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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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ヴァトー、ゲーテ、ベートーヴェンの旅するマーモット使いについて

 
アントワーヌ・ヴァトー〈サヴォワの少年とマーモット(ラ・マーモット)〉
 さてさて、ヴァトーのラ・マーモット。

 このマーモットのつぶらな瞳に誘われて、ちょろーと興味の赴くままに、マーモットを巡る小ねたを集めていたのです。
 これが案外歴史や文化がとても深くて、まじめに研究するなら一冊本とかが書けちゃいそうな勢い。(調べてはいないけど、おそらくマーモット文化についての研究書が世界のどこかで出ていてもいい思う。)
 という訳で、今日は諸国を巡るマーモット使いのお話。


 ヴァトーが描いたこちらの少年は誰かというと、絵のタイトルそのまま、マーモットを連れたサヴォワ人の少年。
 18世紀から19世紀にかけて、フランスでは音楽に合わせて踊るよう仕込んだマーモットを連れて各地を巡業するサヴォワ出身の子供たちがよく出没したのだそうです。
  因みに、マーモットはずんぐりしたウサギくらいのげっ歯類だけど、ペットで人気のモルモットではありません。と、いかにも知った風に言いましたが、しかしまろりーも本物見たことありません^^;

 サヴォワはフランス東南部、アルプス山脈に接した地域で、マーモット廻し芸人の商売道具、アルプスマーモットもその辺のアルプスの山に暮らしています。

 普通のサヴォワ人は、アルプスの雄大な自然の中で、農業をして暮らしているのだそうですが、何故、サヴォワの子供がわざわざ土地を離れて、パリとか各地に出掛けていったかといえば、18世紀当時、サヴォワは貧しく故郷では食べられなかったから。
 彼らの典型的な職業が、マーモット廻しか、きつい汚い危険な煙突掃除の仕事。

 特に、特にアルプス出身のサヴォワ人ならではな、馴らしたマーモットを音楽に合わせて躍らせるという芸は、当時のフランス人に強い印象を与えたようで、マーモットと同じアルプス生まれのサヴォワ人そのものが「マーモット」さんと呼ばれるようになった程のようだ。

 さて、そんなぼろを纏って厳しい生活を送る貧しい子供たちですが、ヴァトーの描いた少年はマーモット箱を肩にかけ、堂々と胸を張り、楽器(リコーダーの仲間のフラジョレット?)を掲げて、お伴のマーモットもカメラ目線です。
 もう季節は秋口か冬なのでしょうか、黄色く草の枯れた地面や葉を落とした木が、鮮やかな空色を引き立たせています。
 そして、青の空と黄色の地面を繋ぐように、ちっともお洒落でないマーモット色の茶色い服を来て真っ直ぐ立つマーモット使いの少年。

 過度な理想化はなく、背景その他で絵らしいファンタジックな雰囲気を盛り上げている訳でもなく、かといって貧しい農村出の芸人に対する同情やプロレタリア的な厳しさも勿論ない。
 ヴァトーとその同時代の人達が、サヴォワのマーモット芸人というキャラクターに抱く興味そのままの視線なのかも知れない、と思うくらいの、なんと言うか直球な描き方のような気がします。

 ヴァトーは、他にもサヴォワ人たちの素描が何枚も描いていて、この外国人(当時のサヴォワはフランスにとって外国扱い)に対するヴァトーの高い興味が伺えます。
 もしかしたら、病弱なヴァトーには、国を渡り、自由に旅するサヴォワ人たちに憧れがあったのかも知れません。

 もちろん勝手な見方。でも、こういうキャラクターとしてのマーモット使いは、ファンタジーとして十分、現代人の興味を引くと思うんだ。
 だって、マーモットのみを孤独な旅の道連れとして、田舎の故郷を立ち諸国を渡る旅楽師なんてロマンチックで素敵じゃないか!
 うん、18世紀の話だけど、この記事の主成分はロマン主義です(笑)

 まあ、ヴァトーの絵には、マーモット使いに仮託した何かしかの(性的な?)寓意があるかも、という説もあるようですが、何にせよ、サヴォワのマーモット使いが描いてあることには変わりない。


 そもそもマーモットってどんな生き物かしら、とネットを調べていたら。
 そんな中見つけたのがゲーテの詩にベートーヴェンが曲を付けたというマーモット芸人の歌、「ラ・マルモット」。
 気になって早速ユーチューブで曲を聞いてみると


 ゲーテ作詞+ベートーヴェン作曲×古楽or民俗音楽調=堪らん!

 何だこれ、今まで聞いた数少ないベートーヴェンの中で一番好きだ!

Ich komme schon durch manches land,
avec que la marmotte.
Und immer was zu essen fand,
avec que la marmotte.
Avec que si, avec que la,
avec que la marmotte.

僕はもう沢山の国ぐにを越えてきたよ
このマーモットと一緒に
そうしていつも食べるものを見つけてきたよ
このマーモットと一緒に
一緒にこちら 一緒にあちら
このマーモットと一緒に

 ゲーテ作の大体の歌詞は↑のような意味っぽいです。で、avec que la marmotte(マーモットと一緒に)をリフレインしながら2番3番と続く。
 原語はフランス語圏の故郷を離れて各国渡り歩いてドイツにもやってきたサヴォワ人らしく、ドイツ語、フランス語、イタリア語を混ぜこぜで使っています。
 因みに参考に付けた日本語はエキサイト翻訳参照なので、とても怪しい。


 大体、演奏してるコスプレの方々が後ろのドイツの中世っぽい街並みと嵌りすぎて素敵すぎ。

 淡々とした前半部分と、ちょっぴりエモーショナルな後半部分からなる哀愁漂うメロディ。
 無料でネット公開されてるピアノ譜を適当に拾って弾いてみると、その楽譜が「正統」かどうかは分からないのですが、左手の伴奏はミュゼット風みたい。

