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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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シャルダン展感想・木いちごの籠~Panier de Fraises des Bois~

 もう会期終わっちゃったなんて寂しいな! そんな感じで、正月早々シャルダン詣で(笑)
 実は今まで知らなかったのだけど、三菱一号館って午後8時まで開館する日は6時以降入場で割引するのね。千円で入れた。

 さて、第二次シャルダン展感想。というより、今日は一点だけ集中してみます。

chardin_panier_de_fraises_des_bois.jpgシャルダン<木いちごの籠>
 

 このシャルダン展の顔にもなっていたこの絵。確かに、他のシャルダンの絵と、ちょっと雰囲気違う感じがしました。
 やっぱり顔になるだけあって、赤い木苺が満載された絵は、その赤いという色彩だけでも華やかだなぁ。普段もうちょっと地味だけど、きっと画家はこの赤を描きたかったんだなぁ。
 例えば、白い脂肪の混じった肉の赤とも輝きが違うし、同じ果物でも紫の赤ぶどうやプラム、緑の白ぶどうや野菜、光沢のあるオレンジの銅鍋とも違う、とても特別な赤。
 いや、特別というよりいたって普通の赤なのだけど、決して押し付けがましくなく、だけど目を引く、鮮やかだけど、周囲から浮かない。これがシャルダンの調和ってやつなのかしら。

 そして、友人との会話で、美味しそうだよね。両手で掴んでむしゃむしゃ食べたい。なんて言い合っていたら、ふと後ろを向くと同時代の美術批評家ディドロ氏の批評が書いてあって、曰く
「果物の瑞々しい描写がとても美味しそうなので、思わず手を伸ばして食べてみたい気にさせる」
 ……ディドロ氏と全く同じ感想だった…! な、なんか悔しい(笑)

 それにしても、昔も今も大して考えることは変わりません。静物画って地味だけど、本当は普遍的なもので、とりわけ食べ物の絵は最強なんじゃないだろうか。
 狩猟画とか肉の絵は日本人にはあまり馴染まない気もするけど。やっぱり、狩猟の誇り高い成果物というより、うさぎの死体としか見えない(笑)
 頭では、可哀そうな絵じゃなくって、食べ物の絵だってわかっているのだけど。
 別の友人いわく、日本には古来から死体=ケガレという発想があるから、(確かに!)その辺は、ヨーロッパ人の心性と違うのかも。

 しかしあの木苺、実際に口に入れたら実は美味しくないような気もする(笑)
 大体、ああいう野性的な果物って、刺すような酸味だったり、微妙にえぐかったりで、見た目と雰囲気だけなものです。
 あ、そうか生食じゃないのか。何かジュースにしたり、お洒落なコンフィチュ~ルにしたりするのかしら。そういえばお土産ショップにも高そうなフランス舶来のジャム売ってたな。

 美術館を出て、東京駅で、ふと目についた自動販売機で取り敢えず、無性に飲みたい気がして、アセロラドリンクを買ってしまった。赤かったから(笑)
 いつもより美味しい…という訳もなく、まあ、可もない不可もない予想通りのアセロラ。

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巨匠たちの英国水彩画展、メトロポリタン美術館展、リヒテンシュタイン展


 すっかり会期も終わってしまったが、Bunkamuraの英国水彩画展と、都美のメトロポリタン美術館展と、新美のリヒテンシュタイン展の感想をまとめておきます。

●巨匠たちの英国水彩画展。
 期待通りの内容で、ピクチャレスクと崇高とかゴシック趣味と廃墟とかイタリアのグランドツアーとか、個人的においしすぎる。
 こういう奴らが寄ってたかってイタリアを誉め讃えるから、まろりーもすっかり奴らのイタリアに対するアルカディアフィルターが伝染ってしまった。

 いつか王様(確かヘンリー8世)が修道院を迫害したために、中世の修道院建築の廃墟がごろごろしていたというイギリス。
 産業革命を経て国力の増したイギリスは、愛国主義的にそうした昔からあったゴシックの廃墟を描きだしたようだけれど、その廃墟の美をイギリスに教えたのは、確かにイタリアのローマの廃墟だったんだ。
 イギリスが好んで描いたこうしたゴシック様式の廃墟画が、後々のロマンチックな方面のゴシック趣味(ドラキュラとかそういうの(笑))へと繋がっていったのかな。

 密かに注目の画家トーマス・ジョーンズの水彩が見れた。割とぱりっとした陰影で、淡々としている。つまりは、他のイギリス人よりは情感に乏しくて物足りない感じ。
 トマス・ジョーンズに興味を持っている理由はこの一枚の絵のため。
ThomasJones-a-Wall-in-Naples.jpgトーマス・ジョーンズ<ナポリの壁>
 以下は、長く美術展感想から脱線します。感想だけ見たい人は飛ばして下さいまし。

