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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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黄金伝説展とシスレー展 感想

●西洋美術館の黄金伝説展

 古代西洋世界の金製品を堪能出来る展示でした。
 個々の展示品はどれも素敵で、純金や宝石、貴石の輝きも純粋に贅沢で、またデザインを楽しみ、繊細で高い技術力とに驚嘆し、面白かったです。

 展示されているのは、金の宝飾品や工芸品だけはありませんでした。

 ギリシャの風俗を窺い知れる絵付けのされた壺とか、黄金にまつわるギリシア神話と、ギリシア神話主題のモローやルノワールやクリムトなどの絵画が差し挟まれたりとか、大量の金の副葬品とともに埋葬された発掘現場の再現とか。

 正直にいえば、ギリシャもローマもエトルリア(ローマの先住民)もトラキア(現在のブルガリアの辺り)も、たぶん何世紀もの隔たりがあるのだけれど、どれも全部「ざっくり古代」という時間間隔から抜け出せず・・・、なんかこう、時代によるデザインの遷移とか、場所による様式の違いとか、そういうことは、はっきりとは判りませんでした。もっと注意深く分析していけば、分かるのだろうけど。…たぶん、そういう趣旨の展示ではなかった。 

 本当に「古代遺跡から発掘されたモノ」に焦点を絞った展示で、当初、少し期待していたような「金と人の文化史」みたいな壮大なテーマではなかった。

●練馬区立美術館のシスレー展
シスレー≪陽光のあたるモレの橋≫
これは展覧会とは関係ないけど。シスレーいいよねぇ(*´`*)

 冒頭思ったのは、学芸員さんアツい。

 例に漏れず、最初にシスレーとはどんな画家か、今展示の意義とかが書いてあるのだけれど、それが、長い。
 目の高さから足元まで書いてある(笑)最後はしゃがんで読む勢い。

 シスレーは無条件に大好きな画家です。シスレーのこと詳しく知らなくても、これといった素敵エピソード知らなくても、絵で好き。
 もっとも印象派らしいと言われたのだっけ。
 絵らしい絵というか、普通の風景の前にイーゼル立てて普通にそのまま描いただけっぽくみえて、一部の隙もない絵になってるのが好き。それもわざとらしさの欠片もなく。


シスレー≪ルーヴシエンヌの風景≫


 面白かったのは、ときおりシスレーの絵の横に参考資料として、当時の風景写真や写真の印刷された絵葉書が掲げられていたこと。

 本当に写真の構図や雰囲気、細かいモチーフがどれもシスレーそっくり!

 誰か知らないけど、それっぽい写真よく探したよね。
 なんの説明もなかったけど、お互い影響関係があるのでしょうか。
 私にとっては、どれも「異国の美しい風景」だけれど、当時のフランス人にとっては、もっとリアルに「あーあそこねーこんな感じだよね!」みたいな絵だったりするのかな。

 そして、一番アツい感じだったのが、「河川工学」から考えるシスレー。
 初めて聞いた日本語だ。
 ちょうどシスレーの時代少し前から、セーヌ川の治水技術が上がり、安定した穏やかな流れになった。これにより、セーヌ河畔の風景が変わったのだそう。
 それまでは、いわゆる気まぐれな暴れ川で、親しみのわくような川ではなかったらしい。
 シスレーが沢山描いたセーヌ河畔が、穏やかで美しい風景として描かれるようになったのも、こうしたテクノロジーの賜物なのですって。

 こういう絵の見方もあるのだなぁ。
 こんな風に考えられるなんて、思いもよらなかった。

 シスレーの時代の(多分)スクウェアピアノが置かれていました。
 一応、鍵盤楽器ということで、写真には撮ってみたけど。

 けど。この展示の仕方……大人の事情なんだろうけど……うーん。人に見せる気ないな。

 鍵盤楽器のアイデンティティの殆どを蓋で覆い隠すことによって、大きくて高すぎる机みたいにして、鍵盤楽器としての意味を揺らがせる現代アートみたいなことになってる……。
 鑑賞者は、隠された鍵盤楽器の鍵盤と内部の機構を想起することによってのみ、この鍵盤楽器を観念の上で視ることが出来る。
 あるいは、鍵盤楽器の鍵盤と内部の機構を隠すことによって、普段は足元で目立たないペダルの存在を強調しているのかも。

