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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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楽器と動物・らくがき2種。



FigurineWithAViolin.jpgヴァイオリンを持つ人
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合奏風の二人。

 

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エルミタージュ美術館展感想

 もちろん、新美術館でエルミタージュ美術館展とセザンヌ展を梯子。
 
 セザンヌ展は…とりあえず会場が作品保護のためか寒すぎて、途中で意識が朦朧とした(笑)。途中で何を視ているかよく分からなくなりました。
 しかし100%セザンヌとのキャッチコピーどおり。サント・ヴィクトワール山あり、エクサンプロヴァンスの石切り場あり、家々、人物、壺、皿、りんご、色々なセザンヌてんこ盛りで、展覧会のテーマはまろりーには難しかったけど、集まった絵はそれ単体で良かった。
 一番の感想は…それにしても寒かった(まだ言うか)
 

 エルミタージュ美術館展。
 大体、後期ルネサンスから近代までの名画を時代順に並べる教科書のような展示です。
 一応、美術史の時代区分ごとに章立てして、ざっくり教科書通りに説明してあるけど、それは単なる体裁で、とりあえず「大エルミタージュの泰西名画」を片っ端から持ってきたので、何でもいいから見とけ!といういテーマ。創造的ではないけれど、下手にぶれる軸もないので、かえって安心安定の美術展。
 いちいち、バロックはこういう絵で、ロココと新古典が続いて、ロマン主義で印象派~という流れ、不覚ながら(笑)超落ち着く。
 
 物語性の無い展示なので、流れで喋りにくいので、数点だけピックアップ。先に言っておきますが、偏りますよ。
 
 何だか、あざとい絵の個性が光りました。
BartolomeoSchedoni-cupido.jpgバルトロメオ・スケドーニ<風景の中のクピド>
 イタリアのバルトロメオ・スケドーニという画家のクピド。目をきらきらさせて、人差し指を唇に当て、しなをつくり、横たわるヴィーナスさながらに甘美な肌艶を見せつける。あざとい!(笑)
 見た目に反して年長の神だからいいけど、もし例の人気天才子役に同じポーズをさせたら、それをやらせる大人やそれで喜ぶ大人に失望と怒りを覚えます(笑)
 調べてみて分かったけど、前にあったカラヴァッジョ展で、墓の前の三人のマリアの鮮烈で鋭く物を浮かび上がらせる光が冴えている絵を描いた人だと。あれは格好よかったなぁ。ポストカードを買ったはず。
BartolomeoSchedoni-marias.jpgスケドーニ<墓の前の三人のマリア>
 
  もちろん、カラヴァッジョに比べて、「綺麗」とか「甘美」とか「優美」な方向を目指しているようです。

 彼の隣の宗教画。画題は忘れた。何故なら、キリストの象徴の羊が、目が人間過ぎたので。明らかに人語を解し喋る羊。もののけ姫に出てきそう。それに気を取られて(ちょうど目線もそこだし)、絵は覚えていない。でも羊の目力が良かった。ヒトの目をした動物、不気味で格好いいな。
 
 ヴァン・ダイクに(笑)
VanDyck--SelfPortrait.jpgアントニー・ヴァン・ダイク<自画像>
 彼の自画像と女の子2人を描いた肖像画が並んでいたのだけど、自画像の方がきらきらしてた。手を腰に、胸を張って、どや顔というのはまさにこういう顔で、っていうかこんな縦1メートル以上自画像描いて、やっぱりナルシストなんだろうか・・・(笑)
 この顔に自信があるのは確かだと思う。他にもちょろちょろ描いているのを見ると…。
VanDyck--SelfPortrait2.jpg VanDyck-SelfPortrait3.jpg
左;ヴァン・ダイク<自画像>、右;ヴァン・ダイク<自画像>
 この顔が彼の決め顔であることは疑いないと思う。 っていうか、本当に他の人の模写じゃなくて、本人による自画像で良いんだよ…ね…? 同じ顔すぎる。
 

