4月は忙しくなりそうで、いつ書きあがるとも知れないので、途中でアップ。
まだ、書く事が整理出来ていないでところどころ文脈崩壊しているけど、まあ、新品の廃墟状態(笑)で記事挙げます。
ユベール・ロベール展見に行きましたとも!
どこまでここでお話出来るか知れないけど、その感想は。
まずは…展示を見て、初めてあれほど沢山なロベールを見たけれど…
どうやら私は彼を弁護しなければなりません。
何というか絵だけを見ると、ユベール・ロベール、ひょっとして油絵より赤チョークの素描の方が上手いような(笑)
素描の、闊達で淀みない颯爽とした筆致は、的確な細部の省略で明暗とものの形と空気を鮮やかに描き出します。
が、丁寧なタブローになると、色はやや濁って明るく穏やかで綺麗だけど、何だか奥行きやその画中に漂う空気が、浅い。(まあ、彼の価値はそこではないけど)
で、豪華なゲスト陣に名画オーラで負けてるというか(笑)
とりあえず、一番の感想は、クロード・ロラン半端無え、だった事を白状します。二番目は、ブーシェ先生のきらきらっぷり飛び抜けてる☆ あれ、ロベールを見に行ったのにな!
かつてル-ヴルで、もっとラフで寛いだ筆致のロベールの小さな廃墟が、それとそっくりの画風のフラゴナールと並んでいるのを見たけど、そういう素描みたいな油彩の方が面白かったな~。
さて、そんな訳でそれでも挫けずロベール愛を語ります。そういう残念なところもいいよ、ロベール(笑)
それでも、まろりーの代弁者であることには変わらないのです。
初めはユベール・ロベールの肖像。作者不詳だけど、原画は仲良しらしいヴィジェ=ル・ブラン。
真面目な顔で在らぬ方向を見つめて芸術的な霊感を受けているご様子。
そのヴィジェ=ル・ブランの伝えるロベール像を何かの本の引用で読んだけれど、嘘か誠かそれが私のロベールイメージだったりします。
ロベールは、さる宴会の折り、軽業師のコスプレで登場したかと思うと、おもむろに床に一本の白線を引き、その線の上をいかにも綱渡りをしているように歩いてみせたので、場は大爆笑であった、と。
この顔…やりそうな顔だ。教養深く社交上手で快活な人だったそうです。
さて、次がユベール・ロベールの源流として紹介されているクロード・ロランとサルヴァトル・ローザ。
正直、この二枚がこの展示の最大のクライマックスな気がします(笑)
クロード・ロラン<笛を吹く牧人のいる風景>
クロード、本当半端ない!
彼がこの種の絵を描いてこの方、彼に対する讃美が止まない訳です。 この世ならざる輝きに満ちた大気。何より画面を満たして全てに調和をもたらすこの輝く大気。大きく育った木々の中、古代風の神殿が配されて、古代風の服の人物たちが居て、笛を吹く人がいて、サトゥルヌスの黄金時代もかくやというばかり。
重くなく軽くなく、悲劇でも喜劇でもない、これ程の壮麗さは、確かにロベールにはないものです。
十八世紀も相変わらず、模範で在り続けたクロード。
現実の風景にクロードらしさを求め、特に風景画を好むイギリスでは、クロードの絵のような実際の風景に出くわすと大喜びで、その風景を額入りのわざと黄ばんだ鏡に映して、「まるで絵のようだ」と楽しんだのだとか。
そして、そんな風景がそこかしこにごろごろしているのが、クロードが描いたような廃墟に富んだイタリアだった。というより、クロードの絵の霊感源はイタリアの風景だから、イタリアがクロードっぽいのではなく、クロードがイタリアっぽいのだけど、その辺が錯綜してしまうのが、現実に絵画の虚構を求めるピトレスクの美学。