 嘘です。   

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1、クープランの<シテール島の鐘>をヴァトーの<シテール島の巡礼>で考える。

名画で読み解くクープラン。なんて言えれば格好いいのですが、これもただいつもの習慣通り、自分の空想の断片を好き勝手に積み重ねたものであります。

 ただ純粋に、あーーーシテール島素敵だわ~という乙女心の所業です。ではありますが、ご興味の方はお聞きくださいますとうれしく思います。

 長くなったので目次。
1、クープランの第14組曲<シテール島の鐘>への違和感。
2、そもそもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。
3、続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。
4、クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。
※ 、カリヨンって何?2人は仲良し?ヴァトーの唯一の?チェンバロ絵が大好きだ、など。

 はい、そうです。シテール島といえば、ヴァトー。
 ヴァトーを手掛かりにクープランを読みといてみたいという、ありがちな(笑)誘惑に勝てませんでした。
 また、ところどころの※印は蛇足でして、注…ではないけど、ちっとも話が進まなくなるために本文には入れられなかった脱線です。真面目に読むと確実に本文を見失うので、読んでも読まなくてもご随意にどうぞ。

 はて、能書きはこれくらいにして。

 クープランの名曲「Le Carillon de Cythère シテール島の鐘」。

 愛の女神ヴィーナスの島、シテール島へ巡礼にやってきた恋人たちの為に高らかに鳴らされる祝福の鐘。
 (※0)
 と何かのCD付属の解説書にはあった。他に解釈があるかどうかは知りません。
 今回は、まず前提としてこの解釈から始まります。

 ちょっと甘いかな? でも良い曲だよねぇ。

 ですが、私はそのタイトルにほんのりした違和感を持っていました。

 なぜって、カリヨン=メロディを奏でる鐘は、イメージ的にキリスト教の教会に設置されるものと思われたのです。(※1)

 なぜキリスト教世界の鐘が、異教の愛の女神の信徒たちを祝福して鳴るのだろうか?

 むしろ、清廉潔白が大好きなキリスト教と、愛欲の女神ウェヌスの相性がいいとは思えないのです。

 しかも時はロココ。
 クレヴィヨン・フィスの不倫小説とか、ラクロの危険な関係とか、実の無い恋愛で、まるで賭け事に興じるように、人の心を弄んで楽しむなんてテーマの作品を生み出した時代。
 人工的な美しい田園風景の中で、男女の戯れ合う雅宴画の時代。
 紋切り型に言えば、道徳フリーダムで、風俗紊乱で軽佻浮薄で、恋愛遊戯だの不倫上等だの、そういう野放図に浮気なヴィーナスの大活躍した時代。

 そんな愛の女神のお膝元シテールで雅宴画よろしくいちゃつく恋人たちはキリストの気に入るものだろうか。

 とはいえ、曲を聴けば、高らかな鐘の音が島じゅうあちこちに反響して、穏やかで幸福感に満ちた、どこか高揚感もあって、甘やかで軽やかで、背徳感なんて全くない、愛の喜びに満ちた胸きゅん曲。
 標語は「Agréablement, sans lenteur」
 心地よく、とか快適にとかそんな意味。で、遅くなく。悦楽境の風情です。

 そんな頭でっかちな違和感を抱くことさえ申し訳ない。。。

 そういう訳で、私は自分の見当違いな違和感と折り合いを付けるために、逆算して考えたのです。
 つまり、このシテールの島で繰り広げられる愛は、言ってしまえば聖なる愛なんだ。
 遊びなんかではなく、ましてや体目的でもなく、もちろん姦通ではなく、キリスト教も認めるような真っ当な真実の愛。
 世間的には認められない愛を女神に頼って成就させるため、巡礼と称して逃避行している訳ではない。