 ナルシスト画像(酷)いっぱいになってしまったので、次。
 ランクレ。
NicolasLancret-CamargoDancing1.jpgニコラ・ランクレ<踊るカマルゴ嬢>
 あ、れ。この絵、有名だけど、こういう絵だったっけ?何かが違う。と戸惑いつつ。少なくとも、こんなに黄色い印象の絵ではなかった。多分、白いドレスのヴァージョンがあるよね。・・・ほら、あった!
NicolasLancret-CamargoDancing2.jpgニコラ・ランクレ<踊るカマルゴ嬢>
 やっぱりこっちの方が見慣れているからか落ち着くなあ。しかし、いい絵だから自筆コピーもあったのね。
 それにしてもこの絵はやっぱり面白い絵です。白いヴァージョンの方が好きなんだけど、短いスカートから覗く足首が命(笑)
 いいや、ポストカードになっててほくほく。(でももう持っている気がする。いや、何かのCDのジャケットやも…フランスもののCDジャケットといえば、これかシテール島だよね)


 ブーシェもポストカード化してあってほくほく。多分、目つきが悪いとはいえ天使(プットー)の絵だから。これが羊飼いのいる風景とかだったら、ことごとく外されちゃうのがブーシェ。田舎にこんな小綺麗な羊飼い居ねぇよな開き直ったきらきら妄想が楽しいのに。
 Boucher-Putti1.jpg Boucher-Putti2.jpg
左;フランソワ・ブーシェ<絵画の寓意>、右;<詩の寓意>
 昔からブーシェのポストカードは、どんな適当なものであれ、見かけたら必ず買う、という個人ルールがあるんです。並べてみると、やっぱり綺麗だな。

 某という画家の描いたヴォルテールの二枚の絵。
 朝、ベッドルームで着替えながら手紙を口述筆記させている老ヴォルテール。ズボンを履こうとして白いパジャマから細い太ももがちらり。いらないから、そんなサービス!(笑)っていうか真面目に手紙を書け、ヴォルテール。
 何故か杖を片手に木を植えているヴォルテール。何人か引き連れて張り切って指図をしている。絵はそんな様子をちょっとだけ遠くから描いていて、「木を植える人」みたいな偉大さや感動的なところは少しもなく、あのおっさん何やってんのかなーとばかり冷ややかな目線。
 ヴォルテールはよほど風刺のしがいがあるのか、画家の悪意こもりまくりで笑った。
 
 今展示中、一番か二番のあざとさを見せるのが、ジョシュア・レノルズ。そもそもレノルズ時代は全体であざとい絵が好みだと思う(笑)
JoshuaReynolds-venus-and-Cupid.jpgジョシュア・レノルズ<ウェヌスの帯を解くクピド>
 当世風のハイウエストの白いギリシア風ドレスを来たヴィーナス。胸元の青いリボンを解こうと引っ張るキューピッド。それを止めるでもなく、片腕で半分顔を覆い、鑑賞者の好色な目線に横目で笑みを浮かべます。
 モデルは、イギリスのナポリ大使ハミルトンの若い妻エマ・ハミルトンと言われているそう。ハミルトンは内側を黒くし額縁を取り付けた箱に彼女を入れて、絵画風のポーズを取らせ、それを見たりお客さんに見せたりして楽しんでいたらしい。彼女は完璧で、まるで古典美術から飛び出てきたようだったとか。
 この人がエマ・ハミルトンだとすると、本人も極めてのりのりだったんだろうな。
 レンブラントが、若いお姉さんの肖像だったら看板になっただろうに、素晴らしくもお婆ちゃんだったからこんなあざといレノルズなんかにリーフレットの表を取られてしまった。この辺とか、もやっとして笑った。
 レノルズと同時代の画家、ゲインズバラは負け惜しみで言うのです、「レノルズが美術会のトップとは、イギリス美術は終わりだ。」
 まあ、あのヴィーナスの絵じゃな(笑)
 でもゲインズバラもそれなりにあざといことがあるよ。
 
 
 ライト・オブ・ダービーやヴェルネのロマンチックな月光を見るも、ジョヴァンニ・パオロ・パニーニのイタリアの光の方が、ゲーテ的イタリア病のまろりーには楽しい訳です。
 来た! パニーニ、ロベールセット。これも西洋美術館とかぶってるけど。
 相変わらずローマの廃墟。そこで説教をする使途聖ペテロ。……ペテロがローマで布教していた頃は、ローマの都市は現役ではないかしら…(笑)適当なこと描きやがって(誉め言葉)小さな事は気にしない。
 またロベール。やっぱりローマの廃墟なお風呂で入浴している。
HubertRobert-RomanPublicBaths.jpgユベール・ロベール<古代ローマの公衆浴場>
 …多分、水浴かなぁ。でもそうだよね、ローマのお風呂は夢だよね。しかも露天混浴。入浴しているのは、現代人かローマ人か判然としない。空も思いっきり開放的な廃墟状態だから、現代人かしら。でもローマっぽい服の人もいる気がする? まあ、そのどちらか分からない効果を狙ったのかどうか、廃墟でお風呂に入りたかっただけかな。

