忍者ブログ

○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

拍手お返事

8月29日マコト(こうせい)様>
 やや返信おそくなりました、すみません。
 いえいえ、麗子は本当に目からうろこでした。そして、日本は怪物において負けてない、と変な優越感を感じました(笑)
 突っ込みまくり、大歓迎ですよ!むしろ突っ込み待ちというか(笑)
 マコト様のおかげで、「麗子 化け物」という検索ワードで当ブログに流れ着いてしまった方もいらっしゃったようです(アクセス解析調べ)
 父の麗子萌え(?)、怖すぎです。途中で落ち着け!と止めようとした友達はいなかったのでしょうか。


9月6日こなつ様>
 おひさしぶりです!サイト改装完了お疲れ様です。 リンクフリーでしたので、これもご縁と実はこっそりリンク貼っていました(笑)リンク返しありがとうございます^^
 もちろん、こちらもリンクフリーですので、こなつ様のページの何処に貼ろうが、ご随意のままに。こなつ様のふさわしいと思う場所にお貼りください☆
 改名もされた新生こなつ様のサイトのますますの発展、お祈りしてます&応援しまてます^^

拍手[1回]

PR

上野の古代ギリシア展の感想つらつら。

 上野の西洋美術館のギリシャ展と六本木の新美術館の印象派展行って来ました。
 そんな訳で、かいつまんでの感想を。
 
 まず、ギリシャ展。大英博物館所属の古代ギリシャ各時代の彫刻、壺絵、古代ローマ時代の古代ギリシャのコピーなどで、アメリカにも巡回していくのだそう。
 とにかく、どの展示品もまるで2千年の経年を感じさせない美しさ。本気の修復の賜物なのか、初めからそうだったのか、まろりーには分かりませんが、古代の生活や価値観の一端を伺わせる彫像や、壺絵の生き生きした物語、構図や描線を堪能出来ます。
 実はギリシャの壺絵って、それほど沢山は見たことがない。だから、今回見た壺絵が、当時のギリシアでポピュラーな画題、構図だったかは分からない。まだまだ違いの分かるレベルには無いのが私の勉強不足ポイントでした。
 
 さて本題に入る前に諸注意を。各ギリシャ的固有名詞などの表記揺れは、これを全く気にせず、場合によっては、ギリシャ風、ローマ風、英語、日本の慣用などと入り交じり、また、長母音、短母音の別も特別に注意を払わない。非常に無造作な文章になることをご了承下さい。
 
 最初を飾るのは、小像ながら堂々たるゼウス。長い杓を右手に立て、雷を左手に掴み玉座に座るギリシャの主神です。冠を頭に乗せ、豊かな髭を波打たせて、決して若者ではありませんが、いわゆる理想化された肉体で表現されて、主神としての威厳たっぷりです。
 しかし美術館の説明に笑いました。曰く「ギリシャには様々な空想的な生き物がいた。筆頭はゼウスなどオリュンポス十二神である。」
 …主語が可笑しい…!オリュンポスの神様捕まえて生き物呼ばわり(笑)
 ゼウス小像の次は、赤い地の上に黒い釉薬をかけて、その黒を引っ掻いて模様を出す黒像式の2つの壺絵。因みに、アンフォラだのクラテルだの専門用語は使い分け出来ないので、全部「壺」でまとめちゃう。
 
 叡智の女神メティスとの間に子供が出来たゼウスですが、その子が将来ゼウスから王座を奪うと予言されたので、お腹の子供ごとメティスを呑み込んだゼウスさん。すると、頭がとても痛くなったので、手先の非常に器用な息子、ヘパイストスに斧で上手いこと頭を割って貰ったところ、そこから武装した姿で知恵の女神アテネが生まれました、というお話。
 ギリシャの黒像式の壺絵はいつもそうですが、半ば図案化・記号化された洗練された黒い像と、均一に細く、きっぱりと引かれた赤い線と、繊細にしてリズミカルな構図が大好きです。
 余談ですが、ユピテル(ゼウス)様が、女の子や男の子のお尻をいつも追い掛けているあほな子になったのは、このエピソードのせいだと、まろりーは信じて疑いません。
 裏側には、おそらくライオンの革鎧を被ったヘラクレス。脈絡はよく分かりません。強いて言うなら、ヘラクレスとアテネが仲良しなくらい?
 壺絵の裏表で、絵の関係がよく解らないものが多々ありました。何かの習慣なのか、本当に関係がないのか、それも知らない。
 
