忍者ブログ

○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ユベール・ロベールとアルカディアの墓

書きかけロベール展感想 の続きのようなもの。

 さて、順を追って話すことは止めにして(やろうと思って、長くなりすぎるからやめた)、ロベールの装飾パネルの「アルカディアの牧人」からお話しましょう。
 一応、ユベール・ロベール 時間の庭展の感想のごく一部。あくまでも感想。我ながら半端な衒学的な感想ですので、読者様方はもちろん間に受けてはなりません!
 

 この大きなパネルには、自然豊かな風景の中で、一つの墓を見ている羊飼いたちが描かれています。
 その墓には「Et ego pastor in Arcadia」我もまたアルカディアの牧人。と彫られていて、それがこの墓に葬られた人の最期の言葉なのでした。
 墓の前に集まったアルカディアの牧人達は、同胞の死について、互いに何か話し合っている様子です。
 
Robert-LesBergersdArcadie.jpg
ユベール・ロベール<アルカディアの牧人たち>

 何故、アルカディアに葬られた墓の主は、自分はアルカディアに居たのだ、とわざわざ石に刻んだのか。
 これには、このロベールの絵に至る、前提というものがあるのです。本当、ロベールって・・・絵そのもの1枚だけで語りづらい男です。そして、ロベール本人よりもそっちに持っていかれるという・・・。まあ、いいや。とりあえず続けましょう。

 ご存じアルカディアとは、一言で言えば、理想郷です。
 
 暖かな日差しに満ち、緑なすブナが木陰を作り、清らかな泉が尽きず湧き、果樹の花が咲き、実がたわわに成り、自然の恵みだけで快適に暮らせる場所。
 そんな場所をローマの詩人ウェルギリウスが妄想して、そこを彼にとって何か異世界的なファンシーを誘う土地であったギリシアにある地名「アルカディア」と名付けたのでした。
 その世界では、生きる糧は全て穏やかな自然が惜しげもなく与えてくれるので、その住人たちは無私無欲、家畜を殖やし、神々を敬い、歌を歌い、笛を吹き、何の変哲もない清らかな恋をして暮らしています。
 
 視覚化するなら、例えば、あのクロードのような世界。
Claude-Pastral.jpgクロード・ロラン<牧笛を吹く牧人のいる風景>

 ところが、完璧に調和する自然の中にあっても、人間同士というものは調和しにくいもので、平和な田舎でも、遠くの町へ恋人が出て行ってしまったり、恋があれば失恋があり、歌には美少年ダフニスの死と彼の思い出を主題にしたり。そして牧人たちには、物語に直接は出てこないけれど、土地の支配者がいて、生活基盤たる土地を奪われたりと、何処となく翳りのあるのが、アルカディアなのでした。
 
 ウェルギリウスの「牧歌」は全部で10篇あります。
 第1歌で田園追放に始まり、第10歌では、恋に破れて死ぬほどに苦しむ男に「(幸せな空想の美しき)森よ、もう消えてくれ、何ものも彼女を失った自分を楽しませはしないのだから」と言わせ、10歌の最後の最後には、ウェルギリウス自身も「もう黄昏時。さあ、帰ろう。」と読者を現実に帰るよう促してしまう。そして戻ってこない、もう二度と。…なんてね(笑)

 後世、絵画の世界でその翳りの部分を強調して描いたのがグエルチーノ。(時代がとんでもなく飛んだな…)
Guercino-Et-in-Arcadia-Ego.jpgグエルチーノ<Et in Arcadia Ego.(アルカディアにも我あり)>
 ここでははっきりと、アルカディアを薄ぼんやりと覆っていた悲劇が描き出されています。
 目立つ髑髏の乗る石の台には「Et in Arcadia Ego.」と刻まれていて、これは蠅がとまり、鼠に齧られている骸骨の台詞。
 直訳すれば、「アルカディアにも私」。
 Etは英語で言うand、in Arcadiaはそのままアルカディアの中に、Egoが「私」という一人称で、動詞が省略されている。補うべき言葉は、英語でいう「be動詞」ってやつが自然でしょう。
 ともかく美しく楽園のようなアルカディアだって、私みたいな骸骨=死がいる。その暗欝なメッセージに、牧杖をつく気ままに暮らすアルカディアの牧人が驚いて足を止めています。
 これは、ウェルギリウスのアルカディアを元ネタにした「死ぬってことを忘れるな(メメント・モリ)」の警告です。