 そして隣のティヴォリ。断崖、瀑布、遺跡、そして牛と牛飼いのお決まりの夢のイタリア方程式ににやにやします。ベタな定型大好き。
 図版のご用意がないので(まあ、ティヴォリでさえあれば、この種の絵に図版は不要かと)、別のティヴォリ図版で。
 ClaudeLorrain-ImaginaryView-of-Tivoli.jpgクロード・ロラン<ティボリの幻想風景>
 おっと、間違えたー(わざとらしい)これは、クロードのティヴォリっぽい妄想。クロードって、本当ロマンチストさん…!
Vernet-Cascatelles-de-Tivoli-.jpg
クロード・ジョゼフ・ヴェルネ<ティボリの大瀑布>
 この絵ではないけど、こんな感じの絵でした。
 因みに、ゲーテ的イタリア病が酷くなると、イタリアの絵すら本物が見れないジレンマに心が痛んで見れなくなるそうです(ゲーテ談)
 
 さて、いい加減長くなってしまったな。
 すみません、一時代に偏った自覚がある。いえ、書かれなかったものが興味ないとか嫌いとかいう訳では決してなく。何というか、ティボリを書いたら筆が満足して、次に続かなくなった(笑)
 他、ティツィアーノ、レオナルド派(ブンカムラとかぶった)、ホントホルスト、セザンヌ(やっぱりかぶった)、ルノワール、ラトゥール、ルソー、デュフィ、ピカソ、マティスとか。

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レオナルド・ダ・ヴィンチとニッポンの型紙展感想

 ずっと携帯で打ちっぱなしで(まろりーは美術館記事の多くをスマートじゃない携帯で自分のパソコンへメールする事によって作成する。)すっかり時期を逸してしまった、でも記事。

 Bunkamuraのレオナルドと美の理想展と、三菱一号館のKATAGAMI Style展を梯子。
 その日は最初はレオナルドだけ行く予定だったけど、日曜でも存外に空いてて、時間が微妙にあったので、食後のデザートのつもりで三菱一号館に行ったら、それも結構なメインディッシュであった。というか、レオ様より混んでてそれも意外だった。入館にいくらか並びました。
 
 はて、レオ様の方を簡単に感想。
 レオナルドの素描を目玉にしている展示。全体としては、レオナルドまでの理想美に始まり、レオナルドの絵画論の抜粋から美の理想に迫り、それが弟子に受け継がれ後世にどう影響したか、という粗筋。
 箇条書きに。
 最初にデューラーでまずテンション上がる。
Durer-LeonardoDesign.jpgアルブレヒト・デューラー<柳の枝の飾り文様>
 確か、レオナルド、イタリアの何処かの建物で組紐模様の天井画を描いていたよね。うろ覚えだけど。
 とにかく、デューラーが木版でこの図案を彫り出したその技巧が怖くて楽しい。本当、ちょっとでも手元が狂ったら…組紐切れちゃう、その危うさが堪りません。

 ところどころに挿入されるレオナルド・ダ・ヴィンチのツイートに括弧笑い。

 レオナルドのドレーパリーの素描が美しい!
Leonardo-study.jpgレオナルド・ダ・ヴィンチ<衣紋の習作>
 衣服の下に肉体があるように描かねばならない、というレオ様のツイート。首が描かれていなくとも紛れもなく、「衣を纏った人」が描かれている。小さく、普通の意味での完成品ではないけど雄弁です。
 実を言えば、まろりー自身は、常々衣紋の装飾性のもとに人体を犠牲にして大いに結構、という立場なんだけど、その装飾性から見ても、文句無しの衣紋のデザイン。 それで的確過ぎる陰影。この素描欲しいなーと思ったらポストカードになってたから、コピー最高。
 
 慎ましげに目を伏せ、顔をやや傾ける女性、というのがレオナルドの好みのタイプらしく、まさにそのままな「ほつれ髪の女」。
 Leonardo-LaScapigliata.jpgレオナルド<ほつれ髪の女>
 
