忍者ブログ

○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

冬猫



こたつで丸くなれないから、ちょっとだけ機嫌が悪い。

拍手[2回]

PR

12月25日拍手お返事!

コウセイさま>
 ご清覧&コメントありがとうです!
 カイユボット、展示から判断するに、お金には困らなかったようです。
 ほんと、商売にならないけど好きなことに打ち込んで、羨ましすぎるの一言です。
 ただ、腹違いのお兄さんが神父さんだったり、弟の一人が早くに亡くなってしまっていたり、そういうドラマチックもあるみたいです。

 遠近法、なんだか不思議ですよね。
 テーブルの上をみると確かにこんな感じかなぁと思いつつ、正面に座って執事にお皿差し出されてるお母さん遠いなぁ、ってかテーブル広っ、とも思いつつ(笑)
 ピアノの絵は、遠近法がかなり不安定だし、ヨーロッパ橋の絵も、たぶん無心に5分くらい絵の前でじっと眺めていると、ちょっと酔ってきそうな気配を感じました(実際そこまでは眺めていません(笑))
 あくまで私見ですが、一風変わった遠近法になみなみならないこだわりを感じました。
 一応、時代は印象派の時代ですが、ちっとも印象は描いてないですよね。

 猫の写真は・・・鉄板です!(笑)
 

 ヅラ問題について。ちょっとうろ覚えなところがありますが・・・。
 人毛も使っていましたが、馬のしっぽの毛とかも使っていました。確か何かの本で、やはり人毛は高級品で、なかでも金髪が一番だった、とか書いてあったような…。

 昔の人の頭が白いのは、白髪かっこいい!(いえ、白髪が流行だったのは確かですが、定かな理由は知りません)と、頭から小麦粉などの白い粉を振りかけて白くしていました。日本語では「髪粉(かみこ)」って呼ばれます。現代だったら小麦粉かぶるなんて完全に罰ゲームですよね(笑)

 ↑グーグル検索で見つけました。これは戯画なので強調してはありますが、こんな感じのようです。他にパフでやさしく髪粉をつけているなんて絵もあります。

 実際に髪粉ふりかけた鬘をかぶっているひとを見たことがないので分かりませんが、鬘の洗濯なんか滅多に(あるいは全然?)しないだろうから結構触りたくない感じにばっちいのでは…。
 肖像画ではみんなナチュラルな感じにびしっと被っていますが、実際は割と不自然な人も多かったのでは、と疑っています。
 生え際は地毛でカールなど部分的にヅラな半鬘(よりナチュラル)なんてものもあったようです。
 

 はっ、ヅラトークが思わず長くなってしまいました(笑)

拍手[1回]

馬と龍笛


 年賀状用。いつものように楽器持たせとけば何か絵になるだろうって思って。
 …笛に見えるかはまた別の話…。



べたな感じに背景つけてみました。一応ね、和紙をイメージしてるのね(言わなきゃ分からん)
正直、本体より背景のがレイヤーいっぱい使っているとか、センス無い。

拍手[0回]

山種美術館の古径と土牛展

古径と土牛はほとんど知らない。名前は覚えていて、素敵だなあと思って作者を見ると古径だったとか、まあそんなところ。

 一言で言って、癒される。古径の18歳ごろの絵が展示されていて、十代の男子とは思えないほど、歳の割に悟った感じのする画風。俗気がなく、なんというか清廉潔白な感じ。
 そして、その画風の清々しいこと。

 説明文によれば、古径のお師匠の教えは、絵に卑しいところがあってはならぬ、というものらしいのですが、本当に卑しいところがない。しかし師匠の言い付けというよりは、多分そもそもそういう性格なんじゃないだろうかと思ってる。

 土牛も古径を評して「高潔な人」と言っているし、人間臭さが無い。
 期待している訳ではないけど、少なくとも表面的には全くプライベートな生活感が垣間見えない。(見る人が見れば、あるんだろうけど)

 もちろんそれが悪いというのでなく、ただ常人離れしているなあと。こういう生まれ持っての非人間性は天才と言えるのかも。

 いや、「非人間性」というのは悪い意味でなく、まあ卑俗なところがないという意味で、全くの人間性がなければさすがに芸術表現として成り立たないと思うからね、冷血だとか共感が湧かないとか、そういう意味ではない。

 そして、デザインセンス。
 ヨーロッパの絵画の影響を新しく受けた時代の人らしく、油絵で静物画を描いてみたり「写実」を模索していたようで、日本画の枠の中で西洋的な立体感、遠近感、質感表現を研究しているらしいことが伺えます。