 そうじゃないと、教会が恋人たちを祝福するはずないもの。

 古くからヴィーナスには、天上のヴィーナスと地上のヴィーナスがいるとされています。

ティツィアーノ<天上の愛と地上の愛>
 で、この天上の愛は、キリストの父なる神様のいるイデアの領域に属する全き愛であって、地上の世俗的な、つまり一般人の知覚出来るごく一般的な愛を通して、人は至上の愛に至るという。この愛の力は人間が神と合一出来る原動力なんだとか。(って感じのことをエドガー・ウィントが言ってた気がするけど、こういう意味で言ってたか自信ない!(笑))

 シテール島のウェヌス神殿が、ただのウェヌスではなく天上のウェヌスに捧げられたものだとすれば、禁欲的なキリスト様だって文句言わないでしょ・・・。

 と、ネオプラトニズムがうんぬんかんぬんなんていえば、結構エッセイとして格好つく気はするのですが、ロココ調のクープランで、そういうルネサンス話に持っていくのも過剰解釈な気もしないでもないし、私本人もよく分からないし(この理由が大きい)。

 ま、異教とキリスト教の世界観が無理なく融合してるのに、新プラトン主義の影響を指摘出来るんじゃね?(←投げやり)


 それはともかく。

 絵画の世界で、このこじつけを援護してくれる論が存在しました。

 ヴァトー《シテール島への船出》情熱と理性の和解 三元社 著:ユッタ・ヘルト 訳:中村俊春

 ほぼ同時代の、同じシテール島がモチーフの作品です。(※2)

 ユッタ・ヘルトの解釈によると。
 ざっくりいうと、この絵に表わされているのは、「幸福な結婚」であるという。

 愛し合う二人が揃ってウェヌスを詣でることで、気まぐれな恋が終わり、調和のとれた愛によって結ばれる理想的な婚姻関係に至る、と。

 シテール島へ巡礼に行くこと=社会的に認められる結婚なら、キリスト教会がカリヨン鳴らしても問題ないよね!

 いいのかな、こんな私に都合のいい本が出版されて(笑)
 もちろん、これは1人の研究者の解釈であり、この論が確実に正しいとは言えないし、全ての研究者の賛同を得ている訳でもない。
 私には、この解釈の確実性や妥当性やを判断することは出来ませんが、素人としては、ほーなるほどなーと素直に感心しているものです。


 ということで、ヴァトーの絵の解釈とは。
 以下、都合のいいところをピックアップし、今回にこじつけます(笑)

次のページ>そもそもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。

-------目次-------
1、クープランの第14組曲<シテール島の鐘>への違和感。
2、そもそもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。
3、続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。
4、クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。
※ 、カリヨンって何?2人は仲良し?ヴァトーの唯一の?チェンバロ絵が大好きだ、など。

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2、そもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。

前のページからの続き。

 では、改めて我々の行き先、シテール島についてもう少し詳しいご説明をば。
 フランス語でシテール、古代ギリシア語ではキュテラ。
 愛と美の女神ウェヌス=ヴィーナスが海から生まれて流れ着いた島です。
 ヴィーナスはときに「キュテレイア(キュテラの女神)」と呼ばれますが、つまりキュテラ島はウェヌスの土地なのです。
 愛の女神の島なので、恋人たちの聖地とみなされ、シテール島へ行けば恋が成就すると言われます。

 これがシテール島への愛の巡礼。
 巡礼とは即ち、魂の救済を目的に、聖地へ旅立つこと。
 つまり愛が魂を救済するのね! (っていうとロマン主義くさい(笑))

 とはいえ、当時、恋愛結婚は滅多にありませんでした。

 貴族はもちろんのこと、一般市民でも、お互いの家の利益が優先されました。
 よく戯画にされるのが、貴族の地位が欲しい裕福な商人の家と、お金が欲しい貧乏な貴族の家の婚姻とか。
 後継ぎが出来ればそれで夫婦の義務は果たされ、そいういう訳で、真実の愛を求めて(?)不倫に走る、と。
 ですが、もちろん建前としては不倫は道徳上よろしくないこと。夫婦が相思相愛でお互いを愛情と友情と尊敬の内に支えあって、というのが理想の家族。