果ては自分の庭園にそんなピクチャレスクな風景を人工的に作り出したり(素敵な木を植えるに留まらず、新品の廃墟を建てたり、完全な建築をわざわざ半壊させたり!)、それが新しい庭園のスタイルとしてイギリス式庭園と呼ばれイギリスを越えて流行しだしたり。
この流行は、後々ロベールの芸術活動に深く関わって行くことになります。
さて、クロードは規範ではあったけれど、十八世紀の画家たちは、ただの模倣に終わらない新機軸を打ち建てようともしていたのでした。
模倣から抜け出す為に一番推奨されたのが戸外での外光のもとでのスケッチ。ロベールの数々の赤チョークによる素描はそのような背景で制作されていったのですが、ロベールの素描は、単なる油彩の練習ではありません。モノトーンにはなるけれど、それは油彩以上に彼の素直な気分、とりわけ自分が目にするものを賛美する気分を表しているようです。
ユベール・ロベール<ボルゲーゼの壺>
そしてロベールの新機軸は、これは私の印象に過ぎないけれど、クロードのバロック的壮麗さと引き換えに、神話を等身大の人間サイズに引き下ろしたこと。
廃墟はクロードの神話と繋がっているけど、そこにいる人たちは、紛れもなく我々観者と同じ世界の人間です。廃墟を日常として使っている洗濯女、羊飼い、地元人、発掘者や観光客など。遠大な神話という化石のようなものと、小さな一個の血の通った生身の人間と、そのあわいで媒介しているのが、ロベールの廃墟なのです。
そんな廃墟など個々の対象に焦点を置き、いとも易々と、軽々と、饒舌に、その対象を積み木のように組み合わせて空想や観光地の記憶に戯れる愉悦がどの絵にもあらわれています。
ってこの文章は、あとに配されるべきものかな。要推敲。
そしてサルヴァトル・ローザ。これが、名にし負うローザ!
サルヴァトル・ローザ<メルクリウスのいる風景>
って、ローザの絵は購入したカタログから移さないと駄目っぽいので、今は似たような図で代用。
ローザの絵は、何となく格好いいなーと思いつつも、まだまだ詳しく知らない。全然本物は見たことないし、図版もあまり沢山は見れていないのだもの。格好いい系の風景画だと思っています。今回、ローザの廃墟ないけど。
この画家が出てくる時にほぼ必ず引用される言葉を、私も繰り返しましょう。
'Precipices, mountains, wolves, torrents, rumblings: Salvator Rosa'
「断崖、山岳、狼、急流、雷鳴ーサルヴァトル・ローザ」
Byホレス・ウォルポール
これが、ローザ!
霊感に満ちた筆致。ただ一筆の白い絵の具の擦れが、山を降る小黒い急流の水飛沫になる。
先ほどちらりと単語を出した「ピクチャレスク」。フランス語ではピトレスクになりますが、ピクチャレスクの代表格として、十八世紀に人気を博したのがローザ。
簡単に言えば、当時、特にピクチャレスクで視覚に訴えるものと(勝手に)定義されたのが、ごつごつしたもの、滑らかでないもの、不規則なものなどでした。
ローザの描く荒々しい自然は、絵画として変化に富み、これもまた、クロードみたく異世界ファンタジーを思い起こさせます。
この風景は「山賊が現われそう」と評されて、「っていうかローザ本人が山賊でしょ(違))」という伝説まで生みます。
きっとお分かりになるかと思いますが、山賊、海賊、盗賊、とにかく賊というものに、善良で安全な市民はファンタジーを感じるものです。
ちなみに、18世紀当時のローザの生地ナポリ周辺は、本当に山賊が出没したのだとか。
そして、崩れてごつごつした表面を見せる廃墟は、完全な建物よりピクチャレスクなのです。
という感じに、ロベールに続く。
ロベール本人に到達するまえに、時間切れとなりました。あれれ。ごめんなさい、推敲ゼロできっと、まだ分かりにくい。