「時代を遥かに先んじている。」と評されるこの一枚。通称<ナポリの壁>。モンドリアンかと思う程の近代性ですが十八世紀のもの。
 このナポリの壁。洗濯物のぶら下がるただそれだけ。でも。
 何て清々しい絵…! 何て何でもない絵!
 野心も思想も媚びも気取りもけれん味もこだわりも何も無く、紙の上の色彩構成でないとしたら、ナポリの壁以外の何物でもない。
 こんな恬淡とした絵ってあっていいのでしょうか。

 あるのは、画家の芸術的衝動。気取らず簡単に言えば(笑)、ちょっといいな、描いてみたいな、という気分。
 実際、完成作ではなく、紙に油彩の私的なスケッチ。ばか正直とも言えるスケッチですが、さりげなく構図の切り取り方も素晴らしいではないですか。
 本当に色彩の平面で画面を区切っているだけの絵で、遠近法も殆どない。…イギリス人には洗濯物をにょろりと干しているのが珍しかったのでしょうか。明るく鮮やかな空と、洗濯物の落とす濃い影と、南イタリアってきっとこういう空気なんだろうな。絵らしいモチーフが何も描かれていないのに、南イタリアの太陽を感じると思うのです。

 こんな絵が、つまりこんな真っ直ぐなものの見方か十八世紀にも存在するとは、どの時代にも言えることなれど、でも十八世紀も奥が深い。

 脱線終わり。更なる脱線で、トマス・ジョーンズの他の絵をひたすら張り付けて喜んでいる記事。

 直接に展示に関係ない絵を語り過ぎた。いや、この記事は殆どこの脱線のために書いたようなものだし(笑)
 展示の本当の主役はターナーなんだけどね。

●メトロポリタン美術館展  大地、海、空4000年の美への旅
 正直、期待してなかった。何か有名な美術館の収蔵品とただの名画(笑)を適当に並べただけの散漫な展示かなぁ、と。
 が、中身は案外に濃かった。
 テーマは自然と美術。古今のアートはいかに自然を表現してきたか、といったもの。
 でもスタンダードに時代順テーマ順には並べません。教科書のような陳腐に陥るよりも、かなり故意にばらばらな順序にして、個々の展示品一つ一つよく見て貰おうというのか、表現の編纂というより多様を見せようとしているのか、とにかく並べる順序にこだわりを感じました。一種、異様な順序で、印象に残っている。

 さて、しかし本題はそこにはありませんね。
 全ての展示の始まりのテーマは、「理想的な風景画」、つまり現実にはない風景から。
 そして全ての展示の始まりの絵は、ミスター理想的風景画、クロード・ロランだった。
metrop-claude.jpgクロード・ロラン<日の出>
 …ユベール・ロベール展の時も格下相手に一番先陣だったよねぇ!?(笑)最近、こういうの流行りなの? この手の風景画の起源を説明するために呼ばれるクロード。いつかクロード一人展やってあげてよ…! プーサンと二人展でもいいよ。

 目玉のゴッホの糸杉、思った以上にいい絵だった。
itosugi.jpgゴッホ<糸杉>
 意外に大きな絵。ものすごい勢いで絵の具が盛り上げてあって、絵の表面は生々しい。触ったら、何の絵か分かりそうなくらい、触覚を想起させる。
 印刷物を見ていたときは、行き場を失った感情がぐにゃぐにゃと、糸杉を昇り空に渦巻き、強すぎる自我で風景と色彩は歪み、それがかなり執念深く描かれた、どれだけ心挫けるおどろおどろしい絵かとちょっと思っていたけど、案外喉越し爽やかでした(笑)
 糸杉=墓場の木=死、みたいな病的な方面かと思っていたけど、そんなにえぐくない。
 それとも前に飾られたゲインズバラの幸せオーラの余波?(笑)

 買ったポストカードは牧歌的なタピスリー。
metrop-sheepherders.jpg<音楽を奏でる男女の羊飼い>
 緑の地にとりどりの花を敷き詰めた、中世チックな千花模様。その中で、羊飼いの男女のと羊たちがいる。男はバグパイプを奏している。
 買った理由は、もちろん牧歌的だから(笑)
 ウィリアム・モリス商会の中世風タピスリーも飾られてて、最初見たとき、一瞬本当の中世かと思った。こっちも好きだったけどポストカード化ならず。

 あと、予想通りブーシェの田園主題もポストカード化ならず(笑) 
boucher-sheepherder.jpgフランソワ・ブーシェ<(恋の)メッセンジャー派遣>
 羊飼いが伝書鳩で手紙をやり取りしている。鳩はヴィーナスのお使いだし、そうでなくとも恋文なのは間違いない。本当、文字を書いて読める羊飼いってどんな身分だよ(笑)

