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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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山種美術館の古径と土牛展

古径と土牛はほとんど知らない。名前は覚えていて、素敵だなあと思って作者を見ると古径だったとか、まあそんなところ。

 一言で言って、癒される。古径の18歳ごろの絵が展示されていて、十代の男子とは思えないほど、歳の割に悟った感じのする画風。俗気がなく、なんというか清廉潔白な感じ。
 そして、その画風の清々しいこと。

 説明文によれば、古径のお師匠の教えは、絵に卑しいところがあってはならぬ、というものらしいのですが、本当に卑しいところがない。しかし師匠の言い付けというよりは、多分そもそもそういう性格なんじゃないだろうかと思ってる。

 土牛も古径を評して「高潔な人」と言っているし、人間臭さが無い。
 期待している訳ではないけど、少なくとも表面的には全くプライベートな生活感が垣間見えない。(見る人が見れば、あるんだろうけど)

 もちろんそれが悪いというのでなく、ただ常人離れしているなあと。こういう生まれ持っての非人間性は天才と言えるのかも。

 いや、「非人間性」というのは悪い意味でなく、まあ卑俗なところがないという意味で、全くの人間性がなければさすがに芸術表現として成り立たないと思うからね、冷血だとか共感が湧かないとか、そういう意味ではない。

 そして、デザインセンス。
 ヨーロッパの絵画の影響を新しく受けた時代の人らしく、油絵で静物画を描いてみたり「写実」を模索していたようで、日本画の枠の中で西洋的な立体感、遠近感、質感表現を研究しているらしいことが伺えます。

 が、日本画の例に洩れず?、追い求めているものは、単なる現実の形や質感の模写ではない。という事は展示中の古径語録で繰り返し説明してある。

 そこで、描く対象の目に見える以上のものを描くためのデザインセンス。
 デフォルメの仕方や色彩の取り合わせの妙や余白とか。

 それらがあいまって清々しくて(二回目)、デトックスというか、俗世から逃れて清浄な空気のうちにいるような気にさせて、癒されるという訳です。


 さて、展示では古径をリスペクトする弟弟子の土牛と、そんなセンス=画風の違いをダイナミックに見ることが出来ます。

 というか、師匠が病に倒れて、齢い23歳で画塾の講師として弟弟子たちを教えたという古径が、天才すぎる。…まろりーの脳内でもう20代にして人間出来上がってるかのようなイメージが、すっかり着いています。

 さて土牛の方は、ずっとおおらか。

 絵の具の表面を盛り上げたり、色むらを作ったり雲母がきらきら光っていたり、古径が専ら「線」がいかに生き生きと命を宿すかに心を傾けるように見えたのに比べて、土牛はそうした面の部分の効果も追究しているようです。

 白眉の鳴門の渦潮は、下書きも無しに色面だけで描き上げた絵で、ひたすら格好いい。

 動物の表現は面白く、古径の牛や犬は人の目をしていた。例の有名な猫はきちんと猫の目。

 土牛の犬と猫は、くしゃっとした形になっていて、ちょっと偕謔的。古径のがはるかに律儀な感じ。


 実際のところ、2人がどんな人柄だったのか、具体的なことは知らない。

 でも、絵は人なり、というか、ああ2人ってそれぞれこの絵の通りの人だったんじゃないかな、と思った展示でした。
 こうした画風の全然違う2人の画家を排出したお師匠梶田半古がどんな絵か気になりました。


 脱線。あくまでも空想ですが、古径が宇宙人に思えてきます。常人離れしてて(笑)

 ちなみに私の脳内で、実は宇宙人設定の筆頭はヤン・ファン・エイク。…油絵の技法を完成させた、ってそれ以前の油絵画家なんて思いつかないし、創始者にしてその完璧さは突然変異過ぎだろう。宇宙から油彩技術を持ってきたっていうのが、一番説明がつくんだけど(笑)

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