ブリジストン美術館にて、「ドビュッシー、音楽と美術 印象派と象徴派の間で」展を見てきました。
一言で言うと面白かった。どう面白かったかを言えってことですが、そんな訳で以下ドビュッシー展のつらつら感想。
予め言っておかなければならないことは、まろりーはドビュッシーについてはごく表面的な知識しかなく、その音楽について、思い付く曲は…月の光とむにゃむにゃのケークウォーク。喜びの島と牧神の午後の前奏曲が(タイトルの文学的な意味で)気になっている、そんなところ。
さて、展示のストーリー。
ドビュッシーは音楽と同じくらい視覚芸術も好きで、同時代の絵画や文学にインスパイアされて作曲したし、そんなドビュッシーの曲に影響を受けた絵も描かれた、さてその同時代の美術とは、影響関係をお見せしましょう、というもの。
絵と音楽がリンクする、という考え方だけでもわくわくしますね。絵と音楽を結び付けるとかそういうの大好き。
ドビュッシーはよく印象派と括られているけど、その影響具合を見ると、印象派に関わりがない訳ではないけど、象徴派に近いらしい。だからサブタイトルの「~の間で」。
印象派のように目に見える現実の世界そのもの、科学的な光と色彩の効果を音楽に移して描いているのではなく、その視覚世界によって喚起される気分や想念を描いている、というのだとか。
確かに、展示中に何度も登場するナビ派(象徴派)の画家ドニの、穏やかで抑制された思わせ振りな表現と少し冷たい色彩は、まろりーの表面的なドビュッシーのイメージと似ていた。ような気がする。
モーリス・ドニ<イヴォンヌ・ルロールの3つの肖像>
でも、まろりーにはドビュッシーの音楽には、ナビ派みたいな明確な輪郭があるようなイメージはない。…歯にものが詰まったような言い方ですね(笑)まあ、実際詰まりまくりなのです、先入観だけで話しているから。
クラシックには強いめの友人;ドビュッシーって、メロディが3つも4つもあるじゃない?
音楽といえばバロックのまろり;ドビュッシーにそんなあったかしら…。
…沢山のドビュッシーを聞いてないのでまろりーの考えは何だか誤解っぽいけど(笑)えーと、そういう輪郭のないところが「印象派」なのかなとそぞろに思ったり。…最近覚えたての画家、アンリ・シダネルも描き方としては点描を駆使した印象派的なものだったけど、内容は見た目を越えた含みのあるものでした。あんな感じなのかな?
エドモン・クロス<黄金の島>
結構、気に入った絵。近くから見ると、青や黄色やオレンジの斑点の規則的な並びでしかないけど、タイトルを与えられ、少し遠くから見ると海と砂浜になる。
それだけなんだけど、近寄ったときの装飾性と、遠ざかったときの現実性、二つを楽しめるとこが気に行った。
それにしても、ドビュッシーの若い頃の肖像って、坊っちゃんカット?の髪型似合ってないと思うんだ。
しかし、お土産でその顔が沢山キャラクター化されていて、金太郎飴にまでなっていて、可愛くも格好よくもないけど、印象的な顔です。
そんな似合ってない髪型のドビュッシーがプリントされてるお土産の缶バッジ型再生機が面白かったな。イヤホンを差すと、十数曲のドビュッシーが流れるという缶バッジ。しかも選曲は展示に関わりのあるものだから、これ聞けばきっと展示内容の理解も深まるに違いない。
さて、早速脱線したな。いや、展示を順番に思い出していくと、最初にドビュッシーの肖像画で、それで髪型似合ってないなぁと(前段に戻る)
やはり思わせ振りな習作など。確か春と題されて自然の中で女性たちが戯れている。色彩、均質な光線、平面的な舞台、軽やかに襞の舞う衣装、ルネサンスを彷彿とさせます。
彼らが、近代より前の絵画の精神をもって新たな絵画を創ろうとしたように、ドビュッシーにもルネサンス音楽の影響とかあるんだろうか。あんまりルネサンス云々なイメージはないけど。ただ、確か、既存のクラシック音楽の規範をうち破ったのだったよね。
象徴派的なロセッティの、ロセッティぽい大きな素描。ロセッティ好みの顔が神秘的な柔らかい光に浮かび上がっている。赤と黒の2色だけでそれを成し得たことに感嘆しきり。