 演奏は、まろりーの拾った楽譜と調が違うけど、まあこんな感じ。もちろん、チェンバロ演奏でも全く問題ない。

 そもそもミュゼット形式の曲が大好きだ!
 羊飼いの楽器たるミュゼットではなく、同じくドローンを持つ大道芸人の楽器ヴィエル(ハーディガーディ)のイメージでしょうね。
 
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール〈犬を連れたヴィエル弾き〉
 この絵は、目の見えない故に定職が無く、旅する初老の辻楽師。ベートーヴェンのマーモット使いは、こんなにずっしりした悲壮感はないけれど、多分、貧乏ぐらしはどっこいどっこいじゃないかなぁ。

 何だか雰囲気良いなぁー。
 貧しい故郷を離れて旅をする寂しさ、明日をも知れないその日暮らし、しかし色々な国を巡る自由気ままさ、各国の言語を混ぜて使ってしまう気取らなさ、そして唯一の伴たるマーモット。
 まあ、ちょっと過剰解釈のきらいもあるけど、歌詞のリフレインに「唯一無二の財産にして友のこのマーモット!」っていう気持ちが籠ってる気がする。言い過ぎかな(笑)

 色々なマーモット絵があるけれど、ゲーテ作詞・ベートーヴェン作曲の歌と、ヴァトーの絵の雰囲気と割と合っていると思いませんか。
 リアルすぎない、美化しすぎない。でも、ほんのり憧れがある。

 アコーディオンによる軽快な舞曲風演奏は、「サア楽シイまーもっとノ見世物ガ始マルヨ!」って道化た感じがして、これも楽しい。


 みんなのアレンジ、すっごい楽しい!
 歌い方、アレンジの違いで色々な雰囲気になる。でも、どれもマーモット使いっぽい。

 サヴォワのマーモット使いは18世紀を通して、結構人気だったようで、例えば、ドルーエのサヴォワの子供たちは、見た目重視。

フランソワ=ユベール・ドルーエ〈デューク・ド・ブイヨンの子供たち〉
 ヴァトーさんと比べると、美化が著しい。
 それもそのはず、貴族の子供たちのコスプレ肖像画のようです。
 とはいえ、ぼろを纏ってマーモットをハーディガーディで踊らせるサヴォワの子供たちの姿を幾分か伝えているのではないでしょうか。

 ドルーエの甘ったるいとも言える、サヴォワのマーモット使いの子供たちを見ると・・・
 ラ・トゥールみたいな呵責なき写実がある一方で、容赦なき理想もある気がする。
 故郷が貧しく、子供と動物だけで放浪しなければ暮らせないし、その間にもしかしたら行き倒れることもあったのかも知れない過酷な現実というものは、容赦なく薔薇色に塗りこめられてしまっています。
 もちろん、貴族のご子息様だからなんだけど。

 そうだよね、子供のコスプレ写真撮るって言って、例えば海賊の格好をさせるとき、本当の海賊になってほしい親は多分いないと思うし、そこで厳しいリアリティ追求する親もいないだろうと思う…。

 現実のマーモット使いどうでもいいから、可愛い子供と可愛い動物で可愛ければいいやっていうきらっきらファンタジー。
 18世紀のとりわけ後半の人達にとって、子供というのはまだ大人の堕落に汚されていない無垢で特別な時間を過す存在で、ドルーエの絵はそのような大人達の夢を乗っけているようです。
 
ドルーエ〈サヴォワ人としてのコント・ド・ショワズールとシュヴァリエ・ド・ショワズール〉
 別の子供たちもサヴォワ人コスプレしてます。結構人気。
 こいつらはゲーテとベートーヴェンのドイツには絶対行かない(笑)

 さてさて。
 画題以外にも、サヴォワの芸人たちは18世紀を通してフランスに(ゲーテが詩にするってことはドイツにも広く進出していたのかな?)社会現象を巻き起こします。

 現代のフランス語でmarmotteを引くと
1、[動物]マーモット類:リス科の哺乳類
…中略…
6、(サヴォワ人の)マーモット使い:マーモットを見世物にした18世紀の興行師
7、(18世紀の婦人の)スカーフ:頭を包み額の所で結ぶスカーフ
(カシオの電子辞書、ロベール仏和大辞典1988より。)

 18世紀のサヴォワのマーモット使いの痕跡が現代の辞書でも残っています。

  ジャン=オノレ・フラゴナール〈ヴィエル弾きの少女〉
 マーモットはいないけど、ヴィエル弾きならラ・トゥールのよりこっちのほうがしっくりくるかな。小品ながら、レンブラント風の強く当たるスポットライトがドラマチック。
 おそらくサヴォワの芸人お姉さん。(それか、サヴォワ風のコスプレ)

 このお姉さんが被っている頬かむり、fichu en marmotte 。あるいはa la marmotte。
 「マーモット被り」ともいえるファッションがどうやらあったようで、一時期身分の高い人にも採用されたファッションでした。
 (すみません、辞書の頭を包み「額で」結ぶスタイルの事はよくわかりませんでした)
 フラゴナール〈マーモット風の少女〉
 上のお姉さんと同一人物でしょうか?マーモット箱にマーモットを入れたお姉さん。

 サヴォワの農家の女性がよく被っていたこのスタイル。シルエットも、ぴょこんと猫耳ならぬマーモット耳が飛び出てるように見える。だから「マーモット風」スカーフ。

 18世紀、牧歌的世界へのあこがれから、羊飼い風とか農民風のファッションが、あくまでもファッションとして流行りました。
 18世紀当時の都会人にとって、農民の女性は、都会の悪習に染まっておらず、理想の女性が持っている慎ましさとか純真さとか、あらゆる美徳を生まれながらに(誰にも強制されることなく)備えていると考えられたのでした。