 が、日本画の例に洩れず?、追い求めているものは、単なる現実の形や質感の模写ではない。という事は展示中の古径語録で繰り返し説明してある。

 そこで、描く対象の目に見える以上のものを描くためのデザインセンス。
 デフォルメの仕方や色彩の取り合わせの妙や余白とか。

 それらがあいまって清々しくて(二回目)、デトックスというか、俗世から逃れて清浄な空気のうちにいるような気にさせて、癒されるという訳です。


 さて、展示では古径をリスペクトする弟弟子の土牛と、そんなセンス=画風の違いをダイナミックに見ることが出来ます。

 というか、師匠が病に倒れて、齢い23歳で画塾の講師として弟弟子たちを教えたという古径が、天才すぎる。…まろりーの脳内でもう20代にして人間出来上がってるかのようなイメージが、すっかり着いています。

 さて土牛の方は、ずっとおおらか。

 絵の具の表面を盛り上げたり、色むらを作ったり雲母がきらきら光っていたり、古径が専ら「線」がいかに生き生きと命を宿すかに心を傾けるように見えたのに比べて、土牛はそうした面の部分の効果も追究しているようです。

 白眉の鳴門の渦潮は、下書きも無しに色面だけで描き上げた絵で、ひたすら格好いい。

 動物の表現は面白く、古径の牛や犬は人の目をしていた。例の有名な猫はきちんと猫の目。

 土牛の犬と猫は、くしゃっとした形になっていて、ちょっと偕謔的。古径のがはるかに律儀な感じ。


 実際のところ、2人がどんな人柄だったのか、具体的なことは知らない。

 でも、絵は人なり、というか、ああ2人ってそれぞれこの絵の通りの人だったんじゃないかな、と思った展示でした。
 こうした画風の全然違う2人の画家を排出したお師匠梶田半古がどんな絵か気になりました。


 脱線。あくまでも空想ですが、古径が宇宙人に思えてきます。常人離れしてて(笑)

 ちなみに私の脳内で、実は宇宙人設定の筆頭はヤン・ファン・エイク。…油絵の技法を完成させた、ってそれ以前の油絵画家なんて思いつかないし、創始者にしてその完璧さは突然変異過ぎだろう。宇宙から油彩技術を持ってきたっていうのが、一番説明がつくんだけど(笑)

拍手[0回]

ブリヂストン美術館のカイユボット展感想

  一番の感想は、このお金持ちめ…!

 とにかく、展示を通して分かること。
 資産家に生まれ、画家になるも、絵で生計を立てる必要が無かったために、積極的には自作の絵を売らず、仲間の印象派の作品を買ったり、展覧会開催の資金を提供するなどして金銭的に援助し、夏になるたびに別荘へ行き、趣味のボートに熱中し、大会にも出て、果ては大きなヨットを自分で設計・制作し、また田舎に別荘を買い趣味のガーデニングに没頭し、弟も音楽家になったが、あまり活動せず、兄と趣味を共有していた…という。

 …兄弟でお金稼いでる気配が無い…!?
 そんなんだから、絵も趣味の一環で画家というよりは、印象派のパトロンとして先に評価されてしまった、というのがカイユボットさんのようです。
 画家としての評価が高まったのは本当に最近のことらしく、「芸術家と言えば周りからなかなか理解されず社会の価値観と戦い常に貧乏で金銭的にも精神的にも苦労する」みたいなイメージ像からかけ離れてしまっては、無理もない。(過言)

 さて、そんなカイユボットの自画像で展示の幕は開きます。
 …育ちが良さそうな顔立ちだな。
 晩年の肖像画もあって、セザンヌの自画像と比べることが出来ます。印象派に組するカイユボットは、セザンヌに比べるとより現実をリアルに写そうとする傾向があるのが分かります。

 家族の食事の様子を描いたものには、早速に金満家ぶりが発揮されています。
〈食卓〉
 広い室内、陽光がレースのカーテンに透ける大きなフランス窓、見事に磨かれた高級感溢れるテーブルに映る窓の光と食器、ナイフとフォークでお行儀良く食事する弟、かしずく執事。

 まあ、そんなお金持ちっぷりのことは一旦忘れましょう。うん。
 食器の乗るテーブルの描き方がちょっと変わっていて、テーブルの手前側は真上から見下ろしているけど、奥に向かうにつれ視点が下がって斜め上からの視点になっている。
 つまりオランダ絵画とかのような単純な透視図法ではないようです。多分、このテーブルに座っている人=カイユボットの視界を再現しているらしい。そこでは自分のお皿は真上から見るけれど、向かいに座る人は横から見ることになる。
 この絵の真の主役は、人間たちというより丁寧に描写してある窓からの光線で黒光りするテーブルの輝き。