ドビュッシーは、ロセッティの「祝福されし乙女」という詩と絵画に大いに触発されて、同じテーマで「選ばれし乙女」という曲を作ったというお話です。どちらとも内容知らないので、ぼやぼやとしか分からないけど、タイトルだけでも十九世紀の香り高い。
ドビュッシーは、画家にしてパトロンのルロールさんのサロンに出入りをして、当時最先端の絵画や文学に触れていました。
そのルロールに関わる絵画が数点展示されていて、ドビュッシー本人が浸かっていた空間を垣間見ることができます。
良いご身分のルロール本人の室内画とか。
絵自体はオランダの室内画を当世風に翻案したもので、多分、ドビュッシーも訪れただろうご自宅(多分)の光景。暖炉、家具、それらに置かれた雑貨、黄色い壁紙、そこに所狭しと架けられた絵、少し遠くから奥さんがアップライトのピアノに向かっているのを見る定石通りの室内画。
別のものは、確か、服の掛かった椅子とその隣の開いたドアとその向こうの室内の絵。奥には逆光のなかにシルエットになったぼやけた人影がある。手前にはっきりと描かれた、椅子に無造作にかけられた女物の上着によって、影が女性であること、彼女がそれを脱いで寛いでいるだろうこと、その影のいる室内空間が彼女の領域であることを暗示している。そして鑑賞者はそのプライベートな部屋を覗いている。…ような絵だった気がします。
ルノワールによるルロールの娘たちの肖像。
ルノワール<ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ>
背景の壁にはルロールが大ファンだったというドガの絵が架けられていて、彼の所有するドガを入れてくれという注文だったのか、ドガ好きがアイデンティティーだったのか。ルノワールさんのドガ模写とか、ちょっと興味深い。やっぱり、端っこの方にちらと描いた感じでもドガさんとちゃんと似てる。
サロンでは、ドビュッシーもやっぱりこのピアノを弾いたのかなぁ。
カイユボットのピアノを弾く男性の絵。
無理に高い視点で描いてある。遠近法の調子が現実と離れているようで、見ているとぐらぐらする。でもきちんと八十八鍵ありそうな鍵盤の描写と黒塗りのボディへの奏者の手や光の映り込みが見事です。
ピアノの製作社の装飾付きの金色のロゴに見覚えがあるような気がしました。エラールとかプレイエルとか。丁寧に調べれば特定出来そうなそうでないような。(←その気はないらしい)
「春」というタピスリー。枯葉色の地にえんじ色の草花の模様、同じ色の輪郭に縁取りされた三人の女性たちがジグザグに重なるように描かれている。彼女たち白い衣装が、写真にあったルロールさんの娘たちの服装と一緒で、このタピスリーも当時最先端のモダンな模様なんだなと思う。
春=ラ・プリマヴェーラ(ボッティチェリの)ということで三人の白い女性たちは、当世風の三美神を表しているのかしら。つまり、やっぱり聖なる乙女的な…。ちょっと読みすぎかな。
ルロールの月夜のチュルイリー公園の絵。灰色がかった紫を基調とする小さな絵で、やはり月によって醸されるセンチメンタルな効果を狙っているのでしょうか。上野公園で東博を背にして見る景色に似ている。←この絵の感想。
舞台にも取り組むドビュッシー。中世イメージの衣装やとてもファンタジーな背景など。
バレエの「牧神の午後」の写真がいくつか展示されていました。
何故かホルスタイン模様のサテュロスと、ニンフたちが、横向きであることを強調して写してある。
自然な動きからはかけ離れたその無理なポーズは、牧神=ファウヌス=サテュロス=ギリシアということで、古代ギリシアの壺絵を再現しています。遺跡発掘&新発見により時折おこるギリシアブームの最中なのだとか。ギリシアのエキゾチズムと古代ロマンはいつの時代でも有るものです。
それにしても、生き生きと描かれている壼絵を、生身の人間がそのまま真似すると、なんと不自然でぎこちないこと。静止して、厳粛で、儀式的なポーズ。あるいはエジプトの壁画みたく荘重で神聖な印象を与えるかもしれない。
それが、ギリシャの壼絵の当時の解釈なのかな。そういえば、ヴィクトリア朝な写真で、超作り込まれて作為的な、プーサンの神話画みたいのを見たことがあったな。つまりは、絵画の空想世界を実写でやろうとしている写真。あれと同系統?
