うらわ美術館。彫刻家、若林奮 飛葉と振動展。
彫刻作品と、その為の思考実験のようなドローイング。
右図は、展示されてた作品の記憶による(笑)再現。
タイトルは泳ぐ犬。とかそんな感じ。鉄の犬が紫檀の台に埋められている。
作品はどれも、抽象と具象の間で、結構哲学的で、分かったような分からないような。
全体でテーマは「形にならないものを刻む」という感じ。
例えば、ぽこぽこした球体が重なって、水蒸気のモクモクを表しているらしい作品。ちょっと正確なタイトル忘れたけど「犬から発生する水蒸気」みたいな…。
犬の姿はなく、恐らく、水蒸気を表しているらしいモクモクに覆われている。
別の作品にも犬というタイトルがあって、犬らしきものは見えない。
ただし、だからといって、単なる言葉遊びや、適当な人を食ったタイトルで笑わそうという代物ではなく、見えないけれど「犬がいること」はこの彫刻作品の大切な要素なのです。
例えば、自分と対象の物理的ではない、空気だとか何やかやで隔てられている「距離感」。それは、「風景」を彫刻するという形になって顕れる。
時折、手形のようなもの、指先のような穴があいていて、それが観者の手=鑑賞の出発点・計測地点として機能しているようだ。
ものと人との括弧つきの「距離感」、彫刻では表せない周囲の空気や雰囲気の存在感は、庭のモチーフへと発展していく。
実際の庭の設計模型と作庭された写真。それに関するドローイング。
(何でもいいけど、庭園って存在は、やっぱりいいものですね。庭ってだけで、判断停止的に好きだ。)
例えば、その大部分が地中に埋まって、ほんの上部だけが実際に見え、その地中の姿を観者が想像するるいるという作品。やはり、見えないことも大切な要素。
ドローイングは、立体作品の準備やコンセプトを書き留めたものだったり、やはり具象と抽象の間で、遠近法を想起させる分割線とか色の境目とか、抽象的なものの中に、犬とか木とか人とか、具象的なものがときどき混じっている。
定かな意味はよく分からないけれど、何だか分かる気もする。
そんな絶妙な具合です。
どうやら犬は重要な意味を担うモチーフで、何かしかの記号であるようだけれども、定かな意味はよく分からない。
どの犬も静止していない。走っていて、泳いでいて、山から駆け降りてくる。
色はまるで12色のよくある水彩画セットから選ばれたような、ありふれた、既視感を覚える色。
だけど、ちょっと綺麗で、静かな共感を呼ぶ。
意外と、沢山の挿し絵や、本の装丁を手掛けていて、これも抽象と具象の間の感じ。
これもやっぱり「あー、こういう何か意味深な感じの、ちょっと抽象的な絵の表紙よくあるわー」と、けっこうピッタリ。このはっきりした意味は分からないけど、分かる気もするっていう絶妙な具合が。
多分、全てつまびらかであってはならないのだろうし、全くシュールな、現実の人間の感覚を超えたものであってもならない。やっぱり「確かに存在するけど、大部分地中に埋まってる」ぐらいを狙っているんだろうな。
「分かる(あるいは、分かるような気がする)ことの向こうに、沢山の分からないことが、知覚は出来ないけれど、でも確かに存在する」という感覚を、作品化しているんじゃないかな、と私は思った。
それは確かに、明確な答えしかない世界よりは、真実らしいと思える。
というようなことを分かったかも知れないけれど。