 さて、それからさらに、グエルチーノを下敷きに、歴史画家として活躍したニコラ・プーサンが同じテーマを描いて見せました。
3ded9021.jpegプーサン<アルカディアの牧人たち>
 プーサンは他にもう1枚アルカディアの牧人たちを描いているけど、それは割愛。
 
 ここでも石の棺にはEt in Arcadia Ego.と刻んである。しかし、ここでプーサンは、あまりにもはっきり自己主張する骸骨を無くし、グエルチーノにあった劇的な(やや通俗的な)感傷性を排して、あからさまな警告を抑え、よりスタイリッシュ☆(多分)にしてみせました。
 するとどうでしょう、ただでさえ動詞が省略されて余白を生んでいた我らが決まり文句が、意味が曖昧になって分かりにくくなってしまいました。
  グエルチーノでegoだった髑髏はいなくなってしまった。動詞がないから正確な意味もわからない。

 そうして18世紀。
 もちろん、誤訳します。それも多分確信犯的に。
 この「アルカディアにも我」の語の魅力の一つに、どの国の言葉に訳しても文法がおおむね平易であって、初級者でも分かりやすいところにあります。そういうもの程、実は間違えやすかったりする。
 in Arcadiaに掛かっていたetを、Egoに掛けてしまいました。いつしか、egoは墓の主という解釈になり、この銘文は彼の台詞だと思うようになった。それだと文法的に困るらしいので、元の文章の語順を変えてet ego in Arcadia.が出来ました。

 Et ego in Arcadia. 我もまたアルカディアに

 けだし名誤訳!
 私は墓の前の君たち同様、アルカディアという美しい世界に生きていた、その幸福の中で幸福なまま死んだ、という前向きなんだか後ろ向きなんだか分からない意味にとられるようになりました。
 そして、墓の主が「私も」と対比させているアルカディア人は、画中の牧人たちだけでなく、絵を見ている現実の我々まで及んでいます。
 
 …というのが、アルカディアの墓を巡る甘美な憂鬱。――何て幸せな考え!(笑)
 私もまたアルカディアの墓に片足を突っ込んで生きたいものだ。
 
 さて、ロベールの銘文は「Et ego pastor in Arcadia.」。私もまたアルカディアの牧人(であった)。
 pastor(牧人)という語が追加されて、ego=pastorとより意味がはっきりするようになっている。ロベールよ、お前もか(笑)

 およそ牧人という田舎にしか棲息しない人種は、都会のしがらみに汚されていなくて、無垢で純朴で欲望することを知らず、物質的には貧しくとも、自足し心豊かに満ち足りている人たちと決まっています。
 
 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
 
 当時熱心に読まれたルソーの「エミール」の冒頭文。(岩波文庫、1962年 今野一雄訳)
 実際、当時の都会パリは惨憺たるもので、以下はルソーより一世代後の記録によるけど、始終薪で燃やした黒い煙が煙突から吐き出され、下水も公衆トイレもなく、井戸に汚水が混入し、川の水を飲み、埋め立て地も焼却場もない、交通マナーも酷い、取り敢えず有用な法整備が追い付いておらず、しかし歓楽は無限にあり、娼婦も因りどり、しかし捨て子は多く、金さえあれば最新のお洒落が楽しめ…とまあ、空気と環境の悪さは現代の東京の比ではない様子です。(もっとも、上記のような記録を残したメルシエ氏も、そもそも都会は駄目で田舎は美しいという価値観で書いたようだけど)
 つまりは、都会と田園のコントラストは非常に鋭かったようだ。

 自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。(同著p.31.L8)
 都市は堕落の淵だ。…よみがえりをもたらすのはいつも田舎だ。(p.66.L7)


 この本の中ではこの趣旨の文章がごろごろしていて、全て抜き書くときりがない。
 人間の幸せは人間であることであって、身分や貧富は関係ない。人間の手だらけの都会はとにかく悪いので、人の手の加わらない自然の中で暮らす牧人は汚れなく素敵だ。
 文化的な暮らしの一方で非生産的な社交にあくせくしている(かもしれなかった)人のどこか邸宅を飾るべく描かれたロベールの大きな装飾パネルは、素敵な場所で快適に暮らしたいという「人間的な」欲求を慰めたものでしょう。

