忍者ブログ

○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

目黒区美術館、没後40年 髙島野十郎展 ―光と闇、魂の軌跡 感想

高島野十郎さん。

 ポジションとしては、「孤高の画家」
 緻密で写実的な静物画や、日本の風景を描いた画家。人とも画壇と交わらず、ただ自分の理想とする芸術のみを生涯追い求めました。
 
まだ著作権切れてないので、Google画像検索にリンク貼っておきます。ご参照下さい。

 生まれは福岡、裕福な醸造家の四男坊で、長じては今でいう東大の水産学を首席で卒業し、将来を嘱望されていたにも関わらず、そこで独学で画家を目指してしまった、という。

 すごい経歴(笑)

 独学だからか、特に初期の絵には、独りよがりなところが大いにあって、執拗なまでに精緻で陰影の強すぎる写実と、画家の執着や怨念じみた何かを乗せたデフォルメの怪しいバランスの中で、自意識とか自尊心とかをもてあましているようでした。

 微妙に歪んだヴァイオリン、のたうつ罌粟の花、死んだ鳥、枯れた草の繁る葉を落とした木の風景、暗すぎる紫と緑のうねうねした植物の鉢。

 すごく雑に言うと、岸田劉生の麗子みたいな。それベースに、デューラーみたいな執念とゴッホみたいな情念とフリードリヒみたいなネガティヴを足したら、初期野十郎さんかなぁ…。←超乱暴

 そして、印象深いのは自画像。

 膝を立てて座る大学生の画家。そのわざと露出された脛と首には深々と傷が穿たれて、赤黒い血が流れ出している。
 表情は歪み、険しく眉根を寄せて、目は据わって、鑑賞者をねめつける。口は何かを語るように半開き。
 とにかく強いメッセージ性がある。
 好きか嫌いか、好みで言ったら、この自画像かなり嫌いだけど(笑)これが一番初めの中学時代の絵の次にあって、こちらを睨み付けてたからどん引きした。
 裕福に何不自由なく育ったはずなのに、この自分を取り巻く社会への怨念、自分以外みんな敵感なんなんだろう?

 40才ごろ、何年間か本場欧米へ修行に行く。やっぱり師につかず独学みたい。
 その頃の絵は、いかにも明治日本な重く執拗なぎこちなさは薄くなって、のびのびとして明るく、少し力が抜けた感じ。やはり、留学の開放感なのかしら。
 相変わらずくせは強い。輪郭へのこだわり。

 日本に帰ってきてからの風景画は、初期のエグさはかなり和らいでいる。…大人になったのかな(笑)
 以後、展覧会は時系列を離れてテーマごとの展示。…なので、「高島野十郎の画風の発展」みたいなのはちょっと分かりづらかった。

 私の主観だけど、一貫して「どこか日本ぽい」。
 風景が、ではなく書き方がなんとなく。写実的だけど、輪郭へのこだわりや、デフォルメ。
 花はみな決して裏側を見せない。岩絵の具で描いたみたいな質感と、輪郭をはっきり取ることで生じる、ある種の平坦さ。
 晩年の、微妙な色合いの青地に薄黄色の月だけが描かれたものなど、全てを削ぎ落とした引き算式の画面など。
 なんというか、もちろん写実的でかなり保守的な洋式の油絵なんだけれども、その画面にはっきりとは現れない根っこのところに、伝統的に日本人の魂に刻まれてきた、輪郭で世界を把握したり、簡略化したりする(その伝統が今のアニメや漫画の発展にまで繋がっていると言われる)遺伝子を感じる…。まあ、これは私の感覚でしかないけど。

 泰西名画の模倣は絶対にしないと志していたけれど、西洋の遣り方、ものの見方では、自分がこう見えていると信じる視覚世界は描けないっていうことなのかな。

 既存の絵画の模倣はしない、という強い意志は、残された手紙からも伝わってきます。
 ある娘さんから、画集を送られた時の返事には、ざっと以下のようなことが書いてあった。

「私の芸術は、他の画家の模倣で到達出来るものではなく、ただ描く対象そのものに迫ることなのです。…中身が分かっていれば受け取りませんでした。」

 大変厳しい口調で、相手の好意にありがとうの一言もなし。…大人気ないよ! 言ってることはもっともだが、もうちょっと書きようがあるだろうに…(笑)よほど孤高の画家のプライドを傷付けたのでしょうか。。。
 いくつのときの手紙か、確認しなかったけど、大人の対応と思えない(笑)それとも当時の人の普通の手紙ってこんなに塩対応な文体が標準だったりするんだろうか? 絵文字が無いから冷たく見える、的な。
 ……でも近代の芸術家を一般常識で測っちゃダメなときってありますよね、前後の文脈とか、2人がどれだけ仲良しかも分からないしね、うん。
 とりあえず、この手紙1枚では、好感度はすごい下がった(笑)