 そんな訳で、サヴォワの田舎のお姉さんが被っているというイメージだった、スカーフを被って顎の下で縛るスタイルが「マーモット風」と呼ばれ、「サヴォワっ子めんこい」と(言われていたかどうかは定かではないが)一種の無垢への憧れをもって、ファッションとしてのマーモット被りが取り入れられたようです。

 それにしたって、フラゴはときどき動物の描写が適当すぎる。
 何このゆるキャラ…。マーモットに見えない。でも箱の隙間からちょろっと手を出してるのが可愛い。


 あくまでもインターネット調べではありますが、いくつかサイトを巡った中で、
 マーモットスタイルについて、ほほうと思った記事がありました。(こちらのTerminology: Marmottes and the Savoyarde styleの記事。)

  牧歌的な素朴さを持つ田舎娘として、都会人の目に映ったマーモット娘。
 ところが、十数年の時が経つと、一部のマーモットさん達はすっかり都会に毒されてしまって、何ともっとセクシーな職業に就いてしまうようなのです。
 それで「マーモット(=サヴォワ)風」のヘッドドレスは、ヘアースタイルが巨大化する流行に乗ってゴージャス化、そして強気な女のセクシーファッションというイメージに変わってしまうのだそうです。

 うわっ、都会は何でも人を悪くする!(←By J.J.ルソー)
 雄大なアルプスに抱かれた田舎から出てきたうぶな女の子が、パリで男を食い物にする夜の女に変身するってそんなドラマチック求めてな…いや、これはこれでおもしろそうだ。
 本当かな。しかしとってもありそうな話だ。

 はてさて。

 ヴァトーの絵、ゲーテの詩、ベートーヴェンの音楽に惹かれて。
 マーモットのみを孤独な旅の道連れとして、田舎の故郷を立ち諸国を渡る旅楽師なんてロマンチックで素敵じゃないか!(2度目) とマーモット文化を巡ってきた訳ですが…
 意外な方向に話が流れてしまった…。

 楽器片手にマーモットを踊らせる小さな旅芸人は19世紀まで出没していたらしいです。
 未読なので何とも知りませんが、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」にもサヴォワのマーモットを連れた少年が出てくるのだそうです。

 ところで、殆ど関係ないけど、旅の少年とマーモットって、某ポケモンの少年とずんぐりした黄色いモンスターとシルエットが似ていると…。
 旅の少年も掛け声一つでお伴に芸(攻撃技)をさせるとか、ほら似ている。
 18世紀のマーモット使いに感じるファンタジーが現代でも形を変えて生きているんだ! と無理にこじつけて現代人にもアピールしてみたい衝動に駆られています。

他、参考になりそうなブログ記事。
「echos de mon grenier:Jour de la Marmotte」…主に18~19世紀のマーモット使いについて。フランス語分からなくても画像たっぷりです。
「欧道行きましょっ!:リトルモンスターのコーラスから1~4」…主にベートーヴェンの「ラ・マーモット」について。

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オルセー美術館展 印象派の誕生 描くことの自由 感想、というよりアスパラガスの話。

大作ばかりで充実でした。

 印象派の黎明期、多くの人達から見て「普通の芸術」だったのは、筆跡を残さず滑らかで、理想的な人体や風景、文学的な画題などを多く描くアカデミー派の絵でした。
 まっとうな画家と絵の購入者なら、そのアカデミーの審査を経て、基準を満たしているものしか飾られることのない権威ある官展の「サロン」を目指すものなのですが、端からアカデミーの美学に反抗する印象派たちは、サロンに入選しないので、自分達で展覧会を開催してしまいました。
 その展覧会に参加してた人達が、ざっくり印象派。(←印象派展に参加してた人の中には、印象派的とは言えないセザンヌがいたりするくらい皆で個性的なので、超ざっくり)
 そんな印象派周りに的を絞りますっていう感じの展示構成で、ゴッホやゴーギャンといった後期印象派の人達にはあんまり頼らない(笑)印象派展に参加しているという理由でセザンヌが少々。
 そして、スーラやゴッホに続くというよりは、印象派の父マネに始まりマネに終わる。

 実は、印象派はマネに始まるとはいえ、彼は印象派と交流があって自身も影響されたけど、印象派展には参加していない。
 というのも、マネにとって意味があったのは、公の展覧会でその革新性を認められることだったそうです。しかし、反アカデミーという考えは印象派と共有していました。

 さて、目玉の一つ。マネの鼓笛手。
 エドゥアール・マネ〈笛を吹く少年〉
 楽器の絵だからね。
 さりげなく、奥まった休憩場所でおまけのように、この少年が持っていたようなファイフの展示とそのミニ歴史が説明してあって、なお満足。
 軍楽として実は歴史ある楽器なのです、ということです。

 音声ガイドには、その甲高い音色が録音してあるようなのが、他のお客さんの音漏れで聞こえてくる。
 音漏れしやすい周波数らしい…。ファイフの音だけが聞こえてきます。ラッキー(笑)
 ははあ、つまりはやはり聞こえやすいということで、軍楽に採用されたんだ。

 私がこのオルセー展で一番見たかったのが、実はマネの<アスパラガス(単数形)>。
 マネ〈アスパラガス〉
 先の鼓笛手は、画面も大きく、気合入りまくり。平面的で笛吹きだから何?って主題でアカデミーが気に入らないのは百も承知だけど、巨匠ベラスケスを引用して、わざと揺さぶろうとしている。あとは、平面的で無背景なのは、流行最先端の日本の浮世絵の影響とかもあるんだっけ。
 絵画はこうあるべき、という当時の既成の概念を突き崩そうと、アグレッシヴでちょっとピリっとしている。

 一方、後期の作品たるアスパラガス(単数)。
 アスパラいっぽんの絵。一本のアスパラを描こうだなんて。
 鼓笛手1人の絵より、さらにだから何だって絵ですが、人間たる鼓笛手1人を描くよりよほど奇抜ではないだろうか。

 でも、画面も極小で、奇抜なことをしてやろうなんて気はさらさら感じないし、ちっとも気合が入っていないというか、のびのびリラックスしている。(このアスパラガスの絵が印象派が社会的に認められてきた後期の作品だからでしょうか)
 だけれども、しっかり絵になっている。ただのアスパラ一本が絵になるなんてねぇ、このお洒落さんめ!