しかし、まあ、ユベール・ロベールの絵は、案外見たままな感じなので(笑)
ロベールの描いたアルカディアというものは、いわば「遠くにありて思うもの」。「帰りたい、でも帰れない」というような理想郷なのです。
それは、ウェルギリウスの「牧歌」という詩に描き出され、第一歌の「田園追放」で始まり、第十歌の「ガルスの死」で終わる、そんな何もないところ。
どんなに言葉を尽くしても、見えない人には見えないし、見える人には言葉など要らない、それがアルカディア。
<アルカディアの牧人>
次回、もうちょっとましになった記事の続きをお届けします。期待はしないで(笑)
ロベール展感想の続き
あ、ロベール展の感想に際して、これだけは先に言っておかなくては。
同時開催のピラネージの「牢獄展」ね、最高。下手すると、ロベール以上(笑)
当時人気がなかったのか、数も希少な第1版と、大幅な描きこみがなされてよりダイナミックに修正された(普通、牢獄の図版はこちらをつかう)第2版とを、並べて展示。
これ以上の展示の仕方はありません。
具体的で明暗のはっきりした第二版もいいけど、第1版も好き。絵の中の空間が、描きこみが少ない分広々していて、楽しい。
さて、どんな罪を犯せば、あの牢獄に無期懲役になれるのか、きっと考えずにはいられないはずです。
ユベール・ロベール展が楽しみすぎて、仕方のないまろりーです。本当、どきどきする。まるで、肖像画でしか見たことのない婚約者に初めて会うかのような、ときめきです。
ユベール・ロベール、廃墟のロベールこそは、このまろりーの代弁者。このような絵が描けたらなぁ!こんな風にムーサと戯れられないものでしょうか。
矢も楯もたまらず、上野を通りすがったおり、図版だけ先に買ってきました。馬鹿だなぁ・・・。冒頭の論文と参考文献表が楽しみ!
・・・まだ、なかの展示を見る暇はなくて、見れていないのですが。いやーこんなロベール展なんてものが実現するなんて思わなかった。本当、涙が出る程嬉しい!!しかも同時開催、ピラネージの牢獄ですって、幸せすぎる。
廃墟への思い入れと、アルカディアを希求する気持ちと、過去への追憶、神話世界への憧憬・・・、牧歌。
ロベールについて、展示を見る前に、自分の先入観をまとめておこうかな。
しかし、まとまる見込みがつかない。
廃墟論、庭園の美学、ルソーを代表する思想、革命機運、古代遺跡の発掘と新古典主義の流行、ウェルギリウスと牧歌、田園の美、ピクチャレスクと崇高美の勃興、おそらくはアカデミーとサロンとか。うーん、18世紀後半に横たわる色々な美術の問題がてんこもりでまろりーの力では書けそうもないな。美学系はちょっと暗いよ。
これでフラゴとか加われば、18世紀の社会がすごく浮き彫りに・・・・って本でも一冊書くつもりかしら?待て待て、妄想で留めておこう・・・。
ロベールについて今までちょびちょび書いているからそれをまとめてみるか…。自分、なに書いてたかしら・・・。
ああ、本当に!楽しみで仕方がないのです。暇さえあれば、廃墟とアルカディアのことを考えています。
図版をちらちら見たけどね、「アルカディアの牧人」なんて、もうロベール一回死ねばいいよ、プッサンのアルカディアの牧人のパロディのようだ。遠くから牧人の墓を見ている。その墓には「我もまたアルカディアの牧人 ユベール」(!)と書いてある。ずるいよ、その台詞は。et ego pastor in Arcadiaだって!?完全に、ego(私)は人間じゃないか、プッサンのように「死」と解釈しうるのではなく…。ゲーテと同じ事言いやがった、羨ましすぎて妬ましい!!