 限られた展示品から垣間見た画家の人柄的なことは、事実ではなく、あくまで私の好感度と印象にすぎませんので、置いといて。

 静物画は素敵で、とても真面目な絵だけれど、つまらない絵ではない。
 柔らかい均質な光の中で、壺や果物、細かい模様のある布地など、画面のすべてに、やはりほとんど均等に、忍耐強く精確に筆が行き届いているように見えた。
 初期にあった歪みや、ピリピリした傷みは消えて、すごく安定感がある。初期のグロテスクな罌粟の花も結構好きだったけど。

 リアルなカラスウリの実のリズミカルな存在感。
 このからすうりが一番好きかも。からすうりの朱い実同士の絶妙な遠近感と、背景の壁に落ちる影。枯れて軽くなったカラスウリの浮遊感と、モノとして重力に引っ張られている重さ・軽さ。

 時々、いくつかの静物を並べるときに、一つのリンゴや、謎の小さな真珠なんかが、ちょうど中央に置かれたりする。ちょっと意味ありげな構図です。

 割れた赤絵の皿は、素敵なモチーフ。
 偶然割れたお皿を描いたものか、モチーフにするために割ったものか。。。

 暗闇のなか火の灯った蝋燭一本、というモチーフは、生涯のどの時期にも描かれています。販売用ではなくて、私的に描いて親しい人に送っていたのだそう。
 その蝋燭が初期から後期までずらり。
 どれも殆ど同じような構図、同じくらいの大きさ、同じような色彩。
 でも全くのコピーではなくて、ちょっとずづ違う。初期のは例の執拗さを以て、戦後はかなり様式化させて。
 仏教に傾倒した方なので、宗教的な意味が強いのかも知れない。けど分からない。
 他に、小さな煙草と煙草の煙とか、似たような性質を感じます。

 割と画面を均質に、あまり絵の具を盛り上げたり筆触を派手に残したりしないで仕上げるのが好きな画家ですが、「光」を描くときは別で、蝋燭の炎は、かなり絵の具の盛り上げが目立っています。

 この光そのものを盛り上げて描く遣り方は、林の間から放射状の強い光を投げる太陽にも使われていた。むしろ、それにしか使われていないような勢い。
 何か光の持つエネルギーを表しているのでしょうか?

 晩年の月の絵は、超シンプル。
 雲一つないスモーキーな青緑色の夜空と、アイボリーの月。だけとか。
 空と月を縁取るようにちょっとだけ黒いシルエットの枝葉があるだけ、とか。
 これだけで絵の間が持つのだから、それはやっぱり孤独に積み上げてきた画業の、徳のようなものの為せることよね。

 さて、思ったことだらだらと描き連ねてしまった。頑張って締めの言葉をずっと考えていたのですが、一向に思い付かないので、打ち切り感満載で筆を置きます。

拍手[0回]

PR

Bunkamura、俺たちの国芳わたしの国貞展

若林奮展のあと、ところ変わって、Bunkamuraの国芳と国貞展をはしご。
 前記事の若林奮展と、在り方とテンションが全然違う(笑)

 こちらは少しお祭り騒ぎ。

 ポップカルチャー寄り、というか現代の漫画やその他エンターテイメントのご先祖様、みたいな扱いで、時代は江戸末期(でももう19世紀も半ばだから、結構最近かも。)と隔たっているものの、ひょっとして現代彫刻家の若林奮よりずっと身近かも知れない。

 プロジェクションマッピングなんかが会場を盛り上げていたりして。
 「俺たちの国芳わたしの国貞展」というタイトルに若干の押しつけがましさを感じつつ。
 このパワフルな圧力も、美術館側で演出したかったのではないか、と解釈する。

 全部で150点余り。とにかく綺麗な刷り。見応えはあり。
 すごく楽しめました。

 美術館側は、「国貞と国芳、ぜひ比べてみてね」なんて言っていました。
 私にとっては、国芳の方が共感があるかなあと。
 国貞は、役者のいわば肖像画が得意なのだけど、役者本人を知らない以上、水滸伝や八犬伝といった漫画みたいに派手な物語が展開する国芳の方が、物語性、ファンタジー度が高くて。

 しかし一番印象に残っているのは、、、実はテンション高すぎな解説キャプションだったりします(笑)