 で、何でアスパラ一本かというと、ちゃんと素敵なエピソードが残っていたりする。そのエピソード込みで大好き。
 マネの束にしたアスパラガスの絵を買ったお客さんが、よほど気に入ったのか釣りはいらねぇぜ! とばかりに、定価より多めのお値段を払ってくれたのだそうです。
 マネ〈アスパラガスの束〉
 それを喜んだマネは、さっそくこのアスパラガス(単数形)を描いて、そのお客さんに届けました。
 束から一本落ちてました、と言って。

 このお洒落さんめ!
 ともかく、マネがこの絵を描いた時(おそらくそう長い時間は掛けていないのでは)、彼はご機嫌だったに違いなく、そんな素敵な気分で描いた絵が素敵じゃない訳がない。

 確か現代アートのロスコが言っていたことなんだけど、ロスコの作品が大きいのは「メッセージの音量を増すため」なんだそうな。作品が大きいというのは、拡声機で喋っているようなものだと。
 そういうところって現代美術に限らず、もっと古典的な絵から、確かにあると思う。
 で、マネのアスパラガスの小ささです。
 これが大画面に描かれてたら、「皆どう、一本のアスパラ。これがゲイジュツだぜ!」みたいな嫌味な感じにもなるだろうけど、この何でもない控えめな小ささが、周りには聞こえない近距離でのお喋りの音量くらい、で余計に共感を呼ぶという訳です。

 神話でもなく、理想の世界でもなく、何か物語性もある訳でもなく、この何でもない見たままの世界が絵になるんだ、どんなものでも絵になり得るんだ、芸術は自由だー(今展示の副題)という主張を始め、実際にあまねく社会に認めさせたのが印象派だったのでした。

 何だか、アスパラ押しだけで長文になってしまった。しかも締めちゃった(笑)アスパラのさりげなさが魅力なのに、余計なことをした。後悔はしていない。

 因みに、見たままの風景なんかを描くことは、ずっと昔からあったけれど、画家たち自身でさえ、それはプライヴェートな練習用だと思っていて、美術館に飾るような芸術とは思っていなかったところ、芸術だと言って命を懸けたところに印象派の革新がある。ということです。


 アスパラ予想以上に書きすぎたので、他とくに印象に残っているのを少々。

 モネの雪景の内側から輝く色彩は感動でした。
 
クロード・モネ〈かささぎ〉
 一番VIPな位置に飾られてたから、真の目玉はこれなんじゃないかしら。
 図版になったら失われてしまう輝きに満ちていて、これは本物で見る価値ありだと思います。
 多分、雪の積もった朝(夕方?)に戸外でイーゼル立てて描いたのだろうけど、すごい根性…。寒くて手がかじかんだりしなかったのかな。
 他にもモネは沢山あって、何だかんだいって、モネって絵が上手よね。

 あとブリ美で素敵だったカイユボットの代表作がやはり面白い。

ギュスターヴ・カイユボット〈鉋をかける男たち〉
 当時は生生しすぎて批判されたそうな。理想化がなってない! っていつものパターン。
 この不思議な臨場感と、窓の外の光を反射する床と、反射しない削りたての床と光の当たらない床のコントラスト。

 で、必ず芸術に理想化を押しつける「敵役」として登場するカバネルのヴィーナスも登場。

アレクサンドル・カバネル〈ヴィーナスの誕生〉
 印象派を中心に据えると、俗悪で自由な発想の無い悪役になるアカデミーの人達…。
 いや、真面目な普通の人だったはずだと思うんだけど、すっかり印象派中心主義的バイアスに掛けられてしまっていて、その戦略に嵌って簡単には抜け出せない(笑)

 ひたすら色が綺麗。お肌のすべすべふっくら感がまぶしい。
 しかし、色っぽいポージングといい余りに男子目線のセクシーさで、隣で子供が見てたけど、あんまり子供に見せたくない感じよね…。
 美肌実現のための浅い陰影は、ひょっとしてマネ位なんじゃないのか…? でも、マネの「草上の昼食」も注釈なしに子供に見せられるかって言ったら、やはり微妙なところ…。何でお姉さんだけ裸なの? って聞かれたら、一言で簡潔に答えられない(><)

 ブーグローのダンテ地獄図。
 
ウィリアム・アドルフ・ブーグロー〈地獄のダンテとウェルギリウス〉
 ロマンチックだな~。すごく印象的で凝ったポーズ。痛そうな表情とか。
 これなんだっけ、噛みつかれて背中折られて、両者とも蛇になるとかそういうシーンだっけ。いや、嘘言ったかも。忘れた。
 ブーグローってカタカナだと割と簡単なのに、名前の綴りがBouguereauって文字数2倍ですごい長かったのと、大作を描いた若さ25歳くらい?に驚嘆。
 彼は「通俗的古典主義」と悪口で言われているのを耳にしたこともあるアカデミー派なので、「悪役」な訳ですが、実は指輪展に行った時の西洋美術館のポストカードランキングでは可愛いきらきらの子供の絵が、売上2位でした。(1位はモネの睡蓮)
 ブーグロー〈少女〉
 実は今だ密かに人気っぽい。