 ろばに乗ったヘパイストスとディオニュソスの壺絵。
 ゼウスと正妻ヘラの生まれつきの高貴な(笑)子供だけど、非常に醜かったため、ヘラ様にオリュンポスから投げ落とされてしまった可哀想なヘパイストス。しかもその時、怪我をして足に障害を負ってしまいました。
 なので、オリュンポスへ帰還するヘパイストスは、ろばに乗っているのだそう。そのろばの歩く先々に葡萄のつるを這わせて先導する葡萄と葡萄酒の神様、ディオニュソス。壺絵では、ろばでぱかぱかしているヘパイストスの裏側でライオンを従えています。二柱の神様の周り、壺としては両耳の把手の下で、デュオニュソスの従者、山羊の足のサテュロスがいて、葡萄のつるを引っ張ったり、アウロス(古代のリード楽器)を吹いたりしています。
 何だか牧歌的でとてもよい図柄です。取り敢えず、ディオニュソスという神様はクレイジーなのに牧歌的で大好きです。まろりーも大きくなったらマイナスになりたい!(問題発言)でも、致命的なことに、お酒飲めないんだよね、えうほい。
 それにしても、ヘパイストスとディオニュソスって結構仲が良かったんだ(笑)物造りの神と農耕の神、どちらも人間の営みに直接関わるからでしょうか。デュオニュソスも生まれたての頃は新興宗教として人間に侮られて苦労していたようだから、ちょっと親近感があるのかも。
 物語には関係無く、四方に向けて4つの大きな目がぎょろりと描かれています。削り出しの黒像ではなく、さらに上から白く盛り上げてある。後で展示されていた、見る人を石にするゴルゴン(メデューサ)の瞳と同種のものです。悪名高いゴルゴンですが、その恐ろしい力は逆に悪い物を退けるとされ、世界各地に目玉の魔除けが存在しているように、この壺の目にも人を益する呪術的な力を感じます。
 
 後ろから彫像を見る。女神かと思いきや、正面に回るとデュオニュソスでした。体つきも顔つきも女性的です。葡萄の神様なので、葡萄の木にもたれて立っています。葡萄も酒神に擦り寄っています。というのも、その葡萄の木は擬人化されていて、ちょうど変身中のダプネのように、半ば木、半ば女性の樹木のニンフ。名もない木までギリシア人は擬人化するのがとことん好きなのでしょうか。足元にはデュオニュソスが好んでつれ歩く小さな豹か獅子。
 
 大きなヘラクレスの頭部。
 何でもハドリアヌス帝の為に作られたものだそうです。気のせいかハドリアヌス帝本人にちょっと似ているような?まさか、あのハドリアヌス帝の特徴的な髭はヘラクレスイメージ?いや、よく分からないけど。
 色々あって10の冒険を課せられたヘラクレスですが、何だかんだいちゃもんつけられて、結局12に増量してしまったうち、3つ程のエピソードの黒像式の壺がありました。
 ディオニュソスは女性的に表現されることも多いですが、ヘラクレスはそういう事はあまりイメージ出来ない人間です。決して脳みそ筋肉という幸せな男ではないのですが、己の並外れた身体能力で苛酷な試練を乗り越えてしまう、果てはそれで神様にまでのしあがる、説明では「古代ギリシアのアスリートの理想の姿」だったそうです。
 エリュマントスの猪狩り。
 ヘラクレスに冒険を命じるミュケナイ王エウリュステウス王は、内心彼の死を願いつつも狂暴な大猪の生け捕りを命じました。死ぬだろうと思っていたら、ヘラクレスは見事生け捕って帰ってきてしまいました。次は自分の番かと、恐怖に身を震わせながら大甕に隠れる王様。甕の淵に足をかけて、高々と掲げた猪を、今にも頭から甕の中に投げ入れるかに見えるヘラクレス。今すぐ逃げ出したいと思いつつ、実は逃げ場がない王様は、首だけ外に出して、手の平をヘラクレスに向けながら両手を突き出し、必死で制止する身振りです。大甕の口から王様の首がぴょこんと出ていて、均一で無表情で、様式化された動きもちょっとコミカル。逆にあんまり良いところの無いエウリュステウス王の一番の見せ場です(笑)
 
 スフィンクスの像。テーブルの天板を支える足だったと思われるとのこと。
 女性、獅子、鳥の合成された姿のスフィンクスですが、翼など多分、本物の観察に基づいていて、かなり精緻な作りです。といっても、体はライオンというよりは、何か猟犬めいたもっと細身の生き物で、女性の首と非常に上手くバランスよく連結しています。各パーツリアリティに富んで、まるで骨格と筋肉を備えて本当に動き出しそう。合成獣の醍醐味ですね。
 そして、うっかりお箸とか落としたら、嫌な感じに目が合いそう。
 程近くに展示されていた山羊の脚のパン神の小像もそうですが、人体と動物の一部を融合させるバランスが絶妙なのです。
 