 理想は理想で、あくまでも理想。

 その一方で、反動のように、穢れない無垢な世界に絶大な憧れを寄せた時代でもありました。それを体現するとされたのが、羊飼いであったり、農民であったり、子供たちであったり。
 農民や羊飼いなど素朴な人たちは、自由な恋愛を楽しみ、愛するから結婚をする、結婚と愛が直接に結びついている人種とされていたのでした。
 
フランソワ・ブーシェ〈音楽のレッスン〉

 そして、羊飼いや農民のいる田園というのは、伝統的な牧歌の世界、つまり、異教の理想郷アルカディア、キリスト教ではクリスマスの羊飼いの礼拝の世界であり、無垢であるが故に罪がなく、虚飾で人間性を押圧する必要のない自由な世界です。
 文明社会あるいは社交界の中にあっては、その維持の為に、人間の自己は抑制されなければならない。その抑制から開放されるのが、自然に抱かれつつ人間が暮らす場所、田園です。
 (もっとワイルドな人跡未踏の自然だと命の危険があるので、田園や庭園といった人手の加わった場所が快適でちょうどいい。ロクス・アモエヌス(素敵な場所)ってやつです。参考:18世紀後半のアルカディアについて

 そうした田園的な世界観と、愛の女神の島というアイデアがいつの間にかミックス。
 夢のような、というよりほとんど夢の中にしかない理想の愛の世界がシテール島となりました。

 シテール島の愛は、現代人が思う以上に、当時の人にとって夢と現実の間のコントラストが大きかったんじゃないかなぁ、と妄想します。


 さて、そんな愛の島をヴァトーはどう描いたか。

 豊かに緑なす木々の中には何組かの男女。空には乱舞するキューピッド。丘の向こうには船が留まっている。その船の向こうは、薄靄に煙る雄大な景色。
 茂みの中で語らう男女、木の下から立ち上がろうとする男女、立ち上がり船へ向かう男女、船に乗り込もうとする男女…。
 いったいここは何処なのか、これからどこへ行こうとしているのか、今まで何をしていて、今何をしていて、これから何をするのか。

 このヴァトーのシテール島は、描かれた当初から人々の想像力を掻き立て、さまざまに解釈されてきました。
 この時代、画家本人が題名を付けるという習慣はなく、それなのに主題が曖昧で、この絵のタイトルを巡っては、同時代の人々さえちょっと困っていた様子がうかがわれます。

 権威ある王立絵画彫刻アカデミーに入会するために、何度も提出期限をぶっちぎった末、1717年にようやく描かれたルーヴル版「シテール島」。
 初めは、アカデミーの議事録で「Le pelerinage à l'isle de Citere(シテール島の巡礼)」というタイトルが付けられました。
 その後、そのタイトルは打ち消し線で消され、よりニュートラルな「une feste galante(雅なる宴)」に修正されました。
 その後も、「L'embarquement pour Cythère(シテール島への船出)」と呼ばれたり再び「シテール島の巡礼」と書かれたり、現在では……結局どんなタイトルになってるんだ?

 シテール島を所蔵するルーヴル美術館のホームページを見てみました。
仏語→Pélerinage à l'île de Cythère
英語→Pilgrimage to Cythera
日本語→シテール島の巡礼
 だそうです。

 そしてもう一枚、自筆コピーの「シテール島」も存在し、ヴァトーの友人ジュリエンヌが注文したと推定され、その後フリードリヒ2世が買い、現在はベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の所蔵となっています。

 このベルリン版も、ほとんど同じ構図ではあるものの、船の形や、ヴィーナス像、人物の配置など、細部の大事なところがいろいろと変更されて、主題曖昧問題をより複雑にしています。