 等身大の女性肖像が並ぶ人物コーナー。ドレスが華やかでした。 ホイッスラー、誰よりも地味だけどいいよね。

 シャルダン頌みたいな絵。
 
フィリップ・ルソー〈シャルダンとそのモデル〉
 神話でも何でもない風景が芸術となったように、何でもない静物もお部屋のインテリアじゃなくて深いものがある芸術なんだ! と言うことで、印象派以前にその世界観を達成していた18世紀のシャルダンの再評価がなされたのだそうです。

 大画面の中央にシャルダン先生の自画像が画中画で置かれている。
 その周りには、シャルダンが描いたような東洋風の陶器のポットや陶製の食器、金属のコップや果物、手の長いお猿さん、そして引き出しにしまわれている、いかにもなミュゼット。
 確かに何かシャルダンぽい!
 画面も大きいし、アイテム盛りだくさんでゴージャスな感じ。シャルダンの自画像の額縁もほんのりロココ調(というよりひょっとしてルイ16世様式?)で、やっぱり華やか。
 そして、自然なありのまま見たままを描く静物ではなくて、計算された配置と凡そ普通でないと思われるモチーフ……。シャルダンの写実的な静物画万歳というテーマでありながら実は寓意画という。
 何となくもやっとする。確かにシャルダンの気配がするけど、なんか違う感じが。いや、違うというより、自分がこのように見たいと望むシャルダン像と、この絵の目的がが違うだけかな。
 つまりは、伝統的には格の低い静物画の地位を上げようと、立派で高貴そうな……まるでバロック時代の王様みたいに、高くて遠いイメージをシャルダンにのっけるルソーと、静物画の地位を上げる意図はなかった(と私は思う)親密で共感に富んだ(と
私は思う)シャルダンと、そう距離感のギャップ、かな。主観的な問題です。

 真にシャルダン的な目線は、先のマネのアスパラガスにあります。
 画家の目の前にアスパラが有るというリアリティと、決して現実には見えない画家の共感とが素早い筆致の中に込められています。

 そしてアスパラガスに戻る。(しつこい)

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国立西洋美術館の指輪展 感想

正式名称 橋本コレクション 指輪 神々の時代から現代まで ― 時を超える輝き

 指輪と言えば女性用装身具だと思いがちだけど、実は実用的な印章だったりお守りだったり、宗教的なものだったりと、デザインと用途が多様で面白い。
 そして、古代から現代まで、歴史が超古い。
 展示では、概ね時代ごとに工芸技術の発達(あるいは衰退と復興)や、デザインの流行が分かるよう並べたり、用途で分けたり、同時代のドレスと合わせたり、色々なアプローチ。

 それで分かるのは、指輪って、指に嵌めるものという決まったフォームがあるのだけれども、その目的の為に、何千年の間いつでも、人間の技術と想像力のありったけを小さな輪っかへ詰め込んできたということ。
 限られた形に何らかの思いを乗せた物体は、十分に詩的であり、一つの指輪は確かに物語を生み得るものだと、納得出来る展示でした。

 それなので、お土産物屋さんには、そんな指輪が欲しくなっちゃった人の為に沢山の指輪や、アンティークな雰囲気のグッズや、トールキンやニーベルンゲンの歌やケルトやゲルマンの神話の本が置かれています。
 お土産物屋さんの商魂もなかなかの見物(笑)

 指輪というものは、指にはめるという用途は殆ど変わらないので、共感を呼びやすいものだと思う。歴史的なことやデザイン的な優劣は分からなくても、もし自分がはめたらとか、もしこんなのがアクセサリーとして売っていたらとか、容易に想像することが出来て、遠い昔の遠い国のファンタジーでありつつも、現代の日本にも繋がっている。
 いやもう、ファンタジーです、本当。ニーベルング買いそうになった(笑)

 指輪はざっくり古代から始まります。
 エジプトのお守りスカラベの指輪とか、アメジストが酔いに効くということで、バッカスの顔が彫ってあるローマ(たしか)のとか。
 これに限らず、どれもこれも、造形がすごく細かくて、本気で見たい人は単眼鏡が欲しくなること請け合い。
 そんな職人の超絶技巧も楽しめます。

 ネロ帝の母の顔(かなり立体的でリアル)をあしらった指輪とか。太さからいって男性用なの? イギリス女王の顔の細密画の指輪と同じ記念品みたいな用途なんだろうか? それとも、政治的なごますり用?
 ローマ法王の指輪がどれよりも巨大。装飾品というよりは権威の象徴だそうで、指に嵌めるにはいかにも重そうだし、嵌めたらトレーニング用か殴る用の武器にしか見えない。
 ヒキガエル石という魚の化石の石は、茶色くて地味だけど、身に付けると何か効用があるとかで(忘れた。毒を感知するとか病気にならないとかそんなの)中世人気だったそうです。
 そして指輪といえば、印章の彫られた指輪。大事な手紙を書いた後、この指輪をおもむろに指から外して、溶かした封蝋に押しつけるってやつですね!
 いや、実際にそうやって使うかは実は知らないけど。でもそういうのだよねーあー浪漫だわー。
 そんな実用的なものの他に、もちろんキリストが描かれたり彫られたりする宗教的なものも。やっぱりお守りかな。

 18世紀末から19世紀初めあたりに流行ったという、大振りなボート型の指輪が沢山。このボートに宝石を散りばめたり、エナメルで飾ったりする。後世にもこの時代の貴族っぽいゴージャスなイメージのデザインとなったそうな。
 ゴージャスで、中でもポルトガル製のダイヤを敷きつめた物が2点もあって存在感があります。ポルトガルってダイヤ得意なのかしら。

 そのダイヤモンドの色々なカットであしらわれた指輪がずらり。
 時代が下るにつれ段々カットの技術が上がるというストーリー。
 初期は立方体を半分に割って、尖った先をピラミッドみたいに上にするだけ。次にピラミッドのてっぺんを平らにカットして、より輝くように、さらに薔薇みたいな複雑なカットでもっと輝きを、これだけでもきらきら輝いてるのですが、最後の計算されつくしたブリリアントカットになると、本当にびかびか、比べるとすごい輝き。
 色々な宝石をあしらった指輪が沢山あるけど、ダイアモンドの輝きはやっぱり特殊で、本当にひときわ輝いている。小さなダイヤモンド一粒に込める何世代もの人間の執念が実に面白いです。そして自分もその執念の一旦にいるという…。

