鵁鶄さんの記事にて、貴重なご意見を頂きました!当ブログモレナールについてを見て下さった、こうせいさんが思い出したもの。
日本にも、有名な怪物シリーズがあったじゃないか!という。
その名こそ、麗子。
そうだ、麗子がいたじゃないか。岸田劉生の麗子像。
リンク先のグーグル画像検索で見ていただければ分かる通り、夥しい数の麗子たち。絵によっては、一枚に二人麗子が描かれたりしている麗子シリーズ。
…というか、これだけ麗子像があったなんて、今検索して初めて知りました。日本の洋画壇は全くのノーマーク!
いや、このリンク先、圧巻ですね、夢に出そう。
モレナールの怪物たちより、こっちの方がよっぽど怪物めいていますよね・・・。怪物というより、妖怪。
モレナールを超えた怪物シリーズは日本にあり(笑)いや、これに比べたら、モレナールの方が薄いというか、軽いというか。まあ、モレナール自身、深みは求めていなさそうだけど。
しかし、この麗子への執着心。岸田劉生としては、愛情込めているのだろうけど、愛情こもり過ぎて怖い(笑)
人が何かに執着するあまりに、人の域を超えて魔性を帯びるパターン。このパターン自体は大好物ですが、麗子はとりあえず怖いだろう。
デューラーの影響を強く受けたという岸田劉生。画風だけでなく精神性も似通ったところがあると思います。多分、通じるところがあったんだろうなぁ。共感というか。
比べるには余りに隔たった、モレナールと岸田劉生の東西の妖怪児たちですが、モレナールの怪物には、がちゃがちゃとした、お上品でなくとも、人間の域を超えない人間性が備わっており、高尚には見えなくとも、生き生きとはしている。ただ、可愛くないだけで(笑)
岸田劉生の麗子には大真面目な思い入れだけがあって、ユーモアというものがまるでない。だから怖い。モナリザも意識しているのか、モナリザ・スマイルがまた怖い。尤も彼のことは余り知らないけど(多分、調べれば麗子像の深い理解も得られそうではあるけど)、麗子本人ではなく、現実の麗子を超えた、イデア的な「超」麗子の姿を追い求めたのかなぁ。抽象的な、記号としての麗子像。
そんな麗子像が怖いのは、何だか妙な親近感や既視感があるからにまろりーは思えます。
上手く言えないけど、確かに今我々がいる日本という世界と、麗子像の絵の世界は陸続きになっていて、決して遠い異国の昔の話ではないという、時間的・距離的な近さ。麗子像のような明治(大正?)の子供を、もはや現代人は見たことはなくとも、確かに居たという親近感。多分、麗子という「概念」のようなものが麗子像だとして、古き日本の特定ではない子供という形象を写した日本人形と似ているという既視感。・・・不幸なことに、日本人形といえば、テレビでよくみる有名な怪奇現象を直ぐに連想出来る。
で、その二つが絶妙にブレンドして、この人にして人ならざるものが、夜に動いても絶対おかしくない、という気持ちにさせるような気がします。その意味で、「生き生き」しているのかしら、麗子像(笑)
麗子像が不気味なのは、テレビの心霊特番のせいですね(過言だ)
あと、岸田劉生のユーモアの無さ(やっぱり過言だ)
この記事にトラックバックする