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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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シテール島からの脱線

クープランの<シテール島の鐘>をヴァトーの<シテール島の巡礼>で考える。の本文に入らなかった小話というか、余分な話というか。
 注というほど、立派なものではない。蛇足なのに無駄に長い、というより言いたい放題なので、頑張って読むくらいなら、頑張らないで読まないほうがまだ良い。

一応、本文目次。
1、クープランの第14組曲<シテール島の鐘>への違和感。
2、そもそもシテール島とは。ヴァトーのシテール島の解釈いろいろ。
3、続ヴァトーのシテール解釈。結局シテール島へ行くのか、帰るのか。
4、クープランの第14組曲の鳥たち。鳥と愛の寓意。


(※0)
 いきなりチェンバロじゃなくって、ピアノ演奏を例示したことを訝る方もいるかもしれない。
 自分でもびっくりしてる。このシテール島の鐘の演奏が、思った以上に公開されてなかったことに。
 念のため言えば、クープランの時代に今のようなピアノはまだありませんでしたので。

(※1)
 現代の日本人たる私は、疑いもなく、曲の雰囲気からしても、およそヨーロッパの鐘というものは普通キリスト教の教会が鳴らすものだろうと思ったのだけれど。

 念のため「世界カリヨン紀行」(新潮社1994年 著:アンドレ・レア他)なる簡単な本を調べてみたら、この文章の大前提を覆してしまう非常に都合の悪いことが書かれていました。

 そもそもカリヨンは、16世紀初頭のオランダやベルギーが発祥らしい。

 商業が盛んなこの地の都市は、自都市の権勢を誇示するため、競うようにカリヨンを市庁舎や教会に建造したのだそうです。
一定の音階を奏でる必要のあるカリヨンには高度な鋳造の技術が必要で、作るのも費用がかかるので、都市の豊かさのバロメーターとして、市民から愛されたのだとか。

 これらの都市では、カリヨン演奏は頻繁に行われていたが、カリヨンは17世紀に主要都市にあまねく普及し、つまり新しい鐘を作る必要がなくなったため、この世紀を過ぎたころから製造・管理技術の継承が出来なくて、以後19世紀まで衰退の一途をたどる。そして、民族運動などで伝統的なものが見直される風潮に乗って(とくにオランダやベルギーで)復活、その後コンピューター制御による演奏技術の登場により、さらに極東日本にまで普及するようになった。

 ……あれっ。あんまり宗教性がない!

 で、この簡単なカリヨンの本には、我らが18世紀初頭のフランスではどうだったのか、ということについては何一つ書かれていなかった。

 もちろん、鐘という道具そのものは、お祈りの時間を知らせる用途や、邪悪を祓い、悪霊から身を守るものとして、宗教的・呪術的な目的から使われてきました。その歴史にカリヨンは連なるものです。
 教会の鐘楼にも設置されたカリヨン。ものによっては鐘と連動した鍵盤を叩いて鳴らす鍵盤楽器でもあったので、しばしば教会のオルガニストが演奏を兼任した。
 ので、一応、教会とカリヨンは関係付けられる。けど、100%宗教施設のものか、というとそうではないらしい。

 18世紀のフランスの(パリの)人達にとって、カリヨンとはどんな存在で、そもそもどういうイメージを持っていたものだったのだろう? 現代の日本人と同じイメージで大丈夫なんだろうか。

 さて。
 そうは言えども。
 いや、上のような歴史だからって、シテール島の舞台が、オランダやベルギーの街の市場なんかが開かれる広場とかになっちゃうと、だいぶ違った曲になっちゃうんだけど。元記事で後述するけど、神話上のシテール島が「都会」でないことは確実だと思います。

 特に、巡礼者たちのいる場面で鳴る鐘、と限定すると、18世紀人も現代人も9割方は、宗教的なもの、つまりキリスト教会に由来する鐘である、と思うのではないかなぁ・・・。(でも18世紀のことは、本当のことはまるで分からないね。)

 この鐘の鳴り響く空間は、邪が祓われ、一種の聖別された、清浄な空間に思えるのだけど。
 とりあえず、クープランの曲のカリヨンの設置場所が、「市庁舎」か「聖堂」か、二者択一とするなら、教会の鐘じゃないと困るよね・・・。

 ついでにウィキペディアでもカリヨンを調べてみたら、オルガニストのミシェル・コレットの1741年の「クラヴサン或はオルガンのための新しいノエル集」で、「カリヨン」という曲を発見した。早速ダラダラ弾いてみると(初見出来ない・笑)、めっちゃカリヨン。しつこいくらいカリヨン。
 余談だけど、この曲…なんて言ったらいいんだろう、時々素敵だなって部分があり、時々まだ続くのこの曲って瞬間があり、あ、可愛いってところと、意味分からんってところとあって、全体では…ふーんこんな曲かあ、カリヨンぽい。って感想でした(笑)幸福感のあるいい雰囲気な気がする。でもいい雰囲気しか無いというか。いや、拙い自分演奏なので、もっとプロのソウルフルな演奏だと素敵なのかも?