 版画化され、一般の人が複写を見る機会の多かったのは、こちらのベルリンのシテールで、その版画のタイトルは、「L'embarquement pour Cythère(シテール島への船出)」だそう。このおかげで、最近までは「シテール島の船出」が優勢だったみたい。

 もしかしたらヴァトーは、わざと曖昧にして空想の余地を残した、あるいはヴァトーさえ、そこまで明確なエピソードに基づく主題を考えていなかったのかも知れませんが、解釈を巡っては現在まで、
 ・一般的なタイトル通り、シテール島へ巡礼するために船に乗り込む場面だ。
 ・いやいや乗り込む前にカップルが誕生しているのだから、ここは既にシテール島でこれから船に乗って現実世界へ帰る場面だ(だからこの絵は儚い夢の終わりを描いているのだ)。←多分、現在一番人気。かな?
 ・いいや、2枚ある一方はこれからシテールに行く船で、もう一方が帰る船だ。
 ・つーか、シテールとかシテールじゃないとか、どうでもいいし。恋愛っぽい雰囲気を暗示してるだけさ。
 とか、侃々諤々。

 決定的な結論は、いまだ出ていないけれど、こういう研究史も含めてシテール島は面白い。

 より詳細な来歴や研究史や解釈史などが気になる方は、インターネットで手軽に参照できるこちら纏まってるのでご参照ください。
ヴァトー『シテール島の巡礼』(ルーヴル美術館)再考 著:大野 芳材

 ヴァトーの心、ひいては同時代の人たちのシテールへの考えを読み解く鍵は、文学にあるかもしれません。


次のページ>続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。

-------目次-------
1、クープランの第14組曲<シテール島の鐘>への違和感。
2、そもそもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。
3、続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。
4、クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。
※ 、カリヨンって何?2人は仲良し?ヴァトーの唯一の?チェンバロ絵が大好きだ、など。

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3、続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。

前のページのからの続き。

 シテール島は文学の世界に登場します。

 実物は読んだことがないのですが、ルネサンスの小説「ポリフィロの夢(ヒュプネロトマキア・ポリフィリ)」で愛の女神の島として登場したシテール島。
 このポリフィロの話は、夢の中で様々な幻想的で象徴的な冒険を経て至高の恋人と結ばれる、という内容らしく、16世紀にイタリアで美しい挿絵付きで出版され人気を得たあと、フランス語にも翻訳され、よく読まれたのだそうです。

 ポリフィロと恋人ポリアは、彼らの結婚を祝した凱旋行列を見た後で、クピドの操る船に乗ってシテール島へ渡ります。シテールは、円形の島で、島の中央は円形の庭園となっていて、さらにその真ん中にウェヌスの神殿がある、と具体的に描写されているそうです。
 そのシテール島のウェヌス女神の神殿で主人公と恋人は、「愛の合一」のための儀式を行うの由。

 これに従えば、シテール島へは、新しい恋人を求めて縁結びのために行くのではなく、すでにカップルとなった恋人同士が一つになるために行くと言える。

 とはいえ、このルネサンス時代の難解な産物が直接に18世紀初頭のヴァトーやクープランにインスピレーションを与えたとは考えられませんが、18世紀までのシテール島のイメージに影響はしてくると思われます。

 一応、ヴァトーは、1710年ごろに描いたシテール島では、島を庭園として描いています。

<シテール島への船出>

 キュービッドの漕ぐ小舟に乗って、やはりキュービッドが呼んでいる対岸の庭園に渡ろうとする恋人たち。
 他にも、〈シテール島の庭園〉っていうヴァトー下絵の版画も残っているよ。

 もっと近いところの元ねたは、1700年初演のダンクールの喜劇「3人の従姉妹」だと言われています。
 これも読んだことがないのですが(--;、
 とりあえず、フランス17世紀演劇事典という本にあらすじだけは載ってたから、参照してみると。

