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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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西洋美術館のカラヴァッジョ展感想

会期終了を翌週に控えた日曜日、ようやく西洋美術館のカラヴァッジョ展へ行けたのでした。
 カラヴァッジョとカラヴァッジョの追随者たち50点あまり、十分な間隔を空けて。

 今回、展示全体でちょっと感じたことは、少し個人的な体験に基づくことでした。

 前にカラヴァッジョの洗礼者ヨハネが来たとき。
 
カラヴァッジョ〈洗礼者ヨハネ〉
 他のカラヴァッジョ以外の同時代の作品が、どちらかといえば理想化強めの、甘美な方向の作品が多かったためか、カラヴァッジョの写実は、聖人の人体が普通の人っぽくて――なるほど同時代の人が聖人なのに高貴さがなく卑近だと言ったように――少しどぎついものに感じたのでした。

 今回は、ほとんど真逆の印象を受けました。

 カラヴァッジョ前後の、カラヴァッジョ追随者たちと比べたら、ジプシーの娘も、肩を出した少年たちも、上品に見えた。

 全くものの見方は相対的で、定まらないものだなぁ(笑)

 たとえば、冒頭のカラヴァッジョとシモン・ヴーエ。
 どちらも占い師の絵。どちらも、大きめの画面に人物が腰辺りまで描かれ、画中の物語をクローズアップしている。
  
カラヴァッジョ〈女占い師〉、シモン・ヴーエ〈女占い師〉

 若いジプシー娘の占い師が、客の男の手を懇ろに取り、指先で手の皺をなぞったりして手相を見ている。
 カラヴァッジョのは身なりのいい紅顔の若者。ブーエのは歯を剥き出しにして、いかにも下卑た笑いを浮かべるおじさん。
 若い女の子に手相を見てもらうこの間に、青年は指輪を抜かれ、おじさんは仲間のジプシーおばあちゃんに後ろから財布を取られる。
 
 若い女性に男が騙される物語は面白く、好色が身を滅ぼすという、ちょっと教訓めいところもあります。
 こういう話の枠は演劇のストーリーによくあるもので、この絵の物語は、演劇の反映との由。

 カラヴァッジョのは貴族?の若者で、ブーエのはその辺の酔っ払いと、騙され役のお育ちの違いが、絵全体の見た目の上品さも左右している。
 ヴーエのは、現実の庶民の暮らしを強調して描いているのかな? 現代でもこういう窃盗犯イタリアにいそう(笑)
 

 それから、カラヴァッジョの蜥蜴に噛まれる少年。それとその次の蟹に鋏まれる男。
 
カラヴァッジョ〈蜥蜴に噛まれる少年〉
 本当に、思いもかけず蜥蜴に噛まれてびっくりしている瞬間の人の様子が良く描かれている。
 カラヴァッジョ好み?のむっちりした肩をはだけた少年の、びくりと跳ね上がる肩、驚いて半分身を引く動作、反射的に強張った両手の指、軽く悲鳴をあげる口元、驚いて怖がったり痛がったりしている顔。
 それと硝子に透ける水だとか、激烈に背景からくっきりと浮かび上がって見える輪郭とか。

 実際に蜥蜴に噛まれた人を観察したのだろうか?
 およそ現代の東京人には、花瓶に活けられた花の中から蜥蜴が出てきて噛まれるなんてことがあるとは、とても信じられない(笑)
 でも、蜥蜴に噛まれた人がこういう動作をするかどうかは、実見してないから、この絵が「現実」かは分からないけど、蜥蜴に噛まれるってこんな感じに違いない。

 それに対応するのが、ピエトロ・パオリーニ帰属の蟹に鋏まれる少年。
 
ピエトロ・パオリーニに帰属〈蟹に指を挟まれる少年〉
 そもそもの画力の差は置いといて。

 こちらは、分かりやすいというか、わざとらしいというか。
 カラヴァッジョのようなリアリティは薄く、これみよがしに蟹を手に持ち、蟹に指先を鋏ませて、カメラ目線で痛そうにしている。「挟むよ…挟むよ…アーッ挟んだ!ご覧ください痛い!」みたく、ちょうどリアクション芸人みたい(笑)