 ベッドの脚だったシレノスの像。デュオニュソスの愉快な仲間の一人、太った中年・老人の陽気な下級の神様がシレノス。大きなお腹な上、いつもへべれけ、自力で歩きづらいのでよくろばに乗っています。
 家具の脚なので、シレノスの姿は自由気儘に歪められて、家具の脚らしく、下半身はライオンの手になっています。家具の脚なので、上に乗る重量を支えねばならない要求から、くびれたところの無い、ずんぐりした三頭身。かつてはこのグロテスクでコミカルな奴が4体ベッドの下に生息していたかと思うと、ちょっと楽しい。
 
 デルフォイの神託所の鼎を奪おうとするヘラクレスと、それを阻止しようとするアポロンの壺絵。ヘラクレスの背後ではヘラクレスの守護神アテネが、アポロンの背後ではアポロンの姉のアルテミスがやはり対峙しています。アルテミスはえびらの矢に手を掛けていて、殺る気満々。一体、何故こんな展開になったのか、その経緯を知りたい(笑)
 
 ウェヌスの像。水浴のアプロディテが、ふと人の気配に気付いたかのように、脇を見遣り、体から落とそうとしていた衣を腿に挟んで、咄嗟に例のヴィーナスの有名なポーズを取ろうとする、その瞬間。
 何でも、古代ギリシャでこの像を神殿に設置したところ、艶美ささで評判になり、観光客が増えて街の財政が潤ったのだそう。今も昔も人間あまり変わりません。
 今でさえ博物館に鎮座し、クラシックな美の体現として珍重されて、現実からは離されているヴィーナス像ですが、現役時代はきちんと俗世界に密接して「機能」していたと思うと、何だか嬉しいものです。芸術かくあるべしです。
 それにしても、目に楽しい衣紋の襞の波。美しく襞を取りながら重力に垂れる布。水浴のウェヌス像だけでなく、その他の像も同様です。まろりー自身は、襞の表現そのものの為に、その下の人体を犠牲にすることは大いに結構ですが、古代は人体を覆いながらも、体の線を感じられるようにします。ルネサンスの人たちはこういう所を見て復活させようとしたのですね。
 
 演劇用の滑稽な仮面を被った役者の像がさりげなくロマンチックでした。
 おそらくは、先天的に小さな体のまま大人になった人。昔はそういう人は多く芸人として活躍しました。体の小さい人=取り敢えず芸人になるというようなレールが敷かれていたようにも思います。…この辺の文化史はその気で調べれば深められそう。
 ともあれ、顔よりも大きく口を開けて大笑する仮面の下に、本人の口元が見えます。その口元は、笑っていない。
 
 目玉の円盤投げの像。横文字ではディスコボロスさんといいます。階段を降りて、一端説明書きの壁に遮られる。道なりに曲がると、程よい狭さの円形に組まれた黒い壁の中央に、胸辺りまである高い台が設置されていて、その上にある白い大理石の大きな像。空間でも傑作感をアピールしているというか、多少鑑賞者を煽りたてようとしているというか、古代ギリシャ、ヘレニズム彫刻の傑作を最大限引き立てようというVIP待遇が素敵です。
 今にも円盤を投げようと身を大きくひねる人。片足に重心を集中させて、力をかけないもう片方の大きな足の裏がすべすべ(←何処を見ているんだ)
 普通の人が実際にやったら、バランスを崩して円盤を投げるどころではなさそう。鍛えられた筋肉の賜物なのか、全くの虚構なのか知りませんが…。それなのに、ディスコボロスはぴたりと危なげなく静止していて、倒れそうだなどと不安感は全く与えません。
 このポーズを左右10回くらいやったらエクササイズになりそう。どうでしょう、古代ギリシア彫刻エクササイズ。他にラオコーンのポーズとか。
 
 それにしても古代ギリシア人ほど全裸の似合う人種はいません(笑)
 もし仮に、中世以降の男性ヌードしかない展覧会があったとしたら、多分かなり凹むけど、今回は皆で露出度高いのに、まるで違和感のない不思議…。
 
 ニンフを抱き止めようとするサテュロスと、サテュロスから逃れようとするニンフの等身大ほどの像。二つの人体が絡まりあって、これが元々は単なる石の塊だったとは信じられません。どこから見ても様になるよう作られています。
 このような主題を、バロック彫刻の巨匠ベルニーニも作っていたけど、古代ギリシアとは思えない程のバロック。この修辞はちょっとおかしいけど(笑)お互い渾身の力を出す端正とは言い難い大袈裟なポーズや、現実そのままではないのに存在する迫真の動感とか。 ベルニーニのは図版で親しむに過ぎませんが、古代のサテュロスに比べればベルニーニの方がまだしも抑制されていて、上品かと思います。でも、サテュロスとニンフは微笑を誘う朗らかさ。文字に還元すれば、サテュロスは女性に乱暴を働いている訳ですが、駄目男感があるだけで(笑)、人間の欲望の持つ「黒さ」がない。クラシックはやはり朗らかで健康的です。まろりーが古典主義者だとすれば、単なる見た目の様式ではなく、この精神をこそ規範としたいものです。
 
 なんかいい感じに段落が終わったから、まだ言いたいことは残っているけどこの辺で切り上げよう。
 若干、展覧会カタログ欲しいかも知れない。でも壺絵や彫刻という立体ばっかりだから、本当は図版でも足りない。隣に大英博物館越してこないかな!
 