 ロココ時代の指輪はやっぱり輪っかの部分までロカイユ的で非対称にしてくる。色もエナメルの白だったりして、いかにもロココ。でもごってりした装飾はなくて、色と波打つ形そのものと書かれたメッセージが際立つようになっている。
 そのメッセージとは、亡き2人の子供の記念。1人は10歳にならないうちに(6歳だったかな?)、もう1人は生まれて2週間ほどで亡くなったことが書かれている。
 切ない。
 他の指輪にも「…の思い出に」とか書いてあったり。切ない。

 でも切ない系だけでなく、めでたい系もあります。
 指輪といえば結婚指輪。
 ギメルリングと言って、2つの指輪が組み合わさって、1つの指輪になるいる意匠のものが幾つか。ちょうどブルガリの香水、オムニアの瓶みたいな形で、2つの指輪が1つになって永遠に離れないという、かなりロマンチックなものです。
 でも、バロック時代のギメルリングは、2つに分割すると中から横たわる骸骨が出てくる(笑)
 さすがバロック時代、縁起悪いとかどれだけ骸骨好きなんだとか関係なくいつでもヴァニタス忘れない(笑)いや、死んであの世も一緒とか、いつか死ぬから生きてるうちに幸せでいよう、とかそういうメッセージなんだよきっと。

 ロマン主義時代の指輪も面白い。
 宝石とか乗せる肩の部分が、2人の天使になって支えてるなんてゴシックなデザイン。今でもこういうファンタジーなの好きな人絶対いる。
 天使のご加護がありますように、とか確かそんな文字が書いてある。
 他にもこの時代は宝石のカットもやはり中世っぽいイメージの素朴な意匠も流行ったのだとか。

 他にもアーツアンドクラフツな指輪、アールヌーヴォーな指輪、デコな指輪など、どれもいかにもその時代っぽいと思わせるデザインのが並んでいて、面白かったです。


 さて、古代の指輪を巡る物語は、古代にとどまらず現・近代までもなおも続きます。

 面白いなと思ったのは、古代ローマ時代より前からイタリアに住んでいた先住民族エトルリア人。彼らは0.2ミリ以下の小さな金の粒を緻密に並べるという高度な金細工の技術を持っていましたが、その技術は中世には失われてしまいました。
 再現できるようになったのは、ようやく19世紀になってからで、そんな模造品さえ製作不可能だったエトルリアの指輪がコレクター羨望の的となったのは想像に難くありません。エトルリア半端ない。
 で、19世紀に技術が復活すると、さっそく偽物作りに励みだすという。。。エトルリアだけでなく、もちろんローマもエジプトも模造の対象です。

 西欧世界にとって、いつでも「美の規範」であった古代ローマ。ルネサンスの古代復興の波は、指輪のデザインにも及び、ローマっぽい指輪も作られたそうです。
 そんな古代ローマ調は、18世紀末、古代ローマの都市、ポンペイやヘラクラネウムの新発掘に湧く新古典主義の時代に再び流行。
 イタリアへ古代ローマ的な空気を吸いに行く一大流行、グランドツアーのお土産品として、この時期作られた古代ローマっぽい指輪がいくつも展示されていました。人気の模造専門の制作家さんがいたそうな。そのデザインの人気ぶりは、古代ローマの模倣の模倣が作られるほどで、まあ、「偽物」も沢山あったのだろうな。
 はたまた、完全にお土産品なローマっぽいミニアチュールをつないだ腕輪とか。図柄は、コロッセオ、サン・ピエトロ、マルチェラ劇場、ケスティウスの墓、サトゥルヌス神殿の柱などなど、おなじみの。
 ださいと言えばださいのたけど、はしゃいでるお金持ちの旅行者とかお土産に買っちゃうんだろうな。というか、誰かこれを実際に身につけてイタリア萌えしてたのかしら。
 ついでにピラネージのローマの景観も展示。
 まさか、グランドツアーねたがあるなんて。大きな流行は小さな装飾品にまで及びます。


 圧巻は、18世紀からほぼ現代までの特徴的な女性用のドレスの展示。そのドレスと同時代のファッションが分かる絵画や指輪を併置します。
 服装の流行に合わせて、指輪の流行も変化するんだよっていう内容です。

 これが服飾史好きには堪りません。近距離、ガラスケース無し、およそ360度回って見れるので、楽しすぎる。
 個人的な趣味で、ローヴ・ア・ラ・フランセーズ(18世紀ドレス)がん見です。
 他に、アンピール→ロマンチック→クリノリン→バッスル→アールヌーヴォー(どれも可愛い!)と続いて、その後辺りからいかにもドレスって感じのレースやひらひらが無くなった現代の服に近くなっていきます。
 アールデコ調?のアラビアっぽい服。へそ出しじゃなくて、みぞおち出しで、下半身のゆったりしたパンツは透け透け(どういう下着を着たんだろう)。それにフラフープをぶら下げたような円錐形のスカート。むしろ、電飾とかつけてパフュームがライヴで着てそうな勢い。
 いつどこでだれが着たんだろう、これ。

 展示の最後から3番目は、指輪に他の機能をちょい足しした指輪。
 万華鏡がついていたり、極小の時計のついたセイコー製だったり、カメラがついていたり。このカメラつき指輪はロシアのスパイ用とか…。しかし超ごついので、…カメラだってばれないかもしれないけど、目立って怪しすぎる。
 ポイズン・リングは、指輪がぱかっとロケットみたく開くようになっていて、その中に毒を入れておく。で、いざというときに自殺するものだそう。割と最近のアメリカ軍の紋章付きが、捕虜になった時用とかいって生々しい。