 きっとカラヴァッジョは絵の中の人が動き出さんばかりの臨場感や現実感、目騙し的な効果を大切にして、一方で、対する蟹少年は、カンバスの向こうは現実の投影ではなく、あくまでも絵であって、記号としての「痛み」とかを表現したかったのかな。

 
 楽器の絵はだいたい好きだ。
 カラヴァッジョとカラヴァッジョ追随者の辺りには、楽器の絵が多い。
 それは、カラヴァッジョのパトロンが音楽好きだった影響なんだとか。
 確か、バロック絵画に楽器や音楽の絵が多いのは、この時期に楽器と器楽が発達したことの影響、と言っているのを見たことがある。(それまで最も正確な音程が出せる楽器は人間の声だったという)
 パトロンの音楽好き、楽器の発達、そしてカラヴァッジョの楽士の絵。全部まとめて繋がっているのだろうな。

 ところでいま読んでいる本に、カラヴァッジョの時代の約50年後ですが、ネタか本気か、1オクターブ32鍵という無駄に発達したチェンバロが紹介されていたりとか、バロック時代の楽器の発展興味深い。

「普遍音楽――調和と不調和の大いなる術」著:アタナシウス・キルヒャー(1650)、訳:菊地賞、工作社

 それはさておき。
クロード・ヴィニョンの絵がお気に入りです(笑)
 粗っぽく、がさついた筆触が目立つ。この展示中、もっとも下手な部類の絵。
 
クロード・ヴィニョン〈リュートを弾く男〉
 男がリュートを抱えて、机の上に平らに置かれた楽譜を覗き込みながら弾いている。
 その表情といったら!(笑)
 眉は深く皺が寄り、目を細くして、しかめっ面。たらこ唇からは唸り声とか、あっ違、とか言ってる声が漏れているのかも。
 この苦悶の表情。
 爪弾く右手は強張ってぎこちなく、それに呼応するように、筆遣いもどこかぎこちない。

 こんなに力いっぱい苦しそうにあっぷあっぷしながら楽器弾く人初めて見た(笑)
 彼が10分後にリュートを投げ出して、二度と弾かないんじゃないかと心配です。
 がんばれ、君の楽しい音楽ライフはここからだ…! なんて応援しちゃう。

 絵柄の不安定さと、リュート苦吟ぷりがよく合っていて面白い(笑)
 一番愛らしい、謂わばゆるキャラ的な共感を呼ぶ絵かもしれない。


 果物籠を持つ少年と、バッコスは素晴らしかった。
 
カラヴァッジョ〈果物籠を持つ少年〉
 解説には少年の顔はわざとぼやけていて、しっかり描かれた果物籠とその中身とを対比させているのだとか。

 とくに画面右下で、暗くなった背景に、光が当たってくっきりと浮かび上がる枯れかけの葉っぱ。青々としていなくて、傷んで黄色と緑とがまだらになったその葉っぱ。素晴らしい3D効果で、飛び出さんばかりです。きっと、この葉っぱは特に見て欲しかったに違いない。
 

 バッコスは、有名な絵で、しみじみ良い絵だなぁと。見ていて凄く幸せ。

カラヴァッジョ〈バッコス〉
 白を基調にした調和の取れた画面。白く滑らかな少年の肌と、白い服、白いクッション、白いテーブルクロス。暖かく穏やかなベージュの背景色。
 筋肉はあるけど、ほどよくむっちり肉付いた腕。その片腕でクッションに凭れた体重を支えている。その体重のかかった腕の固さと柔らかさ。
 もう片方の腕は平たい硝子の大きな杯を捧げ持ち、こちらに差し出している。なみなみと注がれた赤黒いワインの透明感と波紋。
 器に山と盛られた熟れた果物を前に、実った葡萄の大きな冠を被ったお酒の神様は、ちょっと語弊があるけれど、豊穣を言祝ぐおめでたい感じ。
 きっと、だから見ていて幸せなんだなぁ。
 良く見ると、少し垂れ目の気怠い目の、黒々とした下睫毛がチャームポイントでした(笑)