 
 その後、上野から地下鉄一本で直ぐに六本木へ。上野→六本木美術館はしごコース、結構いいかも。1日美術に浸かりたい人にお薦め。
 六本木のワシントンナショナルギャラリー展は、型通りの教科書のような展示でとても良かった。でも後期印象派が絵自体はいいのに何だか薄い客寄せパンダだったので、「これを見ずして印象派は語れない」のキャッチコピーなら、むしろがっつり盛期の印象派に特化しても良かったのではないかな。で、シスレーとかシスレーとかシスレーを増やしてくれれば。(←単にシスレーが見たいだけ)ピサロと区別出来ないくせにシスレーファンを名乗ります。

拍手[1回]

怪物シリーズの東西

 鵁鶄さんの記事にて、貴重なご意見を頂きました!当ブログモレナールについてを見て下さった、こうせいさんが思い出したもの。

 日本にも、有名な怪物シリーズがあったじゃないか!という。

 その名こそ、麗子。

 そうだ、麗子がいたじゃないか。岸田劉生の麗子像。
リンク先のグーグル画像検索で見ていただければ分かる通り、夥しい数の麗子たち。絵によっては、一枚に二人麗子が描かれたりしている麗子シリーズ。
 …というか、これだけ麗子像があったなんて、今検索して初めて知りました。日本の洋画壇は全くのノーマーク!
 いや、このリンク先、圧巻ですね、夢に出そう。
 モレナールの怪物たちより、こっちの方がよっぽど怪物めいていますよね・・・。怪物というより、妖怪。
 モレナールを超えた怪物シリーズは日本にあり(笑)いや、これに比べたら、モレナールの方が薄いというか、軽いというか。まあ、モレナール自身、深みは求めていなさそうだけど。

 しかし、この麗子への執着心。岸田劉生としては、愛情込めているのだろうけど、愛情こもり過ぎて怖い(笑)
 人が何かに執着するあまりに、人の域を超えて魔性を帯びるパターン。このパターン自体は大好物ですが、麗子はとりあえず怖いだろう。
 デューラーの影響を強く受けたという岸田劉生。画風だけでなく精神性も似通ったところがあると思います。多分、通じるところがあったんだろうなぁ。共感というか。

 比べるには余りに隔たった、モレナールと岸田劉生の東西の妖怪児たちですが、モレナールの怪物には、がちゃがちゃとした、お上品でなくとも、人間の域を超えない人間性が備わっており、高尚には見えなくとも、生き生きとはしている。ただ、可愛くないだけで(笑)
 岸田劉生の麗子には大真面目な思い入れだけがあって、ユーモアというものがまるでない。だから怖い。モナリザも意識しているのか、モナリザ・スマイルがまた怖い。尤も彼のことは余り知らないけど(多分、調べれば麗子像の深い理解も得られそうではあるけど)、麗子本人ではなく、現実の麗子を超えた、イデア的な「超」麗子の姿を追い求めたのかなぁ。抽象的な、記号としての麗子像。
 そんな麗子像が怖いのは、何だか妙な親近感や既視感があるからにまろりーは思えます。
 上手く言えないけど、確かに今我々がいる日本という世界と、麗子像の絵の世界は陸続きになっていて、決して遠い異国の昔の話ではないという、時間的・距離的な近さ。麗子像のような明治(大正?)の子供を、もはや現代人は見たことはなくとも、確かに居たという親近感。多分、麗子という「概念」のようなものが麗子像だとして、古き日本の特定ではない子供という形象を写した日本人形と似ているという既視感。・・・不幸なことに、日本人形といえば、テレビでよくみる有名な怪奇現象を直ぐに連想出来る。
 で、その二つが絶妙にブレンドして、この人にして人ならざるものが、夜に動いても絶対おかしくない、という気持ちにさせるような気がします。その意味で、「生き生き」しているのかしら、麗子像(笑)
 麗子像が不気味なのは、テレビの心霊特番のせいですね(過言だ)
 あと、岸田劉生のユーモアの無さ(やっぱり過言だ)

拍手[2回]

ライオン枢機卿

cardinal.jpg

昔々、あるところに手にとげが刺さって困り果てたライオンがいました。そこへ修業中のお坊さんが通りかかり、ライオンのとげを取ってやりました。ライオンはすっかり改宗してお坊さんに弟子入りし、人間の言葉で書かれた聖書を獣たちの言葉に訳して、その有難いお教えを広めたのでした。