 ところで、アメリカの美術館だからって、ちょいちょいアメリカアピール(?・笑)
 いかにもアメリカの風景!って感じの絵ですが、ヨーロッパの風景画を見慣れていると、やはりエキゾチックなアメリカの風景。
 多分、ヨーロッパの影響から逃れようと、努力してアメリカらしさを追求していったのだと思う。 ある十九世紀のアメリカの絵は、広々とした空間を扱って雄大で、不自然なほどドラマチックな光の効果で、まるでハリウッド映画みたいだと思った。その辺は全く詳しくないから見当違いかもしれないけど、ハリウッド映画もひょっとしてこうした油彩画の影響を受けたりしているのかしら。

 個人的に好きだったのは、聖ヨハネの鷲の書見台。鷲が翼を広げて鑑賞者を見下ろし、その背中に大きな本を乗っける。ロマンチックだぜ。
 でもMVPは、古代エジプトの小麦のレリーフ。ただ麦の穂が隙間なく並んでいるだけのレリーフなのですが、何か良い。麦は生き生きとリズミカルに、緩い円弧を描いてあちこちに穂を向け、豊かな収穫を思い起こさせる。
 全体、エジプト美術全般が実力を見せつけていたと思います(笑)


●リヒテンシュタイン展 華麗なる侯爵家の秘宝
 とにかく、数は少ないながら、ど派手な展示だった。
 どの展示品も大きく豪華、小さいものでも豪華。
 ついでに、浮き彫り風の装飾つき壁紙や展示品を乗せるの寄木風の台とかにも、お金かかってると思う。

 一番初めに、リヒテンシュタイン侯爵が現代にも存在して、この展示に対してコメントしてるのに何故か驚いちゃった(笑)

 目玉の一つが「バロック・サロン」と銘打たれて、バロック~ロココ期の装飾過多で派手な家具などが当時のお部屋風の配置に並べられた一室。
 面白かった!
 サテュロスや怪物の顔のついた猫脚なんて柔なものじゃない獣脚テーブル、枠が鏡面と同じくらいの面積ありそうな威圧的ですらある巨大な鏡、東洋の大きな壺を金属装飾で接いで上に重ねた2メートルくらいの大量の蝋燭の刺さる燭台、東洋の磁器、東洋主題のタペスリー、ロココ調の時計、綴織りの背張の大きな椅子とソファー、ちょっとした風景画、馬の絵、天使の奏楽してる絵、天井にも天井画。
 天井画を天井に見れるとか、意外と珍しいという皮肉(笑)

 しかしリヒテンシュタインって国は…よっぽど地震の無い所なんだなぁ。不安定そうな磁器の背の高い燭台はもちろん、壁に吊り下げてある派手で巨大で重そうな鏡とか、この場所で震度4、5の以上の地震にはあいたくない(笑)

 そして、充実のルーベンスコレクション。
 リヒテンシュタイン侯が一時期はまってそれ以来ずっと集めているらしい。
 リーフレットの表紙を飾っていた女の子など、その他飾られていた申し分のない名画群より小さい画面ながら、驚くほど魂をもって血が通っていました。
kurararubens.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス<クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像>

 で、圧巻のルーベンスコレクション。
 縦横3、4メートルはあるようなルーベンス。
 ルーベンスの絵本体も迫力満点なのだけど、その周りの額縁を全く絵を引き立てるどころか競うように装飾過多っていて、迫力満点。飛び出す3D額縁。むしろ自己主張半端ない額縁に負けないルーベンスがすごい(笑)

 本当にバロックはアツい。
 そしてリヒテンシュタインって国は本当に地震の無い国だ(笑)
 大きな地震があったら、絵を吊り下げる糸とかが切れて、こちら側に倒れかかってくるんだろうな。
 ……いいかも、ルーベンスの下敷きになって死ぬとか、格好良いかも。

 むしろルーベンスで死にたい。

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トーマス・ジョーンズの素描をひたすら愛でる

 トーマス・ジョーンズ(1742-1803)が大好きだ!本当、いい。ので、ひたすらトマス・ジョーンズの絵列挙。

ThomasJones-a-Wall-in-Naples.jpg<ナポリの壁>

 当時、イギリスの皆々こぞって出掛けた夢の国イタリア。
 イギリスは産業革命で国力が増したものの、文化的な後進国との自覚があり、イタリアという伝統文化を吸収しようという名目で、大旅行を企てたのでした。
 画家としても、そんな旅行の思い出を絵画化する需要があったり、イタリア帰りは芸術家としての箔もつくし、やっぱり美の国イタリアを目指します。
 トーマス・ジョーンズもそんな中の一人。どうも、後年は画家としての活動はあまりしなかったようですが、とにかくイタリアの風景スケッチが、当時としては独特のセンスすぎて、面白いの一言。
 この写実主義以降っぽい超近代的な絵で、実は18世紀後半、啓蒙の時代の人。

 代表作が上に上げた<ナポリの壁>
 本当、壁としかいいようのない絵なのに、この素晴らしさはなんだ。ちなみに、ポストカードくらいの大きさしかないらしいです。
 そもそも、こうやって「壁を描こう」なんてセンスがあっていいのでしょうか。壁に向かって、筆を走らせる不審な画家。これは妄想だけど、地元っ子ナポリの人たちには謎の行動だったに違いない(笑)

90445965.jpeg<ナポリの家>
 素直にナポリの家。この時代、誰が普通の民家を絵に描こうだなんて思ったことだろう。本当大好き!