 
 アミンタの嘆きも結構好き。

バルトロメオ・カヴァロッツィ〈アミンタの嘆き〉
 牧歌的で、かつ物憂げ。リコーダーを吹く少年に、相槌を打つでもなくタンバリンに凭せた腕に気怠げに頬を乗せる少年。ちょっとこのポーズ格好いいし。転がる果物。誰も手に取らないヴァイオリン。

 楽器の絵も好きですが、牧歌的な絵も好きです。だから、牧歌的な楽器の絵はすごく好きです。
 タイトルの由来は、画中の楽譜から。タッソーの牧歌劇「アミンタ」を元にした歌で、主人公アミンタが恋する人が死んだと思って歌う嘆きの歌が書かれているそうです。


 オラツィオ・ジェンティレスキの聖カエキリアで、ようやく正統派?の美少女出てくる。

オラツィオ・ジェンティレスキ〈スピネットを弾く聖カエキリア〉
 カエキリアの弾く楽器の鍵盤の適当すぎるまっ平らな描写と、椅子が高すぎる(あるいは台が低すぎる)のが気になるのを除けば(笑)、展示中一番繊細で情緒的で綺麗な宗教画です。カラヴァッジョよりエグくない「綺麗」なタイプ。
 普通の意味での綺麗さで言ったら、これが一番綺麗でした。
 (あとはラトゥールの煙草飲みが全部の絵と比べても綺麗だった)

 このジェンティレスキさん。解説には、カラヴァッジョの友人とあったけど、カラヴァッジョの裁判記録には「ジェンティレスキは私に話しかけてこないので、友人ではない」という発言が残されている。どんな距離感なんだろう(笑)


 センセーショナルな斬首主題セクション。斬首だけで纏めてくるとは。
 バロックといえば残虐な流血場面ですね!(過言)
 これもカラヴァッジョの斬新な表現が、斬首の流行の起爆剤になった、という解説文。
 
 メデューサ格好いい!

カラヴァッジョ〈メデューサ〉(ごめんなさい!メデューサには他にバージョンがあって、この図版がこの展示に来たやつかどうか分からないです)

 凸型の木の板にカンバスを貼ったものに、血の滴るメデューサの首が描かれている。それでメデューサの、人を石にする首のついた神話のミネルヴァの盾をイメージしている。
 かっと目を見開き、口を大きく開けて叫び声をあげてる。髪の毛の蛇がうねうねとのたうって、不気味なことこの上なし。

 凸型の画面! その自ずとこちら側に飛び出してくるフォーマット。
 カラヴァッジョ本人の着想なのか、こんな感じのものをカラヴァッジョに描かせようと思ったパトロンのセンスなのか、ナイスセンスです。

 お土産にこれの缶バッジとか、ペンダントとかなってたけど、ちょっと欲しい! けど要らない! 魔除けになりそう。


 聖カタリナの首。
 暗い背景の中に、白い生首がごろりと転がされてある、小さな絵。

マッシモ・スタンツィオーネ〈アレクサンドリアの聖カタリナの頭部〉

 小さいというより、描かれた首は現実の人間の大きさくらい、その人間の頭だけを収めるのにちょうどの画面。
 血の気を失った白い肌が目立つ。真珠で飾られ綺麗に結われた髪、虚ろに少しだけ開かれた瞼と唇。目鼻立ちは、まだ死の間際の苦悶の表情をわずかに残していつつも、美しく高貴に描かれている。
 まだ乾かない首の、見えない断面からは生々しく血が流れる。傍らにティアラとこの首を斬った剣。そして殉教者を表す棕櫚。
 残虐だけれど、美しい。
 殉教した聖人の首を描くという陰鬱なシリーズの一枚だそうで、他のもちょっと見てみたい。