 粉屋の未亡人は、村の代官に自分の再婚計画をしゃべります。いわく、目下お気に入りの3人の男に目星を付けているところだという。一方で自分の2人の娘には、持参金を持たせるのが嫌なので、結婚させない心づもり。
 ところが、実はお目当ての男たちは、未亡人の2人の娘とその従妹と結婚したいと思って、そのために未亡人に取り入っているだけでした。

 で、3人の従姉妹は、色々あってそれぞれ未亡人の再婚候補の3人の男と相思相愛になります。
 当然、未亡人は娘たちとその従姉妹の結婚には反対。
 そこで、恋人たちは、村で「シテール島への巡礼団」を結成しようと思い立ちます。恋人同士で巡礼にいけば、親も認めて結婚させてくれるだろうからと。
 自分たちの娘と村の若者たちが巡礼に旅立ってしまっては大変。

 と、なんだかんだやってるうちに村の代官が出てきて、代官権限?か何かで(?)、粉屋の未亡人に、娘たちの持参金を払わないでも済むだろう、と言って、未亡人に娘たちの結婚を認めさせたのでした。

 そして、3人の再婚候補の男が自分の娘たちとくっついてしまって、フリーとなった粉屋の未亡人に村の代官が、「代官夫人にならないか」とプロポーズ!
 めでたし。

 その間、幕間劇とかで、田園生活の魅力と愛の力を歌い踊り、最後はシテール島への巡礼者たちの歌と踊りで締め。

 なんでも終幕の巡礼者たちの歌で、以下のような一説があるそうで。

Venez à l’île de Cythère
En pèlerinage avec nous
Jeune fille n’en revient guère
Ou sans amant ou sans époux.
 
 シテール島へ来て下さい
巡礼の旅へ私達と一緒に
若い娘はきっと戻らない
恋人や結婚相手なしには

……みたいな意味かなっ。(また適当なこと言って…)
 
 この歌を根拠にすると、ヴァトーのシテールで既にカップルが出来てる→ここはシテール島→つまりシテール島「から」船出するところ。というのがシテール島帰還説です。
 
 というか、劇の筋は「巡礼に出なくってもみんな結婚して幸せ!」ってオチだったのに、最後の歌で「みんなでシテール島へ来てね!」ってなんだよ、どういうことだよ。劇と歌は直接の関係ないの? 劇中のカップルみたく結婚するために現実の観客もシテール行こうってことなの? あらすじと断片的な引用だけじゃよく分からーん。

 ……うん、詳細よくわからん。
 ともあれ、当時この劇は大ヒットし、1700年の初演からフランス革命の間までで300回以上上演されたということです。

 一応、このあらすじによれば、すでに両想いになっている恋人が、親に結婚を認めて貰うために、シテール巡礼計画を立てています。

 ポリフィロは夢という超現実の中の出来事で、3人の従姉妹は長閑な村の出来事という違いはありますが、一応、「恋人が一緒になるためにシテールへ行く」という同じ展開と言っていいのかな。
 しかも、18世紀の恋人たちは、親の反対には真っ向から抗おうとはしていない。周囲に反対されても愛を貫くというロマンチックなものではなく、まずは親に認可されることを考えています。(※3)

 つまり、シテールへ旅立つのは、結婚を正式に認めてもらうためだということのようです。
 読 ん で な い け ど ね。


 クープランのシテール島=ただいちゃついてるだけじゃなくてキリストもにっこり調和の取れたパーフェクトラヴ説を一応は説明してくれて…る…といいな。

 だから個人的には、まあ好みもあるけど、18世紀から言われてる通り、ヴァトーの絵は、シテールへ船出する場面だと思いたい。個人的には。
 だって、版画のタイトル付けたジュリエンヌだって、「シテール島への船出」のが当時の一般人に売れると思った訳でしょ。シテール出発説のが、18世紀当時だったら多数派と思われる。シテール島からの帰還夢の終わり説は、確かに共感もするけど、ちょっとロマンチック過ぎじゃないかなぁ。あんまり18世紀っぽくない解釈に感じる。個人的には。まあ、主観的にそうあってほしいという願望(笑)



 ちなみに、当時の現実世界のシテール島は。

 ヴェネチア共和国の所領となっていたようです。
 なんだ、シテール島ってヴェネチアなのか。イタリアじゃん。何だか結構行けそうな気がする…!