 このような、レオナルドの特徴的な女性像は弟子や追随者に受け継がれました。
 レオナルド派ではあるけれど、色気の少ないレオナルドよりも女性に興味があるらしいジャンピエトリーノさんの聖女像が面白い。
 美術館は「官能的な女性像を得意とした」と説明を付けていたけれど、絵からは…常識の範囲内での女好きが窺われます。というか、宗教画というより閨房画に見える。
 一枚目の聖女は胸もあらわにマグダラのマリアかルクレツィアを描いたものみたい。美少女といった趣きですが、二枚目のマグダラのマリアはもうちょっと歳かさが増している。しかし「官能的さ」は同等で、若いのも年増もどっちもストライクらしい(笑)

 と、それぞれの好みに変奏しつつ次世代に受け継がれるレオナルド派。でもレオナルドといえばやはりモナ・リザなのは昔から変わらないようです。
 で、圧巻はそのモナ・リザ祭り。本物のモナリザはもちろんないけど、これだけのモナリザが一堂に会するだけでも面白い。さながらそっくりさんコンテスト。有名人は違うや!
 レオナルドと共にフランスへ渡ったモナリザ。それは大評判になり、多くの模写が行われた。
 顔が全然違っていたり、なかなか似ていてても本物に特徴的なスフマート(薄塗りを重ねるぼかし)を使ってなかったり。
 中に一枚、やたらきらきらしたニセリザがいて、似てない。
IsleworthMonaLisa.jpg作者不詳<アイルワースのモナ・リザ>
でも、現代人からみて本物よりずっと美人(笑)完成度が高く美人だしこれも本物のダビンチかも!という主張さえあるとか。
 この人がMVPだとは思う(笑)ジャンピエトリーノも面白かったけど、調子に乗り過ぎだし(←決してそういう訳では)

 しかし一番感動したモナリザは、十九世紀に版画で写されたもの。顔もそっくり、白黒の版画で困難なぼかしも再現性が高く、技法は「ビュラン(微細な彫刻刀)」と書いてあるけど、やたら細かいので硬い鉄板にエングレーヴィングだろうか…。とにかく人力とは思えない彫り。きっと、刷ってもすぐに摩耗して量産はできまい。
 なんと、モナ・リザの彫刻版まで。普段は決して見えない後ろ姿を見られます。
 版画の写しでは、今は(始めから?)黒ずんでいてよく見えない左腕の下の肘掛も描いてある。あの絵の神秘性というものを深めるのは、そういう具体的な小道具が見えにくいところにもあるなあと思いました(小学生みたいな言い方…)
 
 十九世紀のロマン主義的歴史画が笑える。
 モナリザを描くレオナルドとそこにやってくるラファエロ。
Raff-and-Leo.jpg

 似たような版画しか図版なかった(笑)いや、同じ絵の版画化だろうか?(←あんまり覚えてないらしい)
 それにしたって、ドリームすぎだろう。
 普通のギリシア神話やローマの歴史に飽き足らなくなって、中世以降の歴史も題材にしだすロマン。まさに「歴史大河浪漫」とはこのことで、モナリザを描くダビンチの姿が描かれています。
 モデルのリザ・ジョコンダを椅子に座らせ、周りには彼女を退屈させないために楽師たちやお女中か賑やかしている。この絵の元ねたになったヴァザーリの魅力的な記述も捏造らしいですが、極めて大真面目に時代考証と空想を巡らして、いかにも本当にあったことのように描かれています。十九世紀には事実と信じられていたかは知らないけれど。
 見たこともないダビンチがそっくり!(笑)まあ、現代のレオナルド・ダ・ヴィンチ本人の視覚イメージにこうした絵が寄与していることは疑いないから当たり前なんだけど。白い髭に、深い青の長衣を来て、同色のジャムの蓋に被せてあるような帽子を被っている。まさにダビンチ。
 モナリザに人気があるように、この画題にも人気があったようで、作者の違う二枚の「モナリザを描くレオナルド」が並んでいる。
 最後はレオナルドの死。 やっぱり、ロマンチックな歴史画の版画化で。
Ingres-Death-of-Leonardo-da-Vinci.jpg
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル<レオナルド・ダ・ヴィンチの死>
 こちらは元の油彩画。
 フランソワ一世とか、肖像画にそっくりに描いてあって、とても説得力はある。
 以前、何かのテレビ番組でレオナルド特集をしていたとき、「レオナルドはフランスで亡くなりました。」というナレーションの背景にこの絵の原画が出てきてひやっとしたが、まあやっぱり伝説の一場面の絵として面白いのよね。冷静に考えて、ありえなさそうなシーンだけど。いえ、これも歴史ドリームなので。
 十九世紀の面白いところの一つは自信たっぷりに捏造するところです。今もある意味ではそうか(笑)
 