 ともかく、ノエルはクリスマスの曲ってことで、一応カリヨンの宗教性は18世紀にも認識されてそう。

 という訳で、カリヨン=宗教的=キリスト教というイメージなのです。

(※2)
 そもそもなんですが、クープランをヴァトーで読み解こうというのは、妥当といえるのか・・・。

 クープランの「シテール島の鐘」の正確な作曲時期は不明ですが、この曲を含むクラヴサン曲集第3巻が出版されたのが1721年。また1713年の第1巻でも「(シテールの)巡礼者たち」を作曲しています。
 一方ヴァトーがルーヴルの「シテール島の巡礼」を描き上げたのは1717年。
 1710年ごろにも同じ主題で描いているし、その頃に、様々なキャラクターを描いた単身人物像の版画シリーズで、シテール島の巡礼者の姿を描いている。

 ちょうどよく、有名なシテール島や巡礼ネタがかぶってる! おいしい。
 うーむ、このころよっぽど流行っていたのだなあ。

 クープランのCDにはヴァトーの絵が使われることも多いです。
 クープランの音楽とヴァトーの絵と、夢見るような、気取りと気楽さのない交ぜになった優雅さ、どこか揺らいだところのある儚さ、物憂げな輝きなんかが、両者雰囲気が重なるところがあるので、まあ、演奏家の顔がどーんって載ってるCDジャケットよりかは、ヴァトーの絵が載ってるジャケットのが私は好きです(何の話)。

 とはいえ、二人の年齢差は16歳。全くの同世代、とは言い難く。
 むしろ、ヴァトーはラモーの1歳年下で、世代的には、こっちが近い。
 お互い名前くらいは知ってそうだけど…仲が良かったりとか、最低限、直接の交流はあったのでしょうか。物証はないみたいなんだよね。

 とりあえず、同時代人として、同じ時代の空気を共有していたのは確かだろうと思います。気が合うかどうかはわかんないけど。

 楽譜の出版と、版画の出版は、ちょっと似ている。どちらも版を彫って印刷機で刷る。広く売るために何らかのタイトルをつける必要がある。
 両者がどれだけリンクしてるか、研究不足で全く分からないのだけど。うーん、同じ版元とかが手掛けたりとかもあったのかしら。

 二人とも、演劇への接近・影響とかよく指摘されているので(というより、音楽家は演劇関係の人の括りに入れられるのかも)、同じ劇を見に行ってすれ違うくらいはして欲しいよね! これはドリームの領域。

 クープランの曲に「ノワンテル」っていう曲があって、ヴァトーも画業の初期にノワンテル邸のために装飾の仕事をしています。

左:〈誘惑者〉、右:〈ファウヌス〉
 両ノワンテルが安易に同一人物だとは言えませんが、どこかで何らかの関わりがあったらいいよね! というのもドリームの領域。


 ヴァトーってさあ、楽器を演奏する人の絵はかなり沢山あるんだけど、チェンバロの絵って全然ないのよね。
 まあ、すべてのヴァトーの絵を見た訳じゃないけど、今のところ私の知ってる唯一のが、これ。

ジャン・フェリ・ルベルの肖像。ヴァトー下絵。
  ルベルは宮廷ヴァイオリニスト。流石、プロの音楽家、なんて立派なチェンバロ。
 というか、やっぱり閉じた蓋を机代わりにしちゃうんだ。何だかリアル。だよね、それなら鍵盤で音出しながら楽譜書けちゃうよね。ちょっと机が高そうなところも何だかリアル。この肖像画大好き。
 因みに、羽根ペン左手に持ってるけど、おそらく左利きなのではなく、原画は右手だけど、版画化の際に反転したもよう。
 
 さて、このモデルとしてヴァトーの前に立った、或いは座ったであろうルベルさん。
 一応、クープランさんともアンサンブルしてる記録が残っているらしく。うーん、惜しい。間接クープラン。
(しかも、ルベルさん参加の演奏会は、通奏低音がクラヴサンのクープランの他、テオルボのド・ヴィゼー、ヴィオルのフォルクレが参加してたりとかもあったらしい。何この最強の通奏低音。素敵過ぎか。)

(※3)
 そういえば、もっと後の小説ですが、ジャック・カゾットの「Le Diable amoureux 恋する悪魔」(1772年)でも、美少女に変身して主人公を堕落させようとする悪魔が「今すぐ結婚して。」と迫りますが、保守的な主人公は「まずは母親から認めて貰わないと。結婚はそれからにしよう。」と返答します。それでもなお悪魔は、個人2人の問題に親の了承なんていらない、と攻めます。肉食系。
 穏健な保守派から見れば、親から認められないで結婚することは、堕落した悪魔の所業。。。みたいな感覚があったのでしょうか。

 そういえば、アヴェ・プレヴォのマノン・レスコー(1731年)も、悲劇の始まりは正当な手順を踏まない「結婚」だったような。
 いや、どっちもただの思いつき。

(※本文なし)
 これは私の覚書なのですが、この話とは直接に関係ない話。

 1771年にブーガンヴィル氏が世界周航記を出版します。
 これには、当時フランスでは未知の世界だった南洋諸島の様子などが紹介してあり、そこには「文明社会に毒されていない高貴な未開人」が住んでいると報告されました(これも未読だが!)
 で、そこではタヒチ島を南の島の楽園「新シテール島」とあだ名したのだとか。

 タヒチといえは後々ゴーギャンが非文明世界を求めて本当に旅に出てしまったけど、「新シテール」とはお洒落な命名。

 クープランやヴァトーの時代から半世紀たった時代においてすら、シテールは夢幻の島として人々の心に残っているようです。
ゴーギャン<ファア・イヘイヘ>
ポール・ゴーギャン〈タヒチ牧歌(ファア・イヘイヘ)〉

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