 で、最後は、長大な指輪の歴史から見ても、もうほんの最近の指輪ならざる指輪(笑)

 一応、指に嵌まる構造にはなってるようだ。
 だけど、指に対してやたら大きな抽象的な彫刻(小さいながらもう彫刻のレベル)が乗っかっていたり、宝石の替わりにテクノっぽい幾何学なワイヤーが手の平の大きさにわさわさ広がっていたり、何千年と培ってきた指輪という概念を溶解させようとやっきになっている。
 …という意図があるかどうかは分からないけれど、これは本当に指輪なのかしらと首を捻らせるようなものを最後に持ってくるのは、やり尽くした感があって面白いです。
 まあ、これ程豊富な指輪コレクションを誇る指輪コレクターがその指輪コレクションに加えたのだから、指輪以外の何ものでもないんだろうな。


 因みに、版画室の企画展はまさかのゴヤ。
 指輪展と食い合わせはちょっと悪いのだけど、やっぱりゴヤはゴヤで良い。

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現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展

近美の現代美術展:
現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 感想
 個人コレクターの蒐集品展で、頭を使って刺激的。
 オルセーはお祭り感も一寸あるんだけど、近美のはアグレッシヴなタイトルとポスターの割にテンションは低くて、じっくり考えて味わう感じ。


 でも難解では決してなくて、暴力的でも自己満足的でもなく、趣味が良いものばかり。
 いや、このCM、内容と全然マッチしてない気がする(笑)

 美術品の値段を説明し、美的な価値と市場の価値は適正なのか問うてくるキャプション(笑)
 裏には高価だからいいってもんでもないよね! という行間がありそうな書きぶり。実際そんなこと書いてないけど。
 でも、今一番の値をつけるという中国のサンユウの絵はなかなかに良い絵で、誰が何処に飾っても趣味や人格を疑われる事の無い上品かつ人間味のある絵。
 ほどよく保守的というかね。美術史的な価値のほどは勉強不足で分からないけれど、市場価値はあると思う。
 つまり買いやすい。お金持ち中国の愛国心だけで高騰している訳ではないと思う。…まあ、ある程度はあるだろうけど。

 キャプション曰く、コレクターは浴室にお気に入りを飾るといい、今回の展示品のコレクターは、ぱりっとした女性の絵を飾ってるそう。
 私ならロスコにする。今展示の癒し系No.1。オレンジの色が塗ってあるだけの絵なんですが。お風呂をロスコルームにしたい。
 このロスコのある部屋は正確なジャンル名称は知らないけど、「塗ったくり的」な作品ばかり集めている。ここの部屋面白かった。
 白黒の海の写真。雲のない白い空と静かに波立つ黒い海の2色に真ん中から画面が分かれている。空と海の境目は霧がかってぼやけていて、遠目にみると抽象絵画みたい。穏やかなロスコに比べて、寂寥感がある。
 大きな画面に大きな板か何かで絵の具を平らに伸ばて何層も重ねたものなど。解説には「職人的」とあったけど、ただ塗るだけでも本当に職人的な技巧が感じられます。そして、ねっとりした絵の具の、自然に出来た色むらの隙間から幾重にも重なって下の絵の具が見えて、面白い景色になってる。

 部屋は変わって。
 いいのか悪いのか、私には何が描いてあるかは分かりませんが、本物の(笑)抽象絵画で、タイトルは無題だかちょっと忘れたけれど、脳内タイトルは「チョークで汚れた黒板」と「ノートの落書き」。何を言いたかったのかな。
 緑の木々とそれを反射する水の上に、船が浮いている。そしてそこからずるりと緑色の人がこちらを向いて船の縁に身をもたせかけている。緑色の貞子みたいな。怖いにも程がある。

 そして、マスコットキャラクター?のヨガポ-ズの金のお姉さん像。ヨガといってもかなり上級者向きの無関節でとんでもない体勢。均整の取れた古典的とも言える体形と、この人間離れしたポージング(そして女子的にも実際人前でやれと言われたらちょっと……なポーズ。もちろん服来てるけど)のミスマッチが挑発的で面白い。
 高さは3、40センチほどで、案外小ぶり。コレクター宅では、猫足の割と古典的なテーブルの上に置かれているらしいけど、…結構はまってるんだよね。
 2体あって、片方は素材に金としか書いていない。わー持ってみたい。中身詰まってて重いのかな、それとも実は中空で軽いのかしら。

 最後にある囲碁の石の写真が、お洒落で良かった。縦横1メートルくらいの真っ白い背景に、絶妙な配置の白と黒の碁石だけを真横から撮る。多分、ある一点だけにピントが合っていて、手前や奥の碁石は少しぼやけている。
 白と黒と、影の淡い灰色と、いくつかの規則的な楕円の重なりだけしかない抽象なようでいて碁石という具象的な写真の四枚組。
 無重力な軽快さとポップなスタイリッシュさ、削ぎ落としたモノトーンと、人工的な石の輪郭の固さとピンぼけした楕円の柔らかさと、さっぱりとしつつ、さりげなくちょっと高雅な精神と、うーんいいなぁこれ。

やー、いいもの見たなあ。

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ミュゼットの音に思うこと

かねてより本物の音色を聴いてみたかったので、ジャック・カロ展に際してミュゼットやバグパイプ、ハーディガーディといった音が途切れず持続するドローン楽器のレクチャーコンサートがあって喜んで行ってみたわけです。