 

 ついでに、三菱一号館のカタガミ展にも触れると。

 時は十九世紀末、ジャポニズムといえば一般には平面的な浮世絵の影響が言われるけど、日本の染め物に使う「型紙」も、その大胆で斬新なデザインがヨーロッパ人の目に留まり、海を渡って当時のジャポニズムを大いに刺激した、というお話。型紙は日本にとっては単なる消耗品で、その「芸術的」な価値は見落とされがちだったけど、そこに改めて焦点を当ててみよう、という試みです。どうやらどこかヨーロッパの方では型紙の影響を問う研究は為されているらしい。それを下敷きにした展示内容だそうです。
 
 さて、日本で作られた型紙と、ヨーロッパ各国の影響の見られる作品が並べてあって、その類似と差異を見比べられます。
 細密な型紙職人の精確無比の手仕事の技術力を存分に堪能しました。映像で型紙職人による作成過程を見ることが出来るのですが、余りの仕事ぶりに、誰からとも知らず感嘆の悲鳴が上がる程でした。
 何かの一冊のアールヌーヴォーからデコ期のジャポニズムな美術論文を読む様で、一方で見るだけでも大いに楽しめる展示。
 そして、型紙は現代の本物がお土産屋さんで売られていたり(笑)額に入れて飾っても十分格好いい。



6月23日拍手お返事
三郎丸氏>
 ありがとう~。三郎丸氏のお陰だよ。じつは、前々より、こっそりやっていたのです。まあ、殆ど連結はしてないし、十分使いこなしてはいないんだけどね。やっぱり何だかんだ言って、やりたい放題出来るブログがメインです。

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Noblesse Obligeのイメージイラストに使ってもらいました!

 なんと光栄なことでしょう!本日の記事は自慢です。

 テクノ音楽を作曲してらっしゃるglobal様が、このまろりーのイラストを素敵な自作曲のイメージに使って下さいました。
http://soundcloud.com/masahiro-miki/noblesse-oblige



http://soundcloud.com/masahiro-miki ←globalさんのページはこちら!

 まろりーはテクノというものは、capsuleやPerfumeとか、あるいはエレクトリカルパレードのテーマといったいわゆるテクノ・ポップ(だと思う)のようなポピュラーなものに触れるくらいなのですが(そして上記はかなり好きな音楽と注記しておきます。というか下手な普通のポップより好きだったりするけど、エレクトリカルパレードはバロックホウダウンのテーマが始終貫かれてる旧版が好きすぎるんだけど、っていうかあれはバロック音楽だ!とか思うけど、それはまた別の話)、リンク先ではPOPなんてナンパでないクールな音楽が聴けることと思います。
 

 テクノ音楽の通例の様式というものは、まろりーにはわかりません。いや、教科書的にいうところの、「バロック=対位法と通奏低音」みたいなテクノの技法は。
  globalさんの「ノブレス・オブリージュ」という曲は、いくつかの同じ(あるいは類似の)フレーズと軽快なリズムが次々と組まれ、重ねられていて、印象的な4拍目のアクセントが癖になります。
 作曲という領域は、まろりーにとっては魔法のごとき技法で、人間の頭の中から、あるいは和声上の規則だとかそういう理論から、どうやって生み出されるのかさっぱり想像もつかない。
 

 自分としては、自分の絵はどれもアコースティックな古楽サウンド方面だとばっかり思っていたので、そのまろりーのイラストをこのような音楽のイメージで採用してもらえるとは夢にも思わず、嬉しい驚きです。
 
 まろりーのイラストは極楽にいて美しい声で歌うという人面鳥、迦陵頻伽を模した雅楽の舞いの一つの絢爛な衣装を兎に着せたものですが、
しかし、よく聞くと、たしかにglobalさんの「ノブレス・オブリージュ」、「迦陵頻」みたいな感じが・・・しませんか?
 少し音程がまっすぐでないゆったりしたメロディと、繰り返されるころころとした音形とか、私も実は本物の舞いを見た事がないけど(笑)、何か舞いを踊っているみたい。

 そういう訳で、音楽のイメージ画像に使ってもらったのである、という自慢でした!

