見る汝れもサテュロスだとでも言いたいのでしょうか。美女の上から蔑む目線によろこぶような殿方の気持ちは、さあ、わたしの空想の埒外ですが(笑)何だか伝統をまぜかえした屈折的な感じが面白くて、この絵の前でうっかりにやにやしそうになる。この絵の前では特に危ない。
カリエラのパステルによるプリマヴェーラ。
ロザルバ・カリエラ<ラ・プリマヴェーラ>
何と言ってもこの時期のパステルの色彩。18世紀特有の、美しく白濁した色とりどりの灰色の、透き通らない心地よい不協和音。近くの真面目くさったカノーヴァの半分布で身を隠した裸婦やクピドとプシュケにもまだその18世紀のセンスの名残がある。ただし、彼女と違って大分罪深き「真実」に毒されている(←個人的主観)プレ・新古典主義。いや、彼はそもそも彫刻家と記憶しているけど。色々と大切なものを抑制して、塩っ気の混じった甘ったるさだけ残って。変に力むからいけないんだよ。カリエラみたく軽快ならば、甘さも素直だと思うのだけどねぇ。
さて、大好きなカナレットのカプリッチョ(奇想画)。素敵なヴェネチアのヴェネチアらしいお土産絵画を旅行者に売りつけていた人。
彼のヴェネチアの建物の微細を極めた描写は、画家本人の感傷や情念に淫することもなく、一方でただの記録に留まらない生き生きとした情感に富み、何かしらの思い入れは鑑賞者の側で自由に託すことが出来るし、そうすることを許してくれる。
その画風そのままに、つまり現実の街を描くのと同じに描かれるカプリッチョは、現実にはない(しばしば再現が不可能な)建物の中へ鑑賞者を誘います。
カナレット<柱廊のカプリッチョ>
大きく構図も凝って念入りになのに、ただそれだけの絵であって、この奇妙なポルティコの向こうには何ら教訓もない。
世界はどこからともなく押し付けられた意味ある些末事にうんざりするほど溢れてしまっていて、意味のないもの、軽いものは我が精神にとりましてはとても貴重なものなので、まろりーはこの手の特別な意味を持たない絵を不当に高く評価します。そういう訳で本日のこの気まぐれなつぎはぎ(カプリッチョ)な記事それ自体にも何らの教訓もないのです、と無理矢理しめて、これを終えることとします。