聖ヒエロニムスとかキリストとか実在の団体とは、精神において関係ないです。

拍手[2回]

死と楽器とモレナール

 無駄に格好いいっぽい記事タイトルにしてみました(笑)
 先日のフェルメール展の付け合わせで、非常に小さくちょろっとだけ、ヤン・ミーンセ・モレナールの絵が掛かっていたので、ヤン・ミーンセ・モレナールのことを急に思い出して、本日はヤン・ミーンセ・モレナールについての記事を書こうと思います。色々と見ていたら、変な風に嵌った。
 …無論、学術的なことではなく、まろりーの思うヤン・ミーンセ・モレナール。モレナールについての学術論文なんて読んだことないしな…。長い割に内容は薄いので、ご了承ください。

 時代は例のオランダ絵画の黄金時代。17世紀に活躍したハールレムの人。(1610年~1668年)
 フランス・ハルスの影響を非常に強く受けており、正確な記録にはないようですが、恐らくはハルスの弟子だったと思われます。
HalsLuteplayer.jpg MolenaerViolinPlayer.jpg
左;フランス・ハルス<リュート奏者>
右;ヤン・ミーンセ・モレナール<ヴァイオリン奏者>

 ただ、ハルスの最大の特徴たる的確にして奔放な筆致をモレナールはあまり採用しませんでした。モレナール自身の繊細に描きたい好みかも知れないし、ハルスの晩年は、粗く軽快なタッチよりも筆跡を残さない入念な仕上がりが一般に好まれたそうなので、そういう流行の為かも知れません。

 モレナールの奥さんユディット・レイステルも、当時としては珍しい女性画家(基本的に絵を描くのは男性の仕事)で、やはりハルスの弟子だったと推測されます。
Self-portrait_byJudithLeyster.jpgユディット・レイステル<絵を描く自画像>
 画中画にもハルスの影響が見られます。
 家庭で勤勉に家事をする大人しげな女性が理想(あくまでも理想)だった時代に、女性たる彼女の方がハルスの豪快な様式をよく受け継いでいたり。自画像をみると、聖書中の猛女ユディットの名にふさわしく(笑)、色々と強そうな…。自分は女性の画家であるという自負心が強そうです。十中八九、こんな派手な襟をつけて絵は描かないと思う。肖像画として、良い服を着ているけど、無理やり画家属性をくっつけっちゃった、そんな自画像かと。
 このユディット・レイステル、ときおり結構えぐい絵を描くのです。特に光と闇の効果を追求した絵がダークサイド。しかも、そうするつもりは本人にもないのに、出てしまったえぐみにも思えます。
LeysterGreedyDrinkers.jpgレイステル<卑しい酒飲み>
 教訓的な絵。しかし、ユディット・レイステル自身も結構ビールとか飲みそう(笑)完全に見た目で判断したけど。

 早速脱線しましたが、もう少しだけ別の脱線を続けて師匠と思われるハルスの系譜を簡単に辿って見てみます。
TerBrugghenV.jpg HalsLutePlayer1626.jpg
左;ヘンドリック・テル・ブリュッヘン<グラスを持って笑うバス・ヴィオル奏者>
右;ハルス<グラスを持つリュート奏者>
 左の絵、テル・ブリュッヘンは、こういう当時最新のイタリアの画風をオランダに持ち帰ってきた流派。ハルスとは大体同時代、だったはず。それに影響を受けて、ハルスも同じテーマを描きます。
 この手のシンプルにして空想的な絵画はよほど人気があったのでしょう。そして、画家としても凝った絵よりそれなりの質で量産出来る。これは想像ですが、お値段もお手頃価格だったのでは。
 モレナール以外にも様々な画家がこれと類する絵を描いており、影響はハルスだけではなかったかとは思います。
 この系譜、イタリアのカラヴァッジョ様式に由来する画風ですが、その特徴は、強い明暗、思い切った遠近法、無背景、人物胸像のクローズアップ、特に人物の表情へのこだわり、劇の舞台衣装のような当世オランダっぽくない服、などなど。そして小道具としてよく楽器を持っています。
 ただ、ハルスは、この手の絵画の創始者たちの滑らかだった筆跡を、やっぱり独特の粗いタッチ(後の時代に印象派風と言われることになります)にして描いています。
 cd9d82f3.jpegハルス<本を読む少年>
 最低限の大きな筆さばきで、本から髪の毛から、あらゆるものを描き分けるハルスの腕前。そして、この生き生きとした虚ろな目(笑)ハルスの顔芸は他の追随を許しません。