 で、ルーヴルにあるシテール島の船の漕ぎ手は長い棹を持っています。

 あっ、ヴェネチアだからゴンドラ? その小舟でギリシャの島に行くの? 途中で沈んじゃうよ!

 この野暮に対する答えも既に先行研究の中で考察されています。

 ヴァトーは当初、恋人たちの島「シテール」を、それほど遠い土地だとは想定していなかったのだ、と。
 たとえば、当時の人たちはパリ近郊のサン・クルー島へデートに行くことを言い換えて「シテールへ行く」と言ったそうです。いわば、夢の国に行って来ると表現して、千葉の舞浜へ行くようなものでしょうか。

 巨大な水柱が立つ噴水が特徴的な、サン・クルーの庭園は、パリから船便も出ていて、人気の行楽地でありました。

フラゴナール〈サン・クルーの祭り〉

 つまり、そう考えると、ゴンドラに乗って行ける程度の近場、ファンタジーの中でも現実に近いところで、愛の舞台は繰り広げられる。

 これぞヴァトー節、夢と現実のあわい、神話と現在がない交ぜとなって、どちらとも分からなくなった世界観が広がっているのです。

 この解釈はすごい好きだなー。

 ルーヴルのシテールの後に描かれたベルリン版では、注文主(推定)ジュリエンヌからゴンドラでギリシャに行けるかという突っ込みが入ったのかどうか、船は帆船に変わります。
 ベルリン版部分
 このゴンドラから帆船への大きな変更は、最初のシテールより遠くの島が行先に変わった、と解釈できるみたい。よりギリシャへの船旅としてリアルになったというか、逆に場所が遠国になってファンタジックになったというか。

 これは、結構説得力がある気がする。


 因みに、クープランのシテール島の鐘を含む第14組曲は、鳥たちの姿が多く描かれています。
 次は余談のような関連事項のような。

次のページ>クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。

-------目次-------
1、クープランの第14組曲<シテール島の鐘>への違和感。
2、そもそもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。
3、続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。
4、クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。
※ 、カリヨンって何?2人は仲良し?ヴァトーの唯一の?チェンバロ絵が大好きだ、など。

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4、クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。

前のページからの続き。

 このシテール島の鐘を含むクープランの第14組曲は、鳥たちの姿が多く描かれています。

   第 14組曲には以下の曲があります。恋する夜鳴きうぐいす(ナイチンゲール)、夜鳴きうぐいすのドゥーブル、おびえる紅ひわ、嘆くむしくいたち、勝ち誇る夜鳴きうぐいす、7月、シテール島の鐘、ささいなこと。

 鳥というのは、恋のメタファーとしてよく登場します。
 ヴァトー〈雀の巣を持つ男〉
 宝石とか貴金属とか、物質的な豊かさは持っていない羊飼い達の、素朴で典型的な恋人への贈り物が、鳥と鳥の巣。あとはりんごとかね。
 春に番を求めて囀ずる鳥たちは、まさに恋の象徴に相応しい。


フラゴナール〈幸せな恋人〉
 これはヴァトーの1世代後のブーシェを模倣した絵です。恋人同士の羊飼いの少年と少女。一方は鳥かごを掲げ、もう一方は鳥を持っています。

 …女性のスカートを膨らませる道具を「パニエ」って呼びますが、それの原義は「かご」。
 つまり、パニエの中に鳥が入るっていうのは、恋の成就を意味すると解せます。逆に鳥が死んでしまったりすると破局。
 

ジャン・バティスト・グルーズ〈小鳥の死を嘆く少女〉

 パニエが一般に流行しだしたのは、どうやらヴァトー晩年のことのようで、鳥と鳥かごは特に18世紀後半で好んで描かれました。伝統的な鳥のイメージに新しい風俗を乗っけて、最初に考えた人、上手いこと考えるなあ。
 クープランが鳥の曲を書いたときは、パニエはもう広まっていたのかな? ぎりぎりかしら。