 新発見されたというカラヴァッジョのマグダラのマリア。隣にアルティミジア・ジェンティレスキのマグダラのマリア。
 どちらも殆ど、あるいは完全に気を失った状態で、重力に従って首を仰け反らせて倒れ込んでいる。
 
カラヴァッジョ〈法悦のマグダラのマリア〉
 これ、図版では背景真っ黒ですが、もっと繊細な背景でした。左端に、かすかに細い十字架が見える。

 アルティミジア・ジェンティレスキは、先のカエキリアを描いたオラツィオの娘。
 当時にしては珍しい女性画家(画家は本来男性の職業)です。
 
アルティミジア・ジェンティレスキ〈悔悛のマグダラのマリア〉

 荒野で修行をしているマグダラのマリアは、上半身には何も着けておらず、意識を失って仰け反る無防備な上体を晒している。
 彼女は首を後ろに垂れて、顔が良く見えない。そのために特に明るく描かれた裸身に目線が集中する。

 解説によれば、マグダラのマリアを口実に、女性の裸体を描きたかったのだろうということです。
 確かに、生身の女性の体に少しびっくりするくらいの生々しさで、それは隣のカラヴァッジョ以上だったと思う。本当に目の前のモデルにこの人がいて、その人の体をそのまま忠実に写したのかも知れないと想像するほどです。

 
 グエルチーノの聖ヒエロニムス。
 
グエルチーノ〈手紙に封をする聖ヒエロニムス〉

 とてもダイナミックなポーズと半裸の格好で手紙に封蝋をしている。
 なんか状況としては不自然だけれど(笑)、この間の展覧会でとても気に入ったばかりで、グエルチーノかなり好きだわ。
 グエルチーノって、カラヴァッジョみたいにぱりっとした陰影で、本当に画面から飛び出してきそうなんだけれど、カラヴァッジョほど苛烈でない上、甘ったるくもないから、凄くちょうどいいです。

 グエルチーノもカラヴァッジョ並のリアリティと3D感なんだけれど、美術館の解説では、グエルチーノが直接カラヴァッジョに影響を受けたというよりは、初期カラヴァッジョに影響を与えたボローニャ派の自然主義を、ボローニャ派のグエルチーノも共有していたのだろう、ということです。
 カラヴァッジョもいいけど、ボローニャ派もいいなー。ボローニャも行ってみたい。

 やっぱりバロックって良いものですね。


次ページ余談。

 カラヴァッジョ展の後で見た常設展で、新規収蔵作品がすごく好きだという話。
 埃を被ったリュートの絵が素敵すぎる。それの埃の話。
 このリュートが、カラヴァッジョ展のちょっとしたお気に入り、苦しそうなリュート弾きさんの放り出したリュートの末路じゃないこと願う(笑)

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損保ジャパンのフランスの風景 樹をめぐる物語 感想

正式名称「フランスの風景 樹をめぐる物語-コローからモネ、ピサロ、マティスまで-」

 時に、風景というよりは「その樹」を描いた、という性質の風景画がある。

 そんな木を主役にした絵を集めたという展覧会だと思ったのだけど、違った。

 普通に、18世紀末からバルビゾン派を経て、印象派→後期印象派までのフランス風景画を並べた展示でした。
 全体からは「樹をめぐる物語」はあまり感じなかったのよね。。。

 その絵の中で樹がどんな役割――象徴的だったり、構図上の問題だったり――を果たしているのか、その樹の描き方は、それ以前、あるいは同時代とどう違ってどう同じなのか、樹を描くことの意味とは、とか、なんかそういう解釈を聴けるものと思ってたんだけど。
 そういう踏み込んだ内容ではありませんでした。