 ポップでキャッチーを狙った分かりやすい説明書きなんだけど、それに文句は全くないけど、その悪乗りというか、酔っぱらった上滑り感に思わず笑っちゃう。

 漢字のルビに英語の語彙を使うレトリックが鼻に付くなぁ~(←褒めてないけど、貶しては決してないです)言いたいことはよくわかる。

 全体では、ご衣裳格好いい。
 揃いのシックな着物や、ド派手な衣装や浴衣。
 ベロ藍は不思議と目を引く綺麗さ。

 そして、やっぱりのお土産のテンションの高さ。
 この調子で次のトワル・ド・ジュイのお土産も頼む!まじで。

拍手[1回]

うらわ美術館、若林奮―飛葉と振動展

うらわ美術館。彫刻家、若林奮 飛葉と振動展。

 彫刻作品と、その為の思考実験のようなドローイング。
 右図は、展示されてた作品の記憶による(笑)再現。
 タイトルは泳ぐ犬。とかそんな感じ。鉄の犬が紫檀の台に埋められている。

 作品はどれも、抽象と具象の間で、結構哲学的で、分かったような分からないような。
 全体でテーマは「形にならないものを刻む」という感じ。

 例えば、ぽこぽこした球体が重なって、水蒸気のモクモクを表しているらしい作品。ちょっと正確なタイトル忘れたけど「犬から発生する水蒸気」みたいな…。
 犬の姿はなく、恐らく、水蒸気を表しているらしいモクモクに覆われている。
 別の作品にも犬というタイトルがあって、犬らしきものは見えない。
 ただし、だからといって、単なる言葉遊びや、適当な人を食ったタイトルで笑わそうという代物ではなく、見えないけれど「犬がいること」はこの彫刻作品の大切な要素なのです。


 例えば、自分と対象の物理的ではない、空気だとか何やかやで隔てられている「距離感」。それは、「風景」を彫刻するという形になって顕れる。
 時折、手形のようなもの、指先のような穴があいていて、それが観者の手=鑑賞の出発点・計測地点として機能しているようだ。

 ものと人との括弧つきの「距離感」、彫刻では表せない周囲の空気や雰囲気の存在感は、庭のモチーフへと発展していく。
 実際の庭の設計模型と作庭された写真。それに関するドローイング。
 (何でもいいけど、庭園って存在は、やっぱりいいものですね。庭ってだけで、判断停止的に好きだ。)

 例えば、その大部分が地中に埋まって、ほんの上部だけが実際に見え、その地中の姿を観者が想像するるいるという作品。やはり、見えないことも大切な要素。
 
 
 ドローイングは、立体作品の準備やコンセプトを書き留めたものだったり、やはり具象と抽象の間で、遠近法を想起させる分割線とか色の境目とか、抽象的なものの中に、犬とか木とか人とか、具象的なものがときどき混じっている。
 定かな意味はよく分からないけれど、何だか分かる気もする。
 そんな絶妙な具合です。

 どうやら犬は重要な意味を担うモチーフで、何かしかの記号であるようだけれども、定かな意味はよく分からない。
 どの犬も静止していない。走っていて、泳いでいて、山から駆け降りてくる。

 色はまるで12色のよくある水彩画セットから選ばれたような、ありふれた、既視感を覚える色。
 だけど、ちょっと綺麗で、静かな共感を呼ぶ。


 意外と、沢山の挿し絵や、本の装丁を手掛けていて、これも抽象と具象の間の感じ。
 これもやっぱり「あー、こういう何か意味深な感じの、ちょっと抽象的な絵の表紙よくあるわー」と、けっこうピッタリ。このはっきりした意味は分からないけど、分かる気もするっていう絶妙な具合が。

 多分、全てつまびらかであってはならないのだろうし、全くシュールな、現実の人間の感覚を超えたものであってもならない。やっぱり「確かに存在するけど、大部分地中に埋まってる」ぐらいを狙っているんだろうな。


「分かる(あるいは、分かるような気がする)ことの向こうに、沢山の分からないことが、知覚は出来ないけれど、でも確かに存在する」という感覚を、作品化しているんじゃないかな、と私は思った。

 それは確かに、明確な答えしかない世界よりは、真実らしいと思える。

 というようなことを分かったかも知れないけれど。

拍手[0回]

東京都美術館のボッティチェリ展感想

一番初めから、いきなり感動した!
 