 さて、ようやくモレナールに戻りましょうか。
 モレナール、追々お話しますが、意外と多彩な画風を使い分ける画家ですが、もっとも「ハルス風」だとまろりーが思う絵がこれ。
MolenaerGirlWithFlute.jpgモレナール<笛をもつ少女>
 この子は、身近にいた子のようで、他の絵にも登場します。
MolenaerChildrenWithCat.jpgモレナール<猫を抱く少年と少女>
 それにしても、いったいこの子たちは何だというのでしょう。
 子供の絵といえば、現代ならば可愛いのがセオリー、子供=可愛いではなかったバロック時代とはいえ、……この貫禄と妖気。ハルスの子供も結構可愛いのに。まろりーは勝手に「怪物シリーズ」と呼んでいます。
 そう、シリーズ。明らかにシリーズなのです。
MolenaerChildrencat.jpg MolenaerChildWithCat.jpg MolenaeBoyHolding-aDogandGirlWith-aCatandBoy.jpg
左;<猫を抱く少年と少女>、中央<猫と少年>、右<猫を抱く少女と少年と犬を抱く男>
 左の絵は最初に挙げたのよりもちょっとだけ良い顔になっている?
 真ん中の絵は猫とじゃれている少年。喉元に猫パンチを喰らって笑い声をあげています。
 右は新キャラ?のおじさんまで登場して、よくわからないけど盛り上がっているようです。
 何故こう可愛くもない同じ子供を何枚も描くのか。子供っぽい無邪気でコミカルな仕草が魅力だったのでしょうか。屈託のない笑顔ですが、顔が子供ながら人間離れして面白かったからでしょうか。
 同一主題で繰り返し描くというのは、画家個人の特別な思い入れがあったか、あるいは繰り返し描いても売れたということで、このシリーズ結構人気があったのかも。インパクトがあって、一度見たら忘れられない、他の絵に登場してもすぐに同一人物だと分かります。
 
 因みに、どうやら一番最初に挙げた、笛を持つ女の子の絵は、子供を「子供」として興味を持ちはじめる18世紀にも版画化されていたようです。版画は油絵より安価で大衆的=アートというよりより商業的なので、一世紀たった後でもモレナールの怪物もある程度人気があった事を示しています。
 しかし、怪物たち(笑)に反して、きりっと可愛い猫。モレナールは間違いなく猫をよく観察していて、多分、猫好き。
 この怪物シリーズは奥さんにも感染したようです。
LeysterABoyAndAGirlWithACatAndAnEel.jpgレイステル<猫を抱きウナギを持つ少年と少女>
 あるいは奥さんが初めに描いて、後でモレナールが嵌ったか。もしかしたら猫は同じにゃんこかも。

 さて、おそらくモレナールは楽器を描くのを得意としていました。
jan-miense-molenaer-Lutist.jpgモレナール<リュート奏者としての自画像>
 ようやく出てきました、モレナールの自画像(笑)リュートはお気に入りの楽器のようで、よくモレナールの絵に登場します。
 怪物シリーズとは打って変わって、真面目そうな表情で、リュートの弦を調律するモレナール。

 モレナールの中で比較的有名なのがこの絵。
858e5ac8.jpegモレナール<スピネット(ヴァージナル)を弾く女性>
 フェルメールなどはヴァージナルを弾く女性をよく描きましたが、
vermeervirginal.jpgフェルメール<ヴァージナルを弾く女性>
 室内の、奥行きがあり且つ合理的な空間と、光と影の織り成す質感と情感を描くフェルメールと違って、モレナールのこの絵は、どうも楽器の中身と女性にのみ注意が払われ、その他の要素はその2つを出来るだけ滑らかに接続させるためだけの緩衝剤のようで、逆に全体で不調和な感じがします。むしろ…セザンヌ(褒め過ぎだ(笑))。
 楽器の中身の弦や弦を留めるピンの並びをよく見せる為に、楽器はやや高い位置から見下ろします。多分、「中身を詳細に描くこと」に気を取られてスピネットとしての全体は、何だか不恰好。というか、弦が斜めに張られたスピネットなのか、水平に張られたヴァージナルなのか、それすら判断に迷います。こんないまいちスマートでない鍵盤楽器が実在した可能性は否定できませんが、明らかに蓋の長さが足りないのでは。
 逆に、フェルメールはわざとか偶然か、中身を描かないようにしています。それどころか、鍵盤まで描きません。うまいのか、ずるいのか。
 奥から男性が入って来ています。これも画面の空いた空間に構図的に適度な大きさの入り口を描き加えただけなのか、遠近法が破綻しているような。
 とにかく、描きたいものを優先に描いたらその他が困ったことになっている絵かと思いますが、その姿勢はとても素直で、まろりーはそういう他愛のないささやかな欲望に忠実な絵って好きです。
 とはいえ、決してヴァージナルがいつも適当だった訳ではないと思います。
 割としっかり描いている絵もあり…。クオリティが一定しないのもモレナールです。