 ううーん、展示のタイトルと中身にギャップあり、と感じました。
 自分で考えろってことですね・・・。 あるいは、図録に丁寧に描かれていたのかも。
 
 そういう絵も無いことはなかったけど。


 一番好きだったのは水彩画。

 バルビゾン派の中では、生前もっとも成功したといわれているらしいフランソワ・ルイ・フランセという画家の絵。

 古式ゆかしい?イタリアの風景。

 雪の積もるボルゲーゼ宮を入り口の階段横から眺めた情景。古代風の女性彫像が立ち、古代の神殿ぽい柱の折れたやつが草の中に転がっている。
 雪が積もって、明るい薄桃と灰青色と、ハイライトの柔らかな白が基調となっている。
 イタリアいいわ~ボルゲーゼと古代彫刻素敵だわ~。軽やかな色使い、癒されるわー。
 ・・・こういうキャッチーな絵が個人的に好みなだけだー。

 
 シニャックの、絹にテンペラ、という珍しい素材の作品。

 油彩よりも非常に軽やか。絹とテンペラの素材としての軽やかさたるや。
 画風はいつものシニャックといった感じですが、白を基調にした画面は、色がとても綺麗で、樹のあたりの光の具合が素敵。
 そういえば、シニャックの水彩画も色の組合せが綺麗なのよね。

 それにしても、絹にテンペラとは。
 絵は扇形になっていて、本当に扇にするつもりだったのか、ただのそういうフォーマットなのかしら。


 ロマン派やバルビゾン派のご先祖としての、18世紀末の風景素描が見れたのは良かった。個人的な趣味で(笑)

 18世紀では、その辺の樹を描いただけのただの現実の風景は、創造的じゃない、詩的じゃないと評価されて、まだ風景画の地位は低かったのでした。
 
 だからといって現実の風景を描くことが無価値だという訳ではなく、もっと上位の神話画を説得力をもって生き生きと描くには、先人の絵を模写するのではなく、現実の自然を模倣することから始めるべきだ、と言われます。

 そこで、戸外での、外光による風景画(の習作)の制作が盛んに行われるようになり、そうしたアトリエの外の自然を自然のままに描こうという姿勢が、後のバルビゾン派や印象派などの土壌の1つとなっていった。
 というようなことが、お土産屋さんで売られている「ローマが風景になったとき」っていう素晴らしい本に書かれているから、みんな買って読めばいいよ←宣伝

 だから、展示は18世紀の素描から始まってるわけですね。
 と、脱線したまま、戻る気もなく筆を置きます(笑)素敵なオチが思い付かないよ!

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目黒区美術館、没後40年 髙島野十郎展 ―光と闇、魂の軌跡 感想

高島野十郎さん。

 ポジションとしては、「孤高の画家」
 緻密で写実的な静物画や、日本の風景を描いた画家。人とも画壇と交わらず、ただ自分の理想とする芸術のみを生涯追い求めました。
 
まだ著作権切れてないので、Google画像検索にリンク貼っておきます。ご参照下さい。

 生まれは福岡、裕福な醸造家の四男坊で、長じては今でいう東大の水産学を首席で卒業し、将来を嘱望されていたにも関わらず、そこで独学で画家を目指してしまった、という。

 すごい経歴(笑)

 独学だからか、特に初期の絵には、独りよがりなところが大いにあって、執拗なまでに精緻で陰影の強すぎる写実と、画家の執着や怨念じみた何かを乗せたデフォルメの怪しいバランスの中で、自意識とか自尊心とかをもてあましているようでした。

 微妙に歪んだヴァイオリン、のたうつ罌粟の花、死んだ鳥、枯れた草の繁る葉を落とした木の風景、暗すぎる紫と緑のうねうねした植物の鉢。

 すごく雑に言うと、岸田劉生の麗子みたいな。それベースに、デューラーみたいな執念とゴッホみたいな情念とフリードリヒみたいなネガティヴを足したら、初期野十郎さんかなぁ…。←超乱暴

 そして、印象深いのは自画像。

 膝を立てて座る大学生の画家。そのわざと露出された脛と首には深々と傷が穿たれて、赤黒い血が流れ出している。
 表情は歪み、険しく眉根を寄せて、目は据わって、鑑賞者をねめつける。口は何かを語るように半開き。
 とにかく強いメッセージ性がある。
 好きか嫌いか、好みで言ったら、この自画像かなり嫌いだけど(笑)これが一番初めの中学時代の絵の次にあって、こちらを睨み付けてたからどん引きした。
 裕福に何不自由なく育ったはずなのに、この自分を取り巻く社会への怨念、自分以外みんな敵感なんなんだろう?