 クープランの鳥の曲、聞けば小鳥たちの姿が結構写実的に描かれているなーと感じます。それにどの程度まで恋愛の象徴を読むかは、たぶん趣味の問題ですが…。

 冒頭の愛を乞うナイチンゲールに始まって、嘆いたり、勝ち誇ったり、怯えたり。
 個性豊かに歌う鳥たちに人間の姿を重ね、人間の恋愛模様を読み取ることは容易に出来ます。
 というよりむしろ、冒頭に「恋するナイチンゲール」を持ってくることで、以後の組曲をそのように読み取るよう示唆していると私には思われる。

 そこからのシテール島。

 で、遊びの愛じゃなかった、って締まるとハッピーでよくない?(多情な人(たち)が恋に一喜一憂してる様も読み取れるが! 最後に根本から混ぜっかえすと、不実な恋愛をカリヨンで祝福してくれる、浮気な宗教って解釈も出来ないでもない。・・・ふざけすぎか。

 シテール島の鐘の次の曲、この組曲の最後の曲は愛らしい「ささいなこと Le Petit-Rien」って、何この皮肉。
 シテール島について長々と喋ってきたことが、クープランさんにどーでもいいわ、って一言で片付けられた感(笑)
 事実なだけに傷つくわー。

 神話の島、はるかギリシアのシテールという時間的にも空間的にも壮大な含みのある曲の後で、ひょいっとささやかな曲で締める。
 恋愛には、こうしたどうでもいいことも含まれるのですって? それとも、シテールなんて絵空事はどうでもいいですって?

 どうだろうね。

 ま、結局作者が何を考え、誰がどう受容したかなんて、現代人には分からないし、分かったつもりになって終わりたくないものだけどね。

 私がこれが正しいに違いないと論じてるのではなく、ただ別の物語を紡いで遊んでるだけだから、それだけは強調したい。
 なんというか…結局のところ、この曲から私が感じ取った雰囲気を文字化しようとしたら意外と長文になってしまったエッセイでした。うん。我ながら回りくどい。


 ところで、これは完全に個人の想念に関わるもので、まったくシテールの鐘とは関係ないことなのですが。

 私が、ヴァトーのシテール島で連想するクープランの曲は「シテールの鐘」以上に「波」だったりする。

 だからクープランの「波」はシテール島へ行く船の立てる波なんだよ!(大嘘)

 ところで、この動画…おちゃめで笑っちゃうんだけど…ちょいちょい挟まれる演奏者さんの夏の思い出みたいな…盛り上がりどころで頑張って映像でも盛り上げようとしてるところとか…波間から出てきてじわじわ浜辺のカップルに寄ってくるクープランとか…。映像が気になって音楽聞こえないし…!(笑)

 クープランの「波」。標語は優雅に、遅くなく。
 特に第3クープレではっきりと田舎の楽器、ドローン楽器の模倣によって田園が想起され、右手と左手が長3度でユニゾンします。

 田園。牧歌。アルカディア。はたまたシテール。

 黄金時代の空気を残す理想郷であり、人間と自然が調和するエデンの園の名残であり、自由で穢れなき恋愛が行われると設定される舞台。

 このあたり、一緒にシテール島へ行きませんか?って囁かれてる気になるよね!(幻聴です)

 で、「波」の拍子は8分の6拍子。
 ほら、なんか島っぽいというかゴンドラっぽいというか船っぽいというか舟歌っぽいというか。
 これはアナクロニスムなのかな(笑)


おわり。

-------目次-------
1、クープランの第14組曲<シテール島の鐘>への違和感。
2、そもそもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。
3、続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。
4、クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。
※ 、カリヨンって何?2人は仲良し?ヴァトーの唯一の?チェンバロ絵が大好きだ、など。

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なんせんす・さむしんぐ

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