 で、ここまで思うさま不健康な都会を彷徨ってみてあれだけど、ロベールのインテリア用アルカディアの墓には、こうした大層な主張は前面に出てはいない。もちろん、死を思えという教訓も。
 登場人物はプーサンと同じだけど、プーサンに比べると一目瞭然、墓と牧人たちは風景に対して小さく描かれ、「我もまたアルカディアに」のメッセージは音量を落とす。
 大きなパネルの前で視線は昼なお暗い豊かな森を抜け、流れる川を溯り、奥へ奥へと、滝と崖の上の円形神殿へと向かいます。
 この崖の上の円形神殿、ローマ近郊の野趣溢れる景勝地ティボリにあるという崖の上のウェスタ神殿がモデル。このロベール展でも何度も出てきて、ひっぱりだこです。姿もよく特徴的で分かりやすい。そもそもティボリという所は18世紀絵(主にピラネージ)を見ると本当に美しく、特にハドリアヌス帝の別荘とか、ヴィラ・デステとか本当やばい!といちいちご紹介したいところですが、話がそれるので、断腸の思いで割愛。もしやるなら別項立てます。

とりあえず、あれ、グーグルの画像検索に繋いでおくので、ご興味のかたはぜひ。
Robert-Ruines1.jpg
 アルカディアを妄想していたウェルギリウスのいたローマ=イタリアの風景はいつしかアルカディアそのものと結び付けられて行った。ローマ帝国の崩壊後、首都ローマはどんどん人口を減らし、ついには壮麗な建築物を維持できないまでになった。あるいは、別の建築の石材として切り出され、繰り返すテヴェレ川の氾濫でフォロ・ロマーノは埋まり、近世には牛の放牧場となる。本物の牧人たちが、草木の生い茂るままになっている美しいローマの廃墟の間で牛を飼っていたのだとか。
 常に新しく不変の自然と、破壊にさらされる栄華の残骸とそれでもなお残る壮麗さ、偉大さは、多くの称賛者を生み、ロベールも心の底からその中の一人でした。

 確かに田園は一般に広く流行ったようですが、鄙びたイタリア風景と古代とローマの廃墟が好きなロベールの場合は、その流行の命ずるままに描けばよかったのだと思う。
Robert-VaseBorghese.jpgロベール<ボルゲーゼの壺>
 イタリアと廃墟愛の表明たるロベールのあの素晴らしい素描! 赤チョークの、紙の上を飛ぶように滑る大きな筆致。鑑賞者はその筆の跡をありありと目でなぞることが出来る、そのライヴ感! まるで地べたに座り込んで廃墟を描いている画家の背後から完成していく絵を覗きこめるかに思える、ライヴ感。そして画面には、目に映るものへの讃美と、それを見る愉悦と、一種麻薬的な高揚感が描き出されている。ってちょっと大袈裟に言い過ぎたかな(笑)
 
 丁寧に清書されたパネル画には、その生々しさが欠けて残念なんだけど(笑)私のロベールの好きなところの一つは、深読みを許すテーマを選ぶ割に、実は絵そのものには思想がないところ。ただ、楽しいものを楽しいと言い、好きなものを好きという、世界の一角に対する感想が表明されているだけで、それ故に絵画は軽々としている。

 やはりユベール・ロベールという人はお茶目な人で、そして「Et ego pasrtor in Arcadia.」の墓碑にはちゃっかり彼のサインと年記も書いてある(笑)
 ちなみに、年記は1789年。フランス革命の年である。
 ロベールは彼の絵画の中で、牧人として死に、自分の墓をアルカディアに建てたのでした。
 
 ウェルギリウスが詩に書いていたように、牧歌的な主題が好まれるのはこの時代に始まったものではないけど、何だか社会派的にきな臭くなっていくのが十八世紀後半。田園愛は翻って、富める者の度を超した贅沢や専制と圧政への憎しみとなり、やがてはそれらを倒そうという動きとなる。
 さて、十九世紀になって、ウェルギリウスの夢を追い、ロベールらが嬉々として人生を賭けて描いたイタリアの廃墟は、科学的学術的な発掘によって、考古学の発展と引き換えに、廃墟ではなく史跡に姿を変えました。もはや土砂から完全に掘り出され、草木は取り払われ、ロベールの見たローマの廃墟は存在しません。
 私はそれを恨みはしないけれども、惜しむものであります。

拍手[2回]

PR

なんせんす・さむしんぐ

なんせんす・さむしんぐ
お越し頂き有難うございます
美術・音楽の話題を中心に 時々イラストを描く当ブログ
お楽しみ頂ければ幸いです。
道に迷われましたら、まずは
「ご案内」にお進み下さい。

忍者ブログ [PR]