 40才ごろ、何年間か本場欧米へ修行に行く。やっぱり師につかず独学みたい。
 その頃の絵は、いかにも明治日本な重く執拗なぎこちなさは薄くなって、のびのびとして明るく、少し力が抜けた感じ。やはり、留学の開放感なのかしら。
 相変わらずくせは強い。輪郭へのこだわり。

 日本に帰ってきてからの風景画は、初期のエグさはかなり和らいでいる。…大人になったのかな(笑)
 以後、展覧会は時系列を離れてテーマごとの展示。…なので、「高島野十郎の画風の発展」みたいなのはちょっと分かりづらかった。

 私の主観だけど、一貫して「どこか日本ぽい」。
 風景が、ではなく書き方がなんとなく。写実的だけど、輪郭へのこだわりや、デフォルメ。
 花はみな決して裏側を見せない。岩絵の具で描いたみたいな質感と、輪郭をはっきり取ることで生じる、ある種の平坦さ。
 晩年の、微妙な色合いの青地に薄黄色の月だけが描かれたものなど、全てを削ぎ落とした引き算式の画面など。
 なんというか、もちろん写実的でかなり保守的な洋式の油絵なんだけれども、その画面にはっきりとは現れない根っこのところに、伝統的に日本人の魂に刻まれてきた、輪郭で世界を把握したり、簡略化したりする(その伝統が今のアニメや漫画の発展にまで繋がっていると言われる)遺伝子を感じる…。まあ、これは私の感覚でしかないけど。

 泰西名画の模倣は絶対にしないと志していたけれど、西洋の遣り方、ものの見方では、自分がこう見えていると信じる視覚世界は描けないっていうことなのかな。

 既存の絵画の模倣はしない、という強い意志は、残された手紙からも伝わってきます。
 ある娘さんから、画集を送られた時の返事には、ざっと以下のようなことが書いてあった。

「私の芸術は、他の画家の模倣で到達出来るものではなく、ただ描く対象そのものに迫ることなのです。…中身が分かっていれば受け取りませんでした。」

 大変厳しい口調で、相手の好意にありがとうの一言もなし。…大人気ないよ! 言ってることはもっともだが、もうちょっと書きようがあるだろうに…(笑)よほど孤高の画家のプライドを傷付けたのでしょうか。。。
 いくつのときの手紙か、確認しなかったけど、大人の対応と思えない(笑)それとも当時の人の普通の手紙ってこんなに塩対応な文体が標準だったりするんだろうか? 絵文字が無いから冷たく見える、的な。
 ……でも近代の芸術家を一般常識で測っちゃダメなときってありますよね、前後の文脈とか、2人がどれだけ仲良しかも分からないしね、うん。
 とりあえず、この手紙1枚では、好感度はすごい下がった(笑)

 限られた展示品から垣間見た画家の人柄的なことは、事実ではなく、あくまで私の好感度と印象にすぎませんので、置いといて。

 静物画は素敵で、とても真面目な絵だけれど、つまらない絵ではない。
 柔らかい均質な光の中で、壺や果物、細かい模様のある布地など、画面のすべてに、やはりほとんど均等に、忍耐強く精確に筆が行き届いているように見えた。
 初期にあった歪みや、ピリピリした傷みは消えて、すごく安定感がある。初期のグロテスクな罌粟の花も結構好きだったけど。