1357103293448.jpg<ナポリの家>
やっぱり洗濯物が気になるの?(笑)

ThomasJones-grotto-posilippo.jpg<ポジリッポの洞窟>
 だたの家だけでなく、観光名所も押さえます。

15ba2c66.jpeg<ナポリの家>
 でもやっぱりナポリの家。

1357103954305.jpg<風景>
 なんでもない丘と雲。雲が描きたかったようです。

e0f8e17e.jpeg<ナポリ風景、崖の上の建物>
 手前の垣根が利いてる。


beb9c5dc.jpeg
<サン・マルティーノ修道院とサン・テルモ城の眺望>
手前の赤い屋根と丘の対比がヤバい!

 …ただし、これらはすべて、私的なイタリア旅行の思い出メモとして残したスケッチ。つまりは、世に問うような気合いの入ったものではない。
 タイトルも本人がつけたようなものではないけど、<ナポリの壁>といい、ナポリの壁としか言いようがない。
 実は、この手の素描で現代に再評価されている、という人だけど、本気の(つまり普通の)絵っていうのはちっとも有名でない。
 しかしそれにしても写真のような構図の切り取り方。本当にこんなにばっちり構図の決まった景色なんてあるのでしょうか。
 気軽に写真を撮るなんて時代じゃないから、なるべく現実そのままを描こうと思ってたのでしょうか。
 
 でも、冒頭あたり「写実主義」なんて言ったけど、トーマス・ジョーンズ自身には、そんな立派な主義はありません。
 その主義のない、恬淡さ。
 いかにも、18世紀らしいこだわりのなさ、清々しさ。
 トマス・ジョーンズを愛する所以です。

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シャルダン展の感想…というかロココ愛。


 シャルダン展について、十八世紀が拠点とかいいつつ、何も感想を書かないのかと問われると、はて、どう書いたものか、感想がない訳ではないけれど、どうもはっきりしなくて躊躇われる。

 ジャン・シメオン・シャルダンは、好きな画家です。もちろん大好きな十八世紀ものだからという義務的なものでなく。
 でも実をいえば、シャルダンに正面から取り組んだことはない。あの時代の静物画全体に大いなる興味を持っているものの…、偉大なるシャルダン先生は歴史画を描かなかったからか、手軽に読めるがっつりした文献がなく、放置しっぱなしという。
 そしてそのために、私はシャルダンに対する自分の立ち位置を決めかねている、という次第です。
 自分に関わりが深いと感じているものほど、かえって慎重になります(笑)

 立ち位置の迷いポイントは主に以下。
「〈食前の祈り〉において、シャルダンは家庭の日常の何気ないひとこまを切り取って描いた。」
ジャン・シメオン・シャルダン〈食前の祈り〉
 ……本当に?
 そんなに十九世紀くさい見方で大丈夫?
 あるいは、それで正しいのかも知れない。でも、まろりーは確かにそうだと言える証明を、まだ見ていない。

 まあ、いいでしょう、難しい話はなしにして、うろ覚えのシャルダンのエピソードを一つ。これがまろりーのシャルダンイメージ。

 美術批評家のディドロ氏が「サロン」と呼ばれる唯一の権威ある官展に訪れたときのこと。
 案内役を勤めるシャルダンがディドロに向かって言うのです。
「どうかお手柔らかに! この展覧会じゅうで最も拙い画家だって、全ての画家の間では最高の部類なのです。皆、血を吐くような努力をして、それでも日の目を見ない輩も大勢いる中で、ようやくサロンに出品しているのです。だからどうか、お手柔らかに!」
 格好良いぞ、シャルダン。そしてなんて良い奴なんだ、シャルダン。

 イケメンではないが、シャルダンと奥さんの肖像。奥さんと似てるよね。

 シャルダンの絵の素敵なところは、この情の深さが反映している(のかもしれない)描写の柔らかさ。シャルダンが描こうとした静物と特別な心を交わしているかのような、静物を取り巻く空気と情感。 
 だからといってひたすら軟弱なだけではなく、どんなに小さな絵でも確かな存在感がある。

〈コップの水とコーヒーポット〉(日本語タイトル分からない…)
〈葡萄といちじく〉
 (全てがシャルダンの絵画という贅沢で稀有な展示なので気付きにくいけど、かつて外国のコレクションで他の有名な絵に混じって何気なく飾られたシャルダンの、はっとするような存在感は忘れません。)
 圧倒的に地味だけど、本当に染み入るような存在感。
  フランソワ・ブーシェ〈ユピテルとカリスト〉
同僚のブーシェがロココを地で行く一方、シャルダンは何て誠実で地に足ついてることか。
 でも、シャルダンの風俗画に満ちている光は、やっぱり「ロココ調」といった感じの、ハレーション気味で、ああやっぱり純粋に綺麗
だなあ。