サンドロ・ボッティチェリ〈ラーマ家の東方三博士の礼拝〉
 照明の成せる技なのでしょうか? それとも作品保護のために我々を絵と隔てる透明な板きれのせい?
 一体、何の作用なのか、そのテンペラ画は、それ自体が内側から輝いているように見えました。
 一目見て極美。
 右側に橙色のトーガのような衣を纏って、堂々と立つ人がボッティチェリ本人だと言われていますが、なるほどのしたり顔。 


 主題は、東方三博士の礼拝。

 マリアとキリストの前で、礼拝者たちとして描かれている、メディチ家など現実当代の貴顕たち。

 その華やかな権勢と、衣服に散りばめられた色彩の極美の輝き、それと仄めかされる現実世界の政治的意図に気を取られて、主題そのものの物語画として見るのは忘れてしまった(笑)

 なお素敵なことには、その絵の隣で、メディチの若者を描いた準備素描なんかが展示されてて、完全に赤い服を着て、最も目立つ位置に立つその人に気をとられる。

 マリアとキリストの顔覚えてないもん。

 うーん、もう一度見たい。


 展示は、おおよそ時代順。

 ボッティチェリのパトロンのメディチ家関連と、ボッティチェリと同時代の、ポライオーロやヴェロッキオの絵画や工芸品から、始まります。

 そしてお師匠のフィリッポ・リッピ、続いてボッティチェリ本人が登場し、その次にフィリッポ・リッピの息子にして、ボッティチェリの弟子のフィリッピーノ・リッピの時代へと移っていきます。
 つまり、フィリッポ・リッピ→ボッティチェリ→フィリッピーノ・リッピ、という時系列です。

 こういう、系譜を辿る系、大好き!

 時代順にも関わらず、一番最初にボッティチェリ凄いんだぜ!って絵が展示されてて、出だしは素敵な演出だったなぁ。

 はてさて。

 お師匠さんのフィリッポ・リッピ。

 リッピからの影響云々は、前に都美であったルネサンスのフィレンツェと工房、みたいなテーマだったウフィッツィ展の時のが、きっぱりとリッピの聖母子をパクった(笑)絵が出ていたので、そっちの方が分かりやすかった。

 でも前の展示に来て気に入ったリッピの受胎告知の4枚パネルとも再会。これ、背景の青が人物によく映えていてとても好き。

 この父リッピのコーナーにあった、ボッティチェリの薔薇園の聖母が綺麗でした。

 おそらくたそがれ時、少し金色になった空が、薔薇や木々の枝葉の間から透かして見える。

 ボッティチェリって、美人さん描きで、それは間違いないけど、それ以上に、光の描写に極美のセンスがあって、人の肌や、布の繊細な明暗、そして夕暮れの空なんかに、そのセンスの輝きが詰まってると思います。

 まあ、夕日にシルエットは大体鉄板ですが、夕日にシルエット好きだーーー。


 ボッティチェリは独立後、自らの工房を構えました。

 売れっ子ボッティチェリなので、きっと沢山の子弟を抱えて、沢山の仕事を捌いたんだろうなぁ。

 ボッティチェリやっぱり難しいな、と思うのは、「ボッティチェリ」作と、「ボッティチェリと工房」作で、結構クオリティが違うところ。

 ボッティチェリ工房だって多分高品質なんだろうけれど、ボッティチェリ本人の筆と比べると、やはり見劣りがします。
 例の光のセンスが足りないのでしょうか…。

 名前の分からない弟子の中でもきっと巧い下手はあって、前にも来ていたボッティチェリ工房のミカエルとガブリエルとヨハネのいる聖母子は、中でも綺麗です。

 今展示、屈指の美しさは、本人の筆になる聖書を読む聖母子。
 ボッティチェリ〈聖母子(書物の聖母)〉
 解説には「高価なラピスラズリや金を用い、入念な仕上がりで、重要な注文作と考えられる」と書いてあった。

 確かに。
 細かな小道具も、装飾豊かな光輪も、描き込まれた聖書の中身も、全く隙がなく。群青の衣紋の緩やかなグラデーションがひときわ目を引きます。

 それを引き締めるモノトーンの室内の壁。聖母の背中の(反射光が美しい!)曲線と、画面を引き締める窓の垂直と水平。窓の外は明るい空、と半分シルエットになっている木々。

 お値段高そう。画面が小さめなのも、単価が高いからだろうか(笑)


 ボッティチェリの〈アペレスの誹謗〉。

 過激にストイックなサヴォナローラさんが、メディチ家を叩き出して神権政治を始めた頃に描かれました。 

 古代ギリシアの高名な画家、アペレスが描いた絵をボッティチェリが再現した、というもの。
 もちろん本物の紀元前4世紀の絵の実物は残っていなくって、文字情報だけで描写された記述が元になっています。