 リアルなカラスウリの実のリズミカルな存在感。
 このからすうりが一番好きかも。からすうりの朱い実同士の絶妙な遠近感と、背景の壁に落ちる影。枯れて軽くなったカラスウリの浮遊感と、モノとして重力に引っ張られている重さ・軽さ。

 時々、いくつかの静物を並べるときに、一つのリンゴや、謎の小さな真珠なんかが、ちょうど中央に置かれたりする。ちょっと意味ありげな構図です。

 割れた赤絵の皿は、素敵なモチーフ。
 偶然割れたお皿を描いたものか、モチーフにするために割ったものか。。。

 暗闇のなか火の灯った蝋燭一本、というモチーフは、生涯のどの時期にも描かれています。販売用ではなくて、私的に描いて親しい人に送っていたのだそう。
 その蝋燭が初期から後期までずらり。
 どれも殆ど同じような構図、同じくらいの大きさ、同じような色彩。
 でも全くのコピーではなくて、ちょっとずづ違う。初期のは例の執拗さを以て、戦後はかなり様式化させて。
 仏教に傾倒した方なので、宗教的な意味が強いのかも知れない。けど分からない。
 他に、小さな煙草と煙草の煙とか、似たような性質を感じます。

 割と画面を均質に、あまり絵の具を盛り上げたり筆触を派手に残したりしないで仕上げるのが好きな画家ですが、「光」を描くときは別で、蝋燭の炎は、かなり絵の具の盛り上げが目立っています。

 この光そのものを盛り上げて描く遣り方は、林の間から放射状の強い光を投げる太陽にも使われていた。むしろ、それにしか使われていないような勢い。
 何か光の持つエネルギーを表しているのでしょうか?

 晩年の月の絵は、超シンプル。
 雲一つないスモーキーな青緑色の夜空と、アイボリーの月。だけとか。
 空と月を縁取るようにちょっとだけ黒いシルエットの枝葉があるだけ、とか。
 これだけで絵の間が持つのだから、それはやっぱり孤独に積み上げてきた画業の、徳のようなものの為せることよね。

 さて、思ったことだらだらと描き連ねてしまった。頑張って締めの言葉をずっと考えていたのですが、一向に思い付かないので、打ち切り感満載で筆を置きます。

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Bunkamura、俺たちの国芳わたしの国貞展

若林奮展のあと、ところ変わって、Bunkamuraの国芳と国貞展をはしご。
 前記事の若林奮展と、在り方とテンションが全然違う(笑)

 こちらは少しお祭り騒ぎ。

 ポップカルチャー寄り、というか現代の漫画やその他エンターテイメントのご先祖様、みたいな扱いで、時代は江戸末期(でももう19世紀も半ばだから、結構最近かも。)と隔たっているものの、ひょっとして現代彫刻家の若林奮よりずっと身近かも知れない。

 プロジェクションマッピングなんかが会場を盛り上げていたりして。
 「俺たちの国芳わたしの国貞展」というタイトルに若干の押しつけがましさを感じつつ。
 このパワフルな圧力も、美術館側で演出したかったのではないか、と解釈する。

 全部で150点余り。とにかく綺麗な刷り。見応えはあり。
 すごく楽しめました。

 美術館側は、「国貞と国芳、ぜひ比べてみてね」なんて言っていました。
 私にとっては、国芳の方が共感があるかなあと。
 国貞は、役者のいわば肖像画が得意なのだけど、役者本人を知らない以上、水滸伝や八犬伝といった漫画みたいに派手な物語が展開する国芳の方が、物語性、ファンタジー度が高くて。

 しかし一番印象に残っているのは、、、実はテンション高すぎな解説キャプションだったりします(笑)