シャルダン〈良き教育〉
 啓蒙主義の匂いがぷんぷんするけど、光がひたすら綺麗だなあ。(2回目)

 以下はあくまでも好き勝手な空想。
 おそらく、シャルダンは静物画を描くことを心から愛して、大家の自負もあったけれど、一方でその画題が当時最も格が低いとされていたことを弁えていて、多分、人物画や歴史画を描けないちょっとした劣等感もあった。
 後の時代に、写実の歴史画にも劣らない価値を世に認めさせようとしたクールベや、りんごで絵画の価値観を変えたセザンヌのように、国家転覆(笑)の野望はさらさらなく、本当にただ愛していたので、だから穏やかで情のこもった、斜に構えたところのない真っ直ぐな美しさがある。のではないでしょうか。クールベやセザンヌのような腕力は確かに無いかもしれないけど。


 晩年、〈良き教育〉のような、より稼ぎのいい風俗画のヒットと、裕福な奥さんとの結婚で、金銭的に余裕が出ると、ひたすらまた静物画に専念したのだそうな。
 歴史画家や、まだしも風俗画家の方が格上なのに、無理に名声を求めたりしないで、自分の好きな道を貫く。やっぱり格好良いぞ、シャルダン。
 でも、多分、もっと貧乏だったら風俗画とか肖像画とかをいっぱい描いてた気はする。社会から認められなくても自分を貫く呪われた画家街道には乗らないで、バランスよく。で、くそー俺は静物画描きたいのに!とか苛々しだしたら面白い。という妄想。
 
左;シャルダン〈猿の画家〉右;〈猿の骨董家〉
こういう絵も描いたりします。
妄想に長く費やした。閑話休題。


 当時の人は、しばしば自分たちの時代を「人間的な世紀」と呼んだけれど、それは絵画にも言えることで、良くも悪くも芸術は人間的だったと思う。この盛期ロココの時代、恐らく一般的な芸術が人間を越えることは滅多になかったし、その代わり絵画は宗教や王侯の権威を離れて、今日有名な画家の絵はどれも、目の前のものに感動すること、逆に空想にふけること、描くこと、芸術することの悦びや幸福感が滲み出ています。画家それぞれの愛する分野で活躍し、しかもそれが流行や大勢の考えと大きく解離することがなかったように見えます。その裏の血を吐くような努力も、血は画面にべっとり付かない。それが芸術の目的ではないから。
 みんなが芸術家の血と犠牲と殉教を嬉々として求めるのはもっと先の話。
シャルダン〈画学生〉
それにしても、この貧乏画学生の絵大好き。この背中にシャルダンも共感していたのかな。きっとリアル。
ブーシェ〈アトリエの画家〉
 でも、経歴の華やかなブーシェにもこういう時代があった?

 ちょっとシャルダン通り越して大きな話になってしまった。しかも、上記はあれです、愛着故のえこ贔屓です。とっても肩入れして贔屓目に不当に褒めてます(笑)
 どんなことにも、一方から見れば、光のよく当たる部分や陰になって見えない部分がある。そしてもちろんはみ出した例外的な部分も。
 まろりーのブログは、基本的に一方面から見える一部しか書かれていません。何故なら、このブログは、主の愉悦や幸福や讃美を書くものだから。基本的に。もちろん人間的に例外も(沢山)ある。

 さて、いい加減シャルダンに話を戻さないと…ってこの記事が始まってから一度も話の中心がシャルダンにあった試しはない。

 例のデルフトの画家人気にあやかって、「十八世紀のフェルメール」などと謳い文句だったけど、確かに黄金時代のオランダ絵画とシャルダンを比すのは面白いと思う。必ずシャルダンが影響を受けているはずだし、(最近まで無名だったフェルメールの影響は多分無いと思うけど)一般の絵画購入者にも人気だったらしいから。
 あー、まろりーが学生とかだったら、十八世紀絵画におけるオランダ絵画の影響、とかレポート書きたい(レポートレベルかよ)
 「食前の祈り」にしても既にオランダ絵画に同様の主題があり、人気も高かった。
ヤン・ステーン〈食前の祈り〉
 でも「食前の祈り」は、保守派受けのする前時代の単なる踏襲ではなくて、当時啓蒙の世紀の時流にも乗ったテーマです。
シャルル・ルブラン〈聖家族〉
⬆大体同時代の人
 良き社会は良き家庭から、良き家庭は良き教育から、とフランス社会全体で子供の教育熱が高まり(とはいえ、現実は少しも理想に追い付けなかった訳だけど)、だからシャルダンの子供主題の絵画には子供の愛らしさをクローズアップしただけでなく、教訓もあり……
 ……あれ、「静物画のシャルダン」だと思っている割には、「食前の祈り」に興味を引かれているようです。この辺云々は直ぐに調べもつくから、個人ブログではなくものの本で読んでいただくとして。
 ひょっとして、シャルダンの戦略には嵌められたのかしら。言われてみれば保守派にも先進の思想家にも向く(つまり大体全員)絵なのかも知れない。
 にしたって、けれん味がないのは、シャルダン自身の考えと、きっと合致していたのかな。才能っていうのは得てして、大勢の考えと作者個人の考えが一致していることを言うものだ(過言です)。
 結局、いつもの通りに空想に転じる。
 やっぱり、十八世紀の静物画全体でどうだったのか、そこが曖昧だから喋りにくいのよね。
シャルダン〈カーネーションの花瓶〉
 きっとシャルダンに影響を受けたり与えたり、もっと繋がっているはずなんだ。