アルカディアの墓に私も葬られたい。
という、興奮さめやらぬ乱文。ちょっと言わせて欲しかったの、脈絡を欠いても。
とりあえず、まろりーのテンションの高さに比して、お土産のテンションの低さに笑みを禁じ得ません。予算の少なさというか、知名度のなさというか。
まあ、ね、グッズにもなりにくいよね。これこそまろりーローマの廃墟フィギュアとか欲しかったけど(無いよ、そんなの)
三菱一号館の「ルドンとその周辺-夢見る世紀末展」行ってきましたので感想を。
目玉のグラン・ブーケですが、想像以上の美しさ!!あまりの美しさに、その場にもし誰も居なかったなら、泣きだしていたところです。
オディロン・ルドン<グラン・ブーケ(大きな花束)>
私も幸運でした。この縦2メートルを超える絵がただ一枚掛けられた部屋に足を踏み入れた時、そこには壁に4人程が寄りかかってこの絵を眺めているだけで、この嘗て見たことのないグラン・ブーケの全てが、目に飛び込んできたのでした。
それは絵の内側から輝くようで、パステルという軽やかな素材のなせる技なのでしょうか、これがもともとは布と顔料だったことを忘れさせる程の衝撃でした。
さて、まろりーはこの感動を伝えるに、十分な語彙を持ちません。まろりーは何とか、この絵を言葉に置き換えようとしたけれど、とてもとても追いつくものではありません。
この絵さえ無ければ、もう少し展示を早く見終わることが出来たと思うのですが、なにしろ立ち去りがたくて、暫くはこの部屋を出る事が出来ませんでした。
この感動の一部は、きっと照明技術に捧げねばならないでしょう。
この信じられない程の巨大なパステル画の全てを均等に照らす、この絵のためだけに用意された照明の素晴らしさ。勿論この弱々しい媒体を守るためにその他の照明はなく、暗室の中でこの絵だけを輝かせている、この特別な照明。顔料は一部の光を吸収し、一部の光を反射して、絶妙な具合です。油絵だったら、ここまで輝くのかどうか?
三菱一号館のルドン展は、このグラン・ブーケを新規収蔵した記念で開催されたとのことですが、ええ、その喜びは並みのものではないようです。油絵より耐久性に欠けるというパステル画だから、いつでも見れることにはならないと思うけど、購入してくれてありがとう、ですこちらとしては。
そばにスフィンクスの絵があって、ちょうどソポクレスのオイディプス王を読んだ後のことで、タイムリー。ドラマとしては、オイディプス王が主人公だとは思うけど、絵としては、スピンクスの方が描きがいがある、と思うのは、個人的主観。
<翼のある横向きの胸像(スフィンクス)>
ある時期、ルドンは観衆に親しみやすいギリシア神話を元にした絵を描いていたとの事ですが、ちょうどソポクレスのオイディプスを読んだ後で(2度目)、ギリシア神話欠乏症を発症しているまろりーに(まろりーは時々ギリシア神話を読まないと欲求不満に陥る)、本当ちょうど良く。
<アポロンの戦車>
ちょうど、ちょっとアポロンがマルシュアスの皮でも剥がないかなーと思っていたおり、デルポイの怪蛇ピュトンを射殺しているらしいポイボスな太陽神の雄姿が。
意外な程、燃え盛っていてアポロンさん大丈夫かと思ったけど(←絵の見方が間違っている)、隣にアポロンの戦車から落ちるパエトンがいたり、オルフェウスがいたりと、神話画はいいですね、文字の連なりを時間をかけて読まずとも、一目で神話の色々が再生されます。って、ルドンの絵はそういう物語の挿絵的なものではないのですから、今の文章は聞き流して下さい。
このオルフェウスの死を題材にした油彩で(多分)、色彩が非常に美しく、色で酔えます。
<オルフェウスの死>