 ポップでキャッチーを狙った分かりやすい説明書きなんだけど、それに文句は全くないけど、その悪乗りというか、酔っぱらった上滑り感に思わず笑っちゃう。

 漢字のルビに英語の語彙を使うレトリックが鼻に付くなぁ~(←褒めてないけど、貶しては決してないです)言いたいことはよくわかる。

 全体では、ご衣裳格好いい。
 揃いのシックな着物や、ド派手な衣装や浴衣。
 ベロ藍は不思議と目を引く綺麗さ。

 そして、やっぱりのお土産のテンションの高さ。
 この調子で次のトワル・ド・ジュイのお土産も頼む!まじで。

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うらわ美術館、若林奮―飛葉と振動展

うらわ美術館。彫刻家、若林奮 飛葉と振動展。

 彫刻作品と、その為の思考実験のようなドローイング。
 右図は、展示されてた作品の記憶による(笑)再現。
 タイトルは泳ぐ犬。とかそんな感じ。鉄の犬が紫檀の台に埋められている。

 作品はどれも、抽象と具象の間で、結構哲学的で、分かったような分からないような。
 全体でテーマは「形にならないものを刻む」という感じ。

 例えば、ぽこぽこした球体が重なって、水蒸気のモクモクを表しているらしい作品。ちょっと正確なタイトル忘れたけど「犬から発生する水蒸気」みたいな…。
 犬の姿はなく、恐らく、水蒸気を表しているらしいモクモクに覆われている。
 別の作品にも犬というタイトルがあって、犬らしきものは見えない。
 ただし、だからといって、単なる言葉遊びや、適当な人を食ったタイトルで笑わそうという代物ではなく、見えないけれど「犬がいること」はこの彫刻作品の大切な要素なのです。


 例えば、自分と対象の物理的ではない、空気だとか何やかやで隔てられている「距離感」。それは、「風景」を彫刻するという形になって顕れる。
 時折、手形のようなもの、指先のような穴があいていて、それが観者の手=鑑賞の出発点・計測地点として機能しているようだ。

 ものと人との括弧つきの「距離感」、彫刻では表せない周囲の空気や雰囲気の存在感は、庭のモチーフへと発展していく。
 実際の庭の設計模型と作庭された写真。それに関するドローイング。
 (何でもいいけど、庭園って存在は、やっぱりいいものですね。庭ってだけで、判断停止的に好きだ。)

 例えば、その大部分が地中に埋まって、ほんの上部だけが実際に見え、その地中の姿を観者が想像するるいるという作品。やはり、見えないことも大切な要素。
 
 
 ドローイングは、立体作品の準備やコンセプトを書き留めたものだったり、やはり具象と抽象の間で、遠近法を想起させる分割線とか色の境目とか、抽象的なものの中に、犬とか木とか人とか、具象的なものがときどき混じっている。
 定かな意味はよく分からないけれど、何だか分かる気もする。
 そんな絶妙な具合です。

 どうやら犬は重要な意味を担うモチーフで、何かしかの記号であるようだけれども、定かな意味はよく分からない。
 どの犬も静止していない。走っていて、泳いでいて、山から駆け降りてくる。

 色はまるで12色のよくある水彩画セットから選ばれたような、ありふれた、既視感を覚える色。
 だけど、ちょっと綺麗で、静かな共感を呼ぶ。


 意外と、沢山の挿し絵や、本の装丁を手掛けていて、これも抽象と具象の間の感じ。
 これもやっぱり「あー、こういう何か意味深な感じの、ちょっと抽象的な絵の表紙よくあるわー」と、けっこうピッタリ。このはっきりした意味は分からないけど、分かる気もするっていう絶妙な具合が。

 多分、全てつまびらかであってはならないのだろうし、全くシュールな、現実の人間の感覚を超えたものであってもならない。やっぱり「確かに存在するけど、大部分地中に埋まってる」ぐらいを狙っているんだろうな。


「分かる(あるいは、分かるような気がする)ことの向こうに、沢山の分からないことが、知覚は出来ないけれど、でも確かに存在する」という感覚を、作品化しているんじゃないかな、と私は思った。

 それは確かに、明確な答えしかない世界よりは、真実らしいと思える。

 というようなことを分かったかも知れないけれど。

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なんせんす・さむしんぐ

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