 比較対照が他の時代しか無いから、ざっくりシャルダン通り越した話になるんだ。
 考えてみたら、シャルダン以外の同時代の静物画を10も知っているかどうか?まあ、10は知っているかな?
 誰か! 何でも良いからそれなりのクオリティの十八世紀の静物画を100点いや、50でもいい、まとめて見せて!
 タイトルも画家の名前もマイナーすぎて忘れてしまった、オランダ絵画経由のロココ期のラピスラズリの花瓶の静物とか、光の散らし方や色彩がすんごい綺麗だったんだよ。もう一度見たいなぁ。

十八世紀は、シャルダンの時代だったが、静物画の時代ではなかったのでしょうか?

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ドビュッシー展感想、音楽と美術の美術に近い方の間で。

 ブリジストン美術館にて、「ドビュッシー、音楽と美術 印象派と象徴派の間で」展を見てきました。
 
 一言で言うと面白かった。どう面白かったかを言えってことですが、そんな訳で以下ドビュッシー展のつらつら感想。
 
 予め言っておかなければならないことは、まろりーはドビュッシーについてはごく表面的な知識しかなく、その音楽について、思い付く曲は…月の光とむにゃむにゃのケークウォーク。喜びの島と牧神の午後の前奏曲が(タイトルの文学的な意味で)気になっている、そんなところ。
 
 さて、展示のストーリー。
 ドビュッシーは音楽と同じくらい視覚芸術も好きで、同時代の絵画や文学にインスパイアされて作曲したし、そんなドビュッシーの曲に影響を受けた絵も描かれた、さてその同時代の美術とは、影響関係をお見せしましょう、というもの。
 絵と音楽がリンクする、という考え方だけでもわくわくしますね。絵と音楽を結び付けるとかそういうの大好き。
 
 ドビュッシーはよく印象派と括られているけど、その影響具合を見ると、印象派に関わりがない訳ではないけど、象徴派に近いらしい。だからサブタイトルの「~の間で」。
 印象派のように目に見える現実の世界そのもの、科学的な光と色彩の効果を音楽に移して描いているのではなく、その視覚世界によって喚起される気分や想念を描いている、というのだとか。
 
 確かに、展示中に何度も登場するナビ派(象徴派)の画家ドニの、穏やかで抑制された思わせ振りな表現と少し冷たい色彩は、まろりーの表面的なドビュッシーのイメージと似ていた。ような気がする。
dobyu2.jpgモーリス・ドニ<イヴォンヌ・ルロールの3つの肖像>

 でも、まろりーにはドビュッシーの音楽には、ナビ派みたいな明確な輪郭があるようなイメージはない。…歯にものが詰まったような言い方ですね(笑)まあ、実際詰まりまくりなのです、先入観だけで話しているから。
クラシックには強いめの友人;ドビュッシーって、メロディが3つも4つもあるじゃない?
音楽といえばバロックのまろり;ドビュッシーにそんなあったかしら…。
 …沢山のドビュッシーを聞いてないのでまろりーの考えは何だか誤解っぽいけど(笑)えーと、そういう輪郭のないところが「印象派」なのかなとそぞろに思ったり。…最近覚えたての画家、アンリ・シダネルも描き方としては点描を駆使した印象派的なものだったけど、内容は見た目を越えた含みのあるものでした。あんな感じなのかな?
b70357d2.jpegエドモン・クロス<黄金の島>
 結構、気に入った絵。近くから見ると、青や黄色やオレンジの斑点の規則的な並びでしかないけど、タイトルを与えられ、少し遠くから見ると海と砂浜になる。
 それだけなんだけど、近寄ったときの装飾性と、遠ざかったときの現実性、二つを楽しめるとこが気に行った。
 