オルフェウスは、愛する妻を冥界から連れ帰ることに失敗し、以後、他の女性を拒むようになりました。その態度がトラキアの狂えるバッカスの女信徒たちの怒りを買い、彼は八つ裂きにされ、その首は歌いながら竪琴と共に川を流れて行った、そういう話が下敷きだけど、その為の絵画ではなく、オルフェウスの首は色彩の音楽的な効果というものを暗示しているらしい。
画面のあちこちで様々な色が響き合っていて、さていつまで眺めたらその響きを見終わったことになるやら、判断に迷う。
ぜひともバッカスの信徒になりたかったのに、バッカスからは生まれついて拒まれた身の上、美食も色事もこのまろりーを満足させないからには、あとはもうムーサたちに縋るしかないという訳で、このような色彩に酩酊するのは、何とも楽しい事です。
<青い花瓶の花々>
そんな色彩の響きを楽しませてくれるのが、ルドンのお花の絵。ポストカードとしてお持ち帰り出来たのは、これと例の大きな花束。他にもポストカードになってたら欲しかったなー。
さてさて、ここまで記事を書きまして、一向に黒い絵が出てこないのを訝る方もいらっしゃるかも知れません。ルドンといえば。代表して一枚を。
<夢の中で 第8葉、幻視>
若いころは、このようなグロテスクで一見難解な白と黒の世界で名を上げたルドン。
彼のような奇想を、多かれ少なかれ、人は誰でも持っているものと思います。だけど、彼のように紙の上に再現出来る人は極めて稀です。
不思議と、これだけ奇妙で突飛で、あまりにも現実的な脈絡のない絵、それにとりとめもない憂愁に満ちているのに、いやらしさや下品さ、独りよがりや無頼なところが無いと思うのです。明るい絵という訳ではないけど、社会や周りの環境や生きる事に対する恨みつらみとかがなくて。
これだけ思うさま空想を形に出来るというのは、ごくごく単純に羨ましい限りだ。
<我が友アルマン・クラヴォーの思い出に 第6葉、日の光>
時々、ちょっとわかりやすいのもある。無くなった友人への追悼。a la memoire de...(…の思い出に)という定型句が泣かせます。
何かが居る内側。外の新しい世界へ誘う日の光。窓の外には、まっすぐな、樹が一本。
冒頭でご紹介しましたグランブーケの前後には、その他の象徴派の様々面白い絵がありました。が、今回は割愛。モロー、ムンク、ベルナール、ドニ、ファンタン=ラトゥールなど。
<瞳をとじて>
展示の最後を飾るのは、何度かルドンのモチーフに現れる目を閉じる人。
展示の終わりにこれは、ちょっとくさいなーと思いつつも、ここは素直に、目を閉じてその空想に身をゆだねてみては。
もっとも、ブログのタイトルがこの結びをぶち壊しにしていますが(笑)
三郎丸氏>
アンリ・ル・シダネルについて、珍しく分かりやすいとのお言葉、ありがとうございます!
って、いつもそんなり分かりにくいかなぁ。分かりやすくしようとは頑張っていないけど、そんなに内容のある事は言っていないぜ。いや、一貫した主張がないから難しいのかも・・・。
「適度な値段」、そんな感じしますねー。だれのどの部屋に飾っても、趣味を疑われることはまずないし、部屋のインテリアがこの絵に振り回されてしまうこともないと思います。適度な普通の日本の住宅でも浮かないし、下手したら床の間にもいけるかも(それは無理があるか…?)
華やかな存在感はあるけど、くどくないし、媚びてないし、良い具合に上品、社会の既存の価値観に一石を投じることもなければ、神経を逆なですることも、ましてや人を食い殺すようなことは決してないので、本当、インテリアに最適。こんな「装飾画」芸術じゃない!という向きもあるかも知れないけど、これは、結局売れます。
とても微妙な色遣いなので、デジタルや印刷物ではけっこう可哀そうな色に変わっていました。もともと「迫力」とかは無いけど、やっぱり生で見た方が圧倒的にいいです。損保ジャパンでもやるみたいなので、ぜひ。