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ユベール・ロベールとアルカディアの墓

書きかけロベール展感想 の続きのようなもの。

 さて、順を追って話すことは止めにして(やろうと思って、長くなりすぎるからやめた)、ロベールの装飾パネルの「アルカディアの牧人」からお話しましょう。
 一応、ユベール・ロベール 時間の庭展の感想のごく一部。あくまでも感想。我ながら半端な衒学的な感想ですので、読者様方はもちろん間に受けてはなりません!
 

 この大きなパネルには、自然豊かな風景の中で、一つの墓を見ている羊飼いたちが描かれています。
 その墓には「Et ego pastor in Arcadia」我もまたアルカディアの牧人。と彫られていて、それがこの墓に葬られた人の最期の言葉なのでした。
 墓の前に集まったアルカディアの牧人達は、同胞の死について、互いに何か話し合っている様子です。
 
Robert-LesBergersdArcadie.jpg
ユベール・ロベール<アルカディアの牧人たち>

 何故、アルカディアに葬られた墓の主は、自分はアルカディアに居たのだ、とわざわざ石に刻んだのか。
 これには、このロベールの絵に至る、前提というものがあるのです。本当、ロベールって・・・絵そのもの1枚だけで語りづらい男です。そして、ロベール本人よりもそっちに持っていかれるという・・・。まあ、いいや。とりあえず続けましょう。

 ご存じアルカディアとは、一言で言えば、理想郷です。
 
 暖かな日差しに満ち、緑なすブナが木陰を作り、清らかな泉が尽きず湧き、果樹の花が咲き、実がたわわに成り、自然の恵みだけで快適に暮らせる場所。
 そんな場所をローマの詩人ウェルギリウスが妄想して、そこを彼にとって何か異世界的なファンシーを誘う土地であったギリシアにある地名「アルカディア」と名付けたのでした。
 その世界では、生きる糧は全て穏やかな自然が惜しげもなく与えてくれるので、その住人たちは無私無欲、家畜を殖やし、神々を敬い、歌を歌い、笛を吹き、何の変哲もない清らかな恋をして暮らしています。
 
 視覚化するなら、例えば、あのクロードのような世界。
Claude-Pastral.jpgクロード・ロラン<牧笛を吹く牧人のいる風景>

 ところが、完璧に調和する自然の中にあっても、人間同士というものは調和しにくいもので、平和な田舎でも、遠くの町へ恋人が出て行ってしまったり、恋があれば失恋があり、歌には美少年ダフニスの死と彼の思い出を主題にしたり。そして牧人たちには、物語に直接は出てこないけれど、土地の支配者がいて、生活基盤たる土地を奪われたりと、何処となく翳りのあるのが、アルカディアなのでした。
 
 ウェルギリウスの「牧歌」は全部で10篇あります。
 第1歌で田園追放に始まり、第10歌では、恋に破れて死ぬほどに苦しむ男に「(幸せな空想の美しき)森よ、もう消えてくれ、何ものも彼女を失った自分を楽しませはしないのだから」と言わせ、10歌の最後の最後には、ウェルギリウス自身も「もう黄昏時。さあ、帰ろう。」と読者を現実に帰るよう促してしまう。そして戻ってこない、もう二度と。…なんてね(笑)

 後世、絵画の世界でその翳りの部分を強調して描いたのがグエルチーノ。(時代がとんでもなく飛んだな…)
Guercino-Et-in-Arcadia-Ego.jpgグエルチーノ<Et in Arcadia Ego.(アルカディアにも我あり)>
 ここでははっきりと、アルカディアを薄ぼんやりと覆っていた悲劇が描き出されています。
 目立つ髑髏の乗る石の台には「Et in Arcadia Ego.」と刻まれていて、これは蠅がとまり、鼠に齧られている骸骨の台詞。
 直訳すれば、「アルカディアにも私」。
 Etは英語で言うand、in Arcadiaはそのままアルカディアの中に、Egoが「私」という一人称で、動詞が省略されている。補うべき言葉は、英語でいう「be動詞」ってやつが自然でしょう。
 ともかく美しく楽園のようなアルカディアだって、私みたいな骸骨=死がいる。その暗欝なメッセージに、牧杖をつく気ままに暮らすアルカディアの牧人が驚いて足を止めています。
 これは、ウェルギリウスのアルカディアを元ネタにした「死ぬってことを忘れるな(メメント・モリ)」の警告です。