 それにしても、ドビュッシーの若い頃の肖像って、坊っちゃんカット?の髪型似合ってないと思うんだ。
dobyu1.jpg
しかし、お土産でその顔が沢山キャラクター化されていて、金太郎飴にまでなっていて、可愛くも格好よくもないけど、印象的な顔です。
 そんな似合ってない髪型のドビュッシーがプリントされてるお土産の缶バッジ型再生機が面白かったな。イヤホンを差すと、十数曲のドビュッシーが流れるという缶バッジ。しかも選曲は展示に関わりのあるものだから、これ聞けばきっと展示内容の理解も深まるに違いない。
 
 さて、早速脱線したな。いや、展示を順番に思い出していくと、最初にドビュッシーの肖像画で、それで髪型似合ってないなぁと(前段に戻る)

 やはり思わせ振りな習作など。確か春と題されて自然の中で女性たちが戯れている。色彩、均質な光線、平面的な舞台、軽やかに襞の舞う衣装、ルネサンスを彷彿とさせます。
 彼らが、近代より前の絵画の精神をもって新たな絵画を創ろうとしたように、ドビュッシーにもルネサンス音楽の影響とかあるんだろうか。あんまりルネサンス云々なイメージはないけど。ただ、確か、既存のクラシック音楽の規範をうち破ったのだったよね。
 
 象徴派的なロセッティの、ロセッティぽい大きな素描。ロセッティ好みの顔が神秘的な柔らかい光に浮かび上がっている。赤と黒の2色だけでそれを成し得たことに感嘆しきり。
 ドビュッシーは、ロセッティの「祝福されし乙女」という詩と絵画に大いに触発されて、同じテーマで「選ばれし乙女」という曲を作ったというお話です。どちらとも内容知らないので、ぼやぼやとしか分からないけど、タイトルだけでも十九世紀の香り高い。
 
 ドビュッシーは、画家にしてパトロンのルロールさんのサロンに出入りをして、当時最先端の絵画や文学に触れていました。
 
 そのルロールに関わる絵画が数点展示されていて、ドビュッシー本人が浸かっていた空間を垣間見ることができます。
 良いご身分のルロール本人の室内画とか。
 絵自体はオランダの室内画を当世風に翻案したもので、多分、ドビュッシーも訪れただろうご自宅(多分)の光景。暖炉、家具、それらに置かれた雑貨、黄色い壁紙、そこに所狭しと架けられた絵、少し遠くから奥さんがアップライトのピアノに向かっているのを見る定石通りの室内画。
 別のものは、確か、服の掛かった椅子とその隣の開いたドアとその向こうの室内の絵。奥には逆光のなかにシルエットになったぼやけた人影がある。手前にはっきりと描かれた、椅子に無造作にかけられた女物の上着によって、影が女性であること、彼女がそれを脱いで寛いでいるだろうこと、その影のいる室内空間が彼女の領域であることを暗示している。そして鑑賞者はそのプライベートな部屋を覗いている。…ような絵だった気がします。
 
 ルノワールによるルロールの娘たちの肖像。
dobyu3.jpgルノワール<ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ>
 背景の壁にはルロールが大ファンだったというドガの絵が架けられていて、彼の所有するドガを入れてくれという注文だったのか、ドガ好きがアイデンティティーだったのか。ルノワールさんのドガ模写とか、ちょっと興味深い。やっぱり、端っこの方にちらと描いた感じでもドガさんとちゃんと似てる。
 サロンでは、ドビュッシーもやっぱりこのピアノを弾いたのかなぁ。
 
 カイユボットのピアノを弾く男性の絵。
 無理に高い視点で描いてある。遠近法の調子が現実と離れているようで、見ているとぐらぐらする。でもきちんと八十八鍵ありそうな鍵盤の描写と黒塗りのボディへの奏者の手や光の映り込みが見事です。
 ピアノの製作社の装飾付きの金色のロゴに見覚えがあるような気がしました。エラールとかプレイエルとか。丁寧に調べれば特定出来そうなそうでないような。(←その気はないらしい)
 
 「春」というタピスリー。枯葉色の地にえんじ色の草花の模様、同じ色の輪郭に縁取りされた三人の女性たちがジグザグに重なるように描かれている。彼女たち白い衣装が、写真にあったルロールさんの娘たちの服装と一緒で、このタピスリーも当時最先端のモダンな模様なんだなと思う。
 春=ラ・プリマヴェーラ(ボッティチェリの)ということで三人の白い女性たちは、当世風の三美神を表しているのかしら。つまり、やっぱり聖なる乙女的な…。ちょっと読みすぎかな。
 
 ルロールの月夜のチュルイリー公園の絵。灰色がかった紫を基調とする小さな絵で、やはり月によって醸されるセンチメンタルな効果を狙っているのでしょうか。上野公園で東博を背にして見る景色に似ている。←この絵の感想。
 