どんなバレエだったのだろう?まさかあのぎくしゃくした写真のままの踊りではあるまい。・・・ごめんなさい、某お笑い芸人の「暇を持て余した神々の遊び」を思い出してる(笑)あのコント?の動きって、ギリシアの壺絵とか、エジプトの壁画とかイメージしているよね、と勝手に思ってます。さて、牧神の午後の写真も、あれはきっと写真用のポーズなのだと、勝手に思っています、だってそうじゃないと、暇を持て余した神々の遊びみたいになっちゃうじゃないか(馬鹿)
多くの同時代の芸術家たちと同じように、日本の浮世絵や工芸もドビュッシーのインスピレーション源になりました。実際に東洋の品々をコレクションしていたのだとか。
東洋チックなカエルの置物。「アルケル」君と名付けられたらしい。アルケルの綴りに、フランス語っぽくない「k」がわざわざ使われているあたり、異国情緒?アルケルというのはフランス人にとって外国人っぽい名前なんだろうか。
伊万里(確か)のパゴダ(太鼓腹に太って笑っている滑稽な中国人)のインクつぼ。完全にヨーロッパ人向けの日本製。そして、日本人の外国人受けを狙いまくったパゴダにうまうま引っかかるフランス人がここにいた(笑)
ご自宅に等身大の仏僧の木彫を置いたり。一緒に写った写真が展示されているけど、その大きな人型の木彫は、写実的な造りで存在感たっぷり。居合わせたスーツの人たちに混じって、僧侶の頭と着物の人が…。例え日本人でも、この大きさの仏僧はお部屋に置きません。やっぱり、こういうところ東洋に興味のあるファッショナブル・フランス人だよね、ドビュッシー(笑)
「海」の楽譜の表紙は北斎の波をほぼそのまま写した木版画だとか、日本から輸入した扇子にドビュッシーが楽譜を書いて人に送ったりだとか。
広重の風景画の葉っぱの描写は、確かにドニの描く葉っぱに転用されていた。ミューズたちの葉っぱとか、ほぼそのままなのでは。
左;歌川広重<名所江戸百景 真間の紅葉手児那の社継はし>
右;モーリス・ドニ<ミューズたち>
そのドビュッシーの直筆の楽譜、当たり前ですが、おたまじゃくしの書き方がプロっぽい。とっても書きなれて無駄の全くない小さな音符。プロだなぁ(笑) あと、小さなメモ帳が五線譜になってて、それにスケッチとして音符が書きこまれてあったり。プロだなぁ。
鯉の描かれた蒔絵の品。漆の黒地に金の鯉が踊っています。
ドビュッシーの曲に「金色の魚」というものがあるそうで、確かにこの蒔絵からインスピレーションを受けたんだろうな。どんな曲なんだろう、金色の魚。
はてさて、全展示を通して。
今やドビュッシーは歴史的な人物として、「クラシックな」レパートリーだと思うけど、彼は当時最先端の諸芸術と交流・共鳴し、前衛的な芸術運動に組していた――というのがドビュッシーの音楽を知らなくても、絵画を通して見ることが出来ます。つまりは、それを聴き通すには何時間もかかるのに対して、関連のある絵画を見ることで、多くても数時間ですむ。とて、今さらラファエロ辺りの時代みたく、絵画と音楽どちらが優れたるかを問い、絵画の音楽に対する優位性とかを語るつもりは勿論ない。
ドビュッシーの「モデルニテ(当時の現代性)」ってやつを体感したと思います。まあ、最終的には、音楽と絵画は別物なので、ドビュッシーの音楽を聞いた事にはならないから、気のせいなんだけど。
ところで、ドビュッシーには「雅びやかな宴(フェート・ギャラント)」という曲があるらしい。そういえば昔、CD屋さんで「フェート・ギャラント」と銘打たれ、ジャケットもヴァトーのシテール島で、おやロココ音楽かと期待したらドビュッシーのCDで、騙された畜生と思った経験がある。別に騙されてはいなかったんだ(笑)