 さて、それからさらに、グエルチーノを下敷きに、歴史画家として活躍したニコラ・プーサンが同じテーマを描いて見せました。
3ded9021.jpegプーサン<アルカディアの牧人たち>
 プーサンは他にもう1枚アルカディアの牧人たちを描いているけど、それは割愛。
 
 ここでも石の棺にはEt in Arcadia Ego.と刻んである。しかし、ここでプーサンは、あまりにもはっきり自己主張する骸骨を無くし、グエルチーノにあった劇的な(やや通俗的な)感傷性を排して、あからさまな警告を抑え、よりスタイリッシュ☆(多分)にしてみせました。
 するとどうでしょう、ただでさえ動詞が省略されて余白を生んでいた我らが決まり文句が、意味が曖昧になって分かりにくくなってしまいました。
  グエルチーノでegoだった髑髏はいなくなってしまった。動詞がないから正確な意味もわからない。

 そうして18世紀。
 もちろん、誤訳します。それも多分確信犯的に。
 この「アルカディアにも我」の語の魅力の一つに、どの国の言葉に訳しても文法がおおむね平易であって、初級者でも分かりやすいところにあります。そういうもの程、実は間違えやすかったりする。
 in Arcadiaに掛かっていたetを、Egoに掛けてしまいました。いつしか、egoは墓の主という解釈になり、この銘文は彼の台詞だと思うようになった。それだと文法的に困るらしいので、元の文章の語順を変えてet ego in Arcadia.が出来ました。

 Et ego in Arcadia. 我もまたアルカディアに

 けだし名誤訳!
 私は墓の前の君たち同様、アルカディアという美しい世界に生きていた、その幸福の中で幸福なまま死んだ、という前向きなんだか後ろ向きなんだか分からない意味にとられるようになりました。
 そして、墓の主が「私も」と対比させているアルカディア人は、画中の牧人たちだけでなく、絵を見ている現実の我々まで及んでいます。
 
 …というのが、アルカディアの墓を巡る甘美な憂鬱。――何て幸せな考え!(笑)
 私もまたアルカディアの墓に片足を突っ込んで生きたいものだ。
 
 さて、ロベールの銘文は「Et ego pastor in Arcadia.」。私もまたアルカディアの牧人(であった)。
 pastor(牧人)という語が追加されて、ego=pastorとより意味がはっきりするようになっている。ロベールよ、お前もか(笑)

 およそ牧人という田舎にしか棲息しない人種は、都会のしがらみに汚されていなくて、無垢で純朴で欲望することを知らず、物質的には貧しくとも、自足し心豊かに満ち足りている人たちと決まっています。
 
 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
 
 当時熱心に読まれたルソーの「エミール」の冒頭文。(岩波文庫、1962年 今野一雄訳)
 実際、当時の都会パリは惨憺たるもので、以下はルソーより一世代後の記録によるけど、始終薪で燃やした黒い煙が煙突から吐き出され、下水も公衆トイレもなく、井戸に汚水が混入し、川の水を飲み、埋め立て地も焼却場もない、交通マナーも酷い、取り敢えず有用な法整備が追い付いておらず、しかし歓楽は無限にあり、娼婦も因りどり、しかし捨て子は多く、金さえあれば最新のお洒落が楽しめ…とまあ、空気と環境の悪さは現代の東京の比ではない様子です。(もっとも、上記のような記録を残したメルシエ氏も、そもそも都会は駄目で田舎は美しいという価値観で書いたようだけど)
 つまりは、都会と田園のコントラストは非常に鋭かったようだ。

 自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。(同著p.31.L8)
 都市は堕落の淵だ。…よみがえりをもたらすのはいつも田舎だ。(p.66.L7)


 この本の中ではこの趣旨の文章がごろごろしていて、全て抜き書くときりがない。
 人間の幸せは人間であることであって、身分や貧富は関係ない。人間の手だらけの都会はとにかく悪いので、人の手の加わらない自然の中で暮らす牧人は汚れなく素敵だ。
 文化的な暮らしの一方で非生産的な社交にあくせくしている(かもしれなかった)人のどこか邸宅を飾るべく描かれたロベールの大きな装飾パネルは、素敵な場所で快適に暮らしたいという「人間的な」欲求を慰めたものでしょう。