 この時期に、こうした反射光を研究したようで、先のドビュッシー展でも展示されていたピアノを弾く弟の絵も、一風変わった遠近感とピアノに映りこむ窓からの陽光と白い鍵盤とピアニストの手が、食卓の絵と共通している。
〈ピアノを弾く男〉
 ドビュッシー展のとき、このピアノのロゴに見覚えがあるなあと思っていたら、エラールのピアノだと明記してありました。
 で、この絵の傍らには本物の時代物のエラールが鎮座していたのでした。
 おー、絵の中のピアノと、その大体同じようなモデルのピアノを見比べられるのは面白い。脚の形やロゴが絵と一緒。

 そういえば、カイユボットといえば床を削る人の絵。あれも窓からの陽光とそれを反射する床、削りたての反射しない床とを描いていて、食卓やピアノと同じ興味なのかも。
 〈鉋をかける男たち〉

 かなり面白かったのは、観覧者の参考にと掲げられている画家の年表。
 こういう事実は調べたければあとで調べればいいし、と普段はそんなに見ない。
 でも、このカイユボット年表、液晶パネルで出来ているのです。
 数秒ごとに年表の文字がマーカーされたように緑に光り、年表中央の余白に次々とその時期の関連する作品が現れる。年表に別荘地を購入、とあったらその別荘地の庭園の風景を写し出したり。やっぱり動画というのは見てしまうように人間出来ているのでしょうか。

 続く順路は都市の風景。この頃のパリは、狭くて暗くてごみごみして汚いと大評判だった街並みから、今見るような美しい街並みへと大改造をしていたのでした。
 カイユボットの弟(確か)が撮った写真には、屋根を架けている最中らしいモンマルトルのサクレ・クールも映っている。
〈ヨーロッパ橋〉
 目玉のヨーロッパ橋。室内画で見せた何だか凝った遠近法が顕著です。
 多分、カイユボットは光の反射とちょっと凝った遠近法に興味があるんだなあ。
 〈パリの道、雨〉
 雨の日のパリ。幾つにも放射状に枝分かれした例のパリ的な大通りの景観。建物の水平線もあちこちに伸びています。
 黒いこうもり傘を差して歩く人々。曇天の白い光を反射する石畳の道。

 真上からみた街路と街路樹とか。きっと最新式のアパルトマンの上階から見下ろしたんだ。
 臨場感のある視点へのこだわりは、趣味の船の絵でも発揮されています。

 二人乗りのボート? 視点は低く、ちょうど船に座った高さ。目の前でおじさんが漕いでいる。
 
左:〈ボートを漕ぐ帽子の男〉右:〈イエール川でボートを漕ぐ人〉
 色も面白くて、低く視点に広がるターコイズブルーの川面に、鮮やかなオレンジ色のオール、その波立つ反射。殆ど補色同士でお互いの色を引き立てあっています。

 パリ近郊の田舎に土地を買ったカイユボット。
 その近くの風景を描いた絵が、こういうの超好きです。
 晴れ渡る空の下、とってもフランス的な平原、お花の絨毯が広がっている。

 お花が好きというガーデニングの趣味も、作品に反映したようで、壁紙のように装飾的な花の絵は、どうやら別荘の壁を飾る目的かと思います。
 折り重なって伸びる緑の葉と、ちょうど良く配置された白い菊の類の花、透明感のある青の影。僅かなな違いのバリエーション4枚かかっていました。 
 これは、やっぱり純粋に趣味かも知れない。
 何か凝った遠近感を構成する今までの画風とは全然違う。ずっと奥まで見通せたヨーロッパ橋と違って、遠近感は極めて浅く、お花と葉っぱの重なり方が分かる程度。
 もちろんいつもと違って壁を飾るという目的が第一にあって、視覚の実験的なものではないけど、こういうのもイイネ!

 はてさて全体的に…カイユボットさんの絵をこんなに沢山初めて見て、彼の裕福な人並み以上の暮らしには嫉妬を禁じ得ないが、結構面白い絵じゃない。もう一回、別のカイユボット展第二段とかあったら、リピートしちゃう。
 そして、今は公園として一般に開放されてるというカイユボットの広大な庭をもつパリ近郊の別荘もちょっと行ってみたい。

拍手[1回]

なんせんす・さむしんぐ

なんせんす・さむしんぐ
お越し頂き有難うございます
美術・音楽の話題を中心に 時々イラストを描く当ブログ
お楽しみ頂ければ幸いです。
道に迷われましたら、まずは
「ご案内」にお進み下さい。

忍者ブログ [PR]