 自分の家族を描いた気合いの入った絵では家族に種々の楽器を持たせています。
8ed79d2c.jpegモレナール<画家と画家の家族の肖像>
 この絵はまろりーのお気に入りでもあるので、以前当ブログでも掲載していて、その時と同じ事を繰り返し書くことにはなりますが、このような絵だからといって、モレナールの家族が音楽大好き一家で、いつも全員で仲良く合奏していたかどうかは定かではありませんし、一般民衆の家庭での音楽がここまで大規模になれるかどうか、むしろ疑わしいものです。
 では家族皆が何故楽器を持っているかというと、複数の楽器はきちんと等しいピッチに調律しないと調和した音楽になりません。つまり、沢山の楽器を各人に持たせて合奏出来るというのは「モレナールの一族が調和していること」を表していると考えられます。
 バロック時代の家庭に一番必要だったのは、愛情より、楽しい家庭生活より、個人の幸せより、一族の繁栄とその為に必要な調和とされていたから、モレナールの家庭自慢とも、決意表明とも、願望とも読めるのではないでしょうか。

MolenaerCouplePlayingMusic.jpg fed32a1d.jpeg
左;モレナール<演奏するカップル>、右;モレナール<演奏するカップル>
 リコーダーとテオルボ(アーキリュート)、かたやシターンとテオルボとで合奏する男女は、二人が調和した関係であることを暗示します。足の下にある足元を暖める暖房機にも、「愛を暖める」的な意味があると思われます。この場合の傍らの犬は、忠節を意味するでしょう。

 一方で、一般に楽器というのは「調和」を象徴するだけではありません。画中の楽器は様々に解し得ますが、一つの典型として、「ヴァニタス(虚しさ)」が挙げられます。音は決して現実の物質世界には留まらず、必ず虚無へと消えてゆきます。つまり、楽器の音は儚いものです。ちょうど、人生のように。
molenaervanitas.jpgモレナール<ヴァニタス画を描く画家>
 机の上に種々の楽器と骸骨がてんこ盛り。

 また、直ぐにこの世界から滅する音で成る奏楽の楽しみは、世俗的な一時の快楽にすぎず、そのような快楽を追うことは虚しく愚かしい行為だとも解し得ます。また、例えばリュートなどは丸みのある形が女性的とされ、何か性的な含意をほのめかす場合もあります。
36648217_1148802866.jpgディルク・ファン・バビューレン<取り持ち女>
 ハルスより年下(多分)のバビューレン作。女の子を買おうとする男と仲介役の取り持ち女。娼婦のお姉さんはリュートを弾いています。これは・・・仄めかしてはいないか(笑)
 因みに、お気づきですか、上に挙げたフェルメールの絵にも、まさにこの絵が画中画として描きこまれています。…さて、フェルメールのその意図は。とはいえ、あまり何でもかんでも解釈しようとするのも危険ですが。


 話を戻して。一言でいえば、楽器がしばしば慣用句として「罪深い楽しみ」や「虚しく儚い人生」を象徴します。
 
AllegoryVanity.jpgモレナール<虚栄の寓意>
 豪華で贅沢なものに囲まれて、髪を櫛けずらせながら、満足げに鏡を覗く女性。足元に髑髏を踏みしだいて死を侮っていますが、隣の少年が、あっという間に壊れて消えるシャボン玉を掲げて、結局死は避けられないことを示しています。傍らの猿も、おそらくは女性の行為の愚かしさを示しているのではないかな。
 傍らに楽器としては高価な部類のヴァージナル。壁には様々な楽器。限りある生を儚い楽しみに費やす彼女の罪悪が潜んでいます。


 ここでもう一度、モレナールの愉快な「家族の肖像画」に戻ってみましょう。8ed79d2c.jpeg
 右の方、モレナールの子供?の一人が、貝殻と麦藁ストローのシャボン玉セットを笑顔で持っています。シャボン玉、この世界一移ろいやすく壊れやすいもの、もちろんこれは儚い人生を象徴する否定句です。この時代、生の儚さを表す絵画、一括りにして「ヴァニタス画」と呼ばれますが、これは結構流行りました。まあ、テーマとして暗鬱ではあるけど、とても分かりやすく、多分ちょっと死の香りが格好良い(笑)のもあると思う。(ヴァニタス、虚しさという意味のこの美術用語は覚えておくと便利です。)ヴァニタスについての簡単な解説はこちら。
 …でも、家族の繁栄を描く肖像画で、描いていいのかなぁ。
 楽器を弾くからといって即物的な楽しみに耽っているだけではなく、きちんといつか死ぬということも覚えている真面目で謙虚な家族ですよ、という意味なのかも知れません。楽器の儚さとシャボン玉を持つ子供の背後の壁に、剣と天秤を持つ何だか真面目そうな擬人像も書き込まれています。
 わざと様々な楽器をカタログのように描いたり、ヴァニタスを紛れこませるあたり、自分はこのような絵を描くのが得意だと主張しているようにも思われますけど。