イアサント・リゴー〈ミュゼットを弾くガスパール・ド・ゲダン〉

 ミュゼットの音を聞きに行って、素直な感想。。。

 何だか、多分、ミュゼットって奏者がステージに立って、聴衆が大人しく椅子に座って鑑賞するものじゃないのではないかなーと。

 何だろう、その田園楽器としての世界観を楽しむための記号論で成り立つ楽器であって、「芸術」というよりはサブカルっぽいというかコスプレっぽいというか。
 まあ定義のあいまいな芸術やらサブカルって言葉を使う時点で怪しいのですが。。。

 例えば、昔のゲーム風の素朴なピコピコ音で素敵な曲があるけれど、それをホールに「鑑賞」しに行ったりはしない、というような感じ。
 大事に棚に陳列して愛でるものでなくって、私的に消費されて真価を発揮するもの。

 うん、周り全員で羊飼いの格好をしてバレエを踊って、もしかしたら田舎風の舞台装飾の中で、あるいは本当に庭園とか人工的な自然の中で、お芝居とか美術音楽その他もろもろで総合的に、雰囲気全体で盛り上がるものなんじゃないかな、と。

 いや、鑑賞に堪えないとか言っている訳ではないのだけど。
 音楽というより田園というネタ先行な印象でした。

 このアルカディアンなねたが圧倒的に好きなんです。
 もうなんか、ウェルギリウスの変形の変形のなれの果て感が、グロい。(←これは褒め言葉)
 というか、それをさらに姿勢正して小ホールで拝聴してる自分のこの瞬間の方がちょっとグロい。(←褒め言葉ではない)
 「鑑賞」しているときに感じたのは……違う世界の住人的な違和感というか、自分のいる次元とミュゼットの音の鳴っている次元との間にいわく言い難い見えない壁があって、この神秘な防壁(笑)をどうしよう。。。というような感覚。

 さて、分かりにくくて誤解を招く恐れを承知で、敢えてグロテスクという言葉を使うことにしたけど、この場合のグロは、血とか死体とかゾンビとかでぐちゃーっていう生理的な意味でなくって、ラファエロ風文様方面のグロテスク。優美で軽快(じゃないこともあるけど)、不条理にして奇怪なあの愛すべきグロテスク模様。

 何がグロテスクかというと、素朴さを洗練するという錯綜。
 ミュゼットのドローン管は小さな円筒の中に繊細・高度な技術を駆使して折りたたまれているのだそうな。
 常に袋に溜めた空気が送られてくるので、基本的に音を途絶えさせることは出来ない構造で、つまり簡単に言うと休符が弾けない。
 しかしミュゼットは、旋律管の穴を全て押さえるとドローン管と同じ高さの音が鳴るようになっていて、旋律の音をドローンに紛れ込ませることで、旋律の音が途切れて聞こえるようになるという。
 これによって、より旋律を歌うことが出来る。頭いい!
 
ジャン=バティスト・ウードリー〈空気の寓意〉
 そして、見た目としても、皮袋を華やかな布で覆い、房を垂らして、明らかに素朴でない。絶対にこんなゴージャスな楽器持ってる羊飼いいないわ。って皆分かってて敢えて突っ込まないし、羊飼いは憧れるけど、現実の羊飼いどうでもいいっていうデザイン(笑)


 これは、時代を超えない。
 このねたが分かる人、共感してくれる人たちがいなくなってしまえば、一緒に滅びる。

 田舎のリード楽器にしては、かぼそく甘やかな音。小さな音というわけではないけど、弱くて、うん、甘い音。
 とても媚びてる。でもそれが使命なので、いやらしいところがない。
 それはもうブーシェの羊飼いのように。
 
フランソワ・ブーシェ〈ラ・ミュゼット〉
 この絵は酷い(笑)
 本物の羊飼いも楽器もどうでもよすぎだろう、ブーシェ。
 この絵を冒頭に持ってこようとしたけど、ミュゼット画像としてダメ過ぎたので…(笑)


 印象の域は全く出ないけど。
 ミュゼットがサブカルだと仮定すると。うわ強引。
 ヴァトーが田舎風の格好をしたミュゼット奏者を描き、やはり牧人風の踊り手(正体は本物の牧人ではない。)などを描くとき。

アントワーヌ・ヴァトー〈田園の愉しみ〉
 それって、やっぱりアヴァンギャルドなのかも。偉大にして古き、バロックの硬直化した古典主義と、暑苦しくて面倒くさいアカデミーの権威主義(100%言い過ぎ)とに対抗して、新しい芸術の潮流としてサブカルの力を投入する、なんて現代でもどっかで聞いたような。
 ちょっと単純化しすぎかな(笑)
 ・・・一瞬、自分で面白い考えだと思ったけど短絡的すぎだね(笑)

 そもそも念の為いえば、メインなカルチャーとサブなカルチャーが分化している時代でなく、サブカルって概念すら無いし。
 ・・・・・・より相応しくは・・・・・・リベルタンとか?
 ああ、うん。田園ってリベルタン的な場所だよね、確かに。個人の人間性を否定する絶対的な王権や宗教に対抗する、個人の人間的な自由を約束する場なんだ、田園って。つまりヴァトーが描いた革新は・・・とこれ以上言うと元々ふにゃふにゃの話の軸がどんどんぶれていくのでこの辺で。

 さらに念のため言えば、アカデミーがアート界に新風を起こそうと、新進気鋭のヴァトーを会員に迎えたので、印象派VSアカデミズムみたいに、ヴァトーがアカデミーと戦ったりとかそういうことはない。
ヴァトー〈ミュゼット奏者〉 

 ともかく、この時代に流行ったモチーフとしてのミュゼットの音に直に?触れてみて、もちろん現代人として、18世紀人と同じように聞くことは環境的にも精神的にも出来ないけれど、色々と思い巡らすよすがとなったのでした。

 というか、ミュゼットもっと現代でも流行れ!(笑)…無理かな。

 もちろん全部想像。特にサブカル云々は後々もっとこの楽器に触れる別の機会があったら、撤回するかもしれない印象に過ぎません。

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なんせんす・さむしんぐ

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