 で、ここまで思うさま不健康な都会を彷徨ってみてあれだけど、ロベールのインテリア用アルカディアの墓には、こうした大層な主張は前面に出てはいない。もちろん、死を思えという教訓も。
 登場人物はプーサンと同じだけど、プーサンに比べると一目瞭然、墓と牧人たちは風景に対して小さく描かれ、「我もまたアルカディアに」のメッセージは音量を落とす。
 大きなパネルの前で視線は昼なお暗い豊かな森を抜け、流れる川を溯り、奥へ奥へと、滝と崖の上の円形神殿へと向かいます。
 この崖の上の円形神殿、ローマ近郊の野趣溢れる景勝地ティボリにあるという崖の上のウェスタ神殿がモデル。このロベール展でも何度も出てきて、ひっぱりだこです。姿もよく特徴的で分かりやすい。そもそもティボリという所は18世紀絵(主にピラネージ)を見ると本当に美しく、特にハドリアヌス帝の別荘とか、ヴィラ・デステとか本当やばい!といちいちご紹介したいところですが、話がそれるので、断腸の思いで割愛。もしやるなら別項立てます。

とりあえず、あれ、グーグルの画像検索に繋いでおくので、ご興味のかたはぜひ。
Robert-Ruines1.jpg
 アルカディアを妄想していたウェルギリウスのいたローマ=イタリアの風景はいつしかアルカディアそのものと結び付けられて行った。ローマ帝国の崩壊後、首都ローマはどんどん人口を減らし、ついには壮麗な建築物を維持できないまでになった。あるいは、別の建築の石材として切り出され、繰り返すテヴェレ川の氾濫でフォロ・ロマーノは埋まり、近世には牛の放牧場となる。本物の牧人たちが、草木の生い茂るままになっている美しいローマの廃墟の間で牛を飼っていたのだとか。
 常に新しく不変の自然と、破壊にさらされる栄華の残骸とそれでもなお残る壮麗さ、偉大さは、多くの称賛者を生み、ロベールも心の底からその中の一人でした。

 確かに田園は一般に広く流行ったようですが、鄙びたイタリア風景と古代とローマの廃墟が好きなロベールの場合は、その流行の命ずるままに描けばよかったのだと思う。
Robert-VaseBorghese.jpgロベール<ボルゲーゼの壺>
 イタリアと廃墟愛の表明たるロベールのあの素晴らしい素描! 赤チョークの、紙の上を飛ぶように滑る大きな筆致。鑑賞者はその筆の跡をありありと目でなぞることが出来る、そのライヴ感! まるで地べたに座り込んで廃墟を描いている画家の背後から完成していく絵を覗きこめるかに思える、ライヴ感。そして画面には、目に映るものへの讃美と、それを見る愉悦と、一種麻薬的な高揚感が描き出されている。ってちょっと大袈裟に言い過ぎたかな(笑)
 
 丁寧に清書されたパネル画には、その生々しさが欠けて残念なんだけど(笑)私のロベールの好きなところの一つは、深読みを許すテーマを選ぶ割に、実は絵そのものには思想がないところ。ただ、楽しいものを楽しいと言い、好きなものを好きという、世界の一角に対する感想が表明されているだけで、それ故に絵画は軽々としている。

 やはりユベール・ロベールという人はお茶目な人で、そして「Et ego pasrtor in Arcadia.」の墓碑にはちゃっかり彼のサインと年記も書いてある(笑)
 ちなみに、年記は1789年。フランス革命の年である。
 ロベールは彼の絵画の中で、牧人として死に、自分の墓をアルカディアに建てたのでした。
 
 ウェルギリウスが詩に書いていたように、牧歌的な主題が好まれるのはこの時代に始まったものではないけど、何だか社会派的にきな臭くなっていくのが十八世紀後半。田園愛は翻って、富める者の度を超した贅沢や専制と圧政への憎しみとなり、やがてはそれらを倒そうという動きとなる。
 さて、十九世紀になって、ウェルギリウスの夢を追い、ロベールらが嬉々として人生を賭けて描いたイタリアの廃墟は、科学的学術的な発掘によって、考古学の発展と引き換えに、廃墟ではなく史跡に姿を変えました。もはや土砂から完全に掘り出され、草木は取り払われ、ロベールの見たローマの廃墟は存在しません。
 私はそれを恨みはしないけれども、惜しむものであります。

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なんせんす・さむしんぐ

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