 この家族肖像画のように、モレナールはごちゃごちゃした詰め込み気味の構図を結構好むかと思う。文字情報に還元出来る絵解きの絵に創意を凝らしています。
MolenaerAllegory-of-Marital-Fidelity.jpgモレナール<婚約の寓意>
 様々な含意のある沢山の人物が描かれた凝って気合いの入った絵。人物のポーズに使い回し、もといお気に入りのポーズが見られますが、結婚の記念として注文されたのでしょうか、華やかで祝祭的な雰囲気です。間違ったこと言うと嫌なので、深く掘り下げないけど(笑)おそらくは、全体としては結婚の意義とつつがない結婚生活と一族繁栄の願いが語られているのでしょう。

 でもモレナールの絵の中で気に入った案外気に入っているのが、このシンプルな肖像画。
MolenaerPortraitOfaLady.jpgモレナール<女性の肖像>
 単純にご衣装萌えです。ごっちゃりしないから、女性の立ち姿が際立っています。
 閑話休題。
 
 肖像画家フランス・ハルスの弟子(推定)の実力を発揮して、肖像画もよく描くモレナール。というより、肖像画は画家にとって一番注文を取りやすい種類でした。
 この時代、これも流行したのが、集団肖像画。
 沢山の人を顔が解るように描く必要のある集団肖像画は下手をすると無表情の顔が延々と規則的に並んだりするし、逆に上手すぎると不平等に暗がりに追い込まれてしまう人も出るしで、構図に工夫が必要です。
 フランス・ハルスはその点は真に天才でした。絵画的な欲求とパトロンの意向が過不足なく溶け合っています。
halsGroupPortrait.jpgハルス<聖ハドリアヌス市警備隊の士官たちの晩餐>
 さて、翻ってモレナール。
molenaerfamilyportrait.jpg
モレナール<ある家族の肖像>
 (暫定)師匠のハルスとは違って、小難しく頭脳戦を展開してきます。 画中の人物は、男女ペアを成す5つの塊に分割出来ます。
 まずは小さな幼児の組、やや成長した子供の組、青春真っ盛りな若者の組、すっかり落ち着いた大人の組、髑髏を抱えた老人の組。
 もうお分かりでしょうか、左から段々歳を重ねていく、人生の諸段階が描かれています。
 さらにいやらしいことに、この5組はそれぞれ5つの感覚をも表しています。果物を食べる味覚、猫に引っ掻かれる触覚、花の匂いを嗅ぐ嗅覚、音楽を聞く聴覚、本を読む視覚。
 ところで、このぶら下げられている猫、怪物シリーズに登場する猫と似ていませんか。ひょっとしてまさか…。
 とにかく、一枚に肖像画、人生の寓意、感覚の寓意と三重の意味を掛ける。欲張りに頑張ったと思います。
 幼児の側の猿はまだ不完全な人間を、夫婦の楽器は調和した関係を、傍らの犬は忠節を表していると思います。因みに、インターネットによれば、右端の髑髏はこの人がこの絵が描かれたときは既に鬼籍に入っていることを示しているのだそう。それと同時に留まらない時と避けられない死を連想させます。
 思えば、子供時代も青春時代も留まらず過ぎ去る人生とは儚いものです。

 モレナールがどんな思いで死の表象を繰り返し描いていたのか、その一端が伺えるかも知れない一枚がこれ。
MolenaerSelfPortrait.jpg
モレナール<ヴァニタス画を描く自画像>
 …髑髏を描く手を止め、こちらを振り向いて意味深ににやりと笑うモレナール。
 この笑顔、何となくこの絵と同類の笑みな気がする。
rembrandt.jpg vermeer.jpg
左;レンブラント<放蕩息子としての自画像>、右;フェルメール<ワインを持つ女性>
 お酒を飲みながら女性を膝に乗せ笑うレンブラント、男にセクハラ?(笑)されながら複雑な笑みを浮かべる女性。
 そしてモレナールは。
 モレナールの前にいるのは、おそらく娼婦と客を仲介する取り持ち女。お金を膝に、ヴァニタス画を描くモレナールの腕を引っ張っています。
 この男の、まんざらでもなさそうな顔(笑)ヴァニタス画を売ったお金で女の子と戯れようとでもいうのでしょうか。
 コップに半分入ったお酒を「まだ半分」と考える。いつか死ぬから今を楽しむ。メメント・モリ(死ぬって事を覚えておけ)とは、同時に生きている事も覚えておくことです。……ってそこまでは言ってないな、モレナール。

拍手[3回]

なんせんす・さむしんぐ

なんせんす・さむしんぐ
お越し頂き有難うございます
美術・音楽の話題を中心に 時々イラストを描く当ブログ
お楽しみ頂ければ幸いです。
道に迷われましたら、まずは
「ご案内」にお進み下さい。

忍者ブログ [PR]