 舞台にも取り組むドビュッシー。中世イメージの衣装やとてもファンタジーな背景など。
 バレエの「牧神の午後」の写真がいくつか展示されていました。
 何故かホルスタイン模様のサテュロスと、ニンフたちが、横向きであることを強調して写してある。
 自然な動きからはかけ離れたその無理なポーズは、牧神=ファウヌス=サテュロス=ギリシアということで、古代ギリシアの壺絵を再現しています。遺跡発掘&新発見により時折おこるギリシアブームの最中なのだとか。ギリシアのエキゾチズムと古代ロマンはいつの時代でも有るものです。
 それにしても、生き生きと描かれている壼絵を、生身の人間がそのまま真似すると、なんと不自然でぎこちないこと。静止して、厳粛で、儀式的なポーズ。あるいはエジプトの壁画みたく荘重で神聖な印象を与えるかもしれない。
 それが、ギリシャの壼絵の当時の解釈なのかな。そういえば、ヴィクトリア朝な写真で、超作り込まれて作為的な、プーサンの神話画みたいのを見たことがあったな。つまりは、絵画の空想世界を実写でやろうとしている写真。あれと同系統?
 どんなバレエだったのだろう?まさかあのぎくしゃくした写真のままの踊りではあるまい。・・・ごめんなさい、某お笑い芸人の「暇を持て余した神々の遊び」を思い出してる(笑)あのコント?の動きって、ギリシアの壺絵とか、エジプトの壁画とかイメージしているよね、と勝手に思ってます。さて、牧神の午後の写真も、あれはきっと写真用のポーズなのだと、勝手に思っています、だってそうじゃないと、暇を持て余した神々の遊びみたいになっちゃうじゃないか(馬鹿)
 
 多くの同時代の芸術家たちと同じように、日本の浮世絵や工芸もドビュッシーのインスピレーション源になりました。実際に東洋の品々をコレクションしていたのだとか。
 東洋チックなカエルの置物。「アルケル」君と名付けられたらしい。アルケルの綴りに、フランス語っぽくない「k」がわざわざ使われているあたり、異国情緒?アルケルというのはフランス人にとって外国人っぽい名前なんだろうか。
 伊万里(確か)のパゴダ(太鼓腹に太って笑っている滑稽な中国人)のインクつぼ。完全にヨーロッパ人向けの日本製。そして、日本人の外国人受けを狙いまくったパゴダにうまうま引っかかるフランス人がここにいた(笑)
 ご自宅に等身大の仏僧の木彫を置いたり。一緒に写った写真が展示されているけど、その大きな人型の木彫は、写実的な造りで存在感たっぷり。居合わせたスーツの人たちに混じって、僧侶の頭と着物の人が…。例え日本人でも、この大きさの仏僧はお部屋に置きません。やっぱり、こういうところ東洋に興味のあるファッショナブル・フランス人だよね、ドビュッシー(笑)
 「海」の楽譜の表紙は北斎の波をほぼそのまま写した木版画だとか、日本から輸入した扇子にドビュッシーが楽譜を書いて人に送ったりだとか。
 広重の風景画の葉っぱの描写は、確かにドニの描く葉っぱに転用されていた。ミューズたちの葉っぱとか、ほぼそのままなのでは。
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左;歌川広重<名所江戸百景 真間の紅葉手児那の社継はし>
右;モーリス・ドニ<ミューズたち>

 そのドビュッシーの直筆の楽譜、当たり前ですが、おたまじゃくしの書き方がプロっぽい。とっても書きなれて無駄の全くない小さな音符。プロだなぁ(笑) あと、小さなメモ帳が五線譜になってて、それにスケッチとして音符が書きこまれてあったり。プロだなぁ。

 鯉の描かれた蒔絵の品。漆の黒地に金の鯉が踊っています。
 ドビュッシーの曲に「金色の魚」というものがあるそうで、確かにこの蒔絵からインスピレーションを受けたんだろうな。どんな曲なんだろう、金色の魚。

 
 はてさて、全展示を通して。
 今やドビュッシーは歴史的な人物として、「クラシックな」レパートリーだと思うけど、彼は当時最先端の諸芸術と交流・共鳴し、前衛的な芸術運動に組していた――というのがドビュッシーの音楽を知らなくても、絵画を通して見ることが出来ます。つまりは、それを聴き通すには何時間もかかるのに対して、関連のある絵画を見ることで、多くても数時間ですむ。とて、今さらラファエロ辺りの時代みたく、絵画と音楽どちらが優れたるかを問い、絵画の音楽に対する優位性とかを語るつもりは勿論ない。
 ドビュッシーの「モデルニテ(当時の現代性)」ってやつを体感したと思います。まあ、最終的には、音楽と絵画は別物なので、ドビュッシーの音楽を聞いた事にはならないから、気のせいなんだけど。
 
 ところで、ドビュッシーには「雅びやかな宴(フェート・ギャラント)」という曲があるらしい。そういえば昔、CD屋さんで「フェート・ギャラント」と銘打たれ、ジャケットもヴァトーのシテール島で、おやロココ音楽かと期待したらドビュッシーのCDで、騙された畜生と思った経験がある。別に騙されてはいなかったんだ(笑)

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なんせんす・さむしんぐ

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