 沢山の抽象概念が擬人化されて描かれている。

 身を固くして祈るように手を合わせた腰布1枚の男。誹謗と仲間たちに捕らえられ、 ロバ耳の王様(ミダス王?)の前に引きずり出されてしまっている。
 王様は、二人のたちの悪そうな女に耳打ちされていて、とても公正な審判を下せるとは思われない。
 老婆の姿の悔恨が振り返るのは、裸身を晒す、隠れるものの無い真理。真理は天上を真っ直ぐ指し示している。

 全裸の真理さんの色気の無さと言ったら(笑)

 まるで男性モデルの胸にちょっとした肉塊をくっつけただけのような。
 お色気で哲学的なテーマを乱したくなかったのでしょうか。やはりエロス禁止なサヴォナローラさんの影響か圧力でしょうか。

 とはいえ、 きっっっちり遠近法取ってます!って感じの、背景の凝った様式の建築が素敵で。

 私はローマ旅行で何度も飽かず見上げた、青空を背に陰を作るアーチ天井を思い出していたのでした。
 レモンイエローのアーチは、私の思うイタリアの (私の旅行は冬だったので、多分、冬のローマ辺りの) 光と陰って感じ。もちろんこれは個人の体験のみに基づくなんら普遍性のない感覚(笑)
 個人的な思い出のために、この絵が好きになりました。

 黒く描かれた建築の輪郭は、定規のようなもので引いたようで、そこだけ絵の具が凹んでいるのが見える。このわずかな凸凹感も好きだなぁ。

 解説には、ボッティチェリ個人の、何らかの誹謗に対するボッティチェリの反応・申し開きだろうとあった。 


 フィリッピーノ・リッピを時系列で沢山見れたのはよかった!

 前のウフィツィ展で、老人(父親かも?)の肖像が素敵だったリッピ。
 フィリッピーノ・リッピ〈老人の肖像〉
 その肖像は、描かれた人の表情も生き生きと、自然な光の中で親密な笑みを浮かべていました。

 それは陶版に描かれた、おそらく練習用といったもので、もっと気合いの入った作品はどんなものだろう、と気になっていたのでした。

 フィリッポ・リッピの息子のフィリッピーノ。父亡き後は、ボッティチェリの元で修行し、ボッティチェリのライバルにまで成長したという。

 ボッティチェリより年下なんですが、ボッティチェリより先に死んじゃうんだよねぇ(/_;)


 同時代では、ボッティチェリは「男性的」で、フィリッピーノ・リッピは「甘美」と評されたそう。
 男性的、というのは一瞬、いやー?と思ったけど、もっと現代語でいえば、理知的で、デッサンも直感ではなく計算してちゃんと描く、といったほどの意味だとか。なるほど。

 ボッティチェリは、輪郭というものをしっかり明確に取り、陰影は柔らかいものの、確かに硬質。
 一方、風景描写や静物表現で、フランドル絵画にも学んだらしいフィリピーノ。
 輪郭はより柔らかく、ボッティチェリと比べると、ほわんとしている。


 展示では、ボッティチェリの影響の強い初期から、影響を脱する晩年までありました。

フィリッピーノ・リッピ〈幼児キリストを礼拝する聖母〉

 正直言って、初期のボッティチェリ風の方が好みといえば、好み(笑)
 穏やかな風景、平和なお庭。衣紋のたっぷりした量感が綺麗だな。
 
 歌う天使のいる聖母子。

フィリッピーノ・リッピ〈聖母子、洗礼者ヨハネと天使たち〉
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Filippino_Lippi_-_Virgin_and_Child_with_Angels_-_WGA13078.jpg より

 子リッピは、音楽に興味があったらしく、いくつかの楽器を所有し、絵の中の歌う天使が持つ3声の曲の楽譜も正確なのだって。
 これなーポストカードあったら欲しかったのになー。

 YouTubeで、イタリア語の説明見つけちゃった。いや、最初、まさかあの天使の歌の再現か!?と思ったけどそれは期待外れだった(笑)そんな都合の言い訳ないよね。

 イタリア語、何言ってるか全然分かんないけど(笑)
 でも、この絵の遠近法の消失点が中央になく、ちょうど楽譜を持つ天使の辺りにあり、人が立つ位置も天使の正面らしいことが図示されてるぽい?


 しかし後期は、フランスのフィレンツェ侵攻やら、メディチ家の追放やら、サヴォナローラの神権政治と失脚、火刑やら、政治的な情勢不安を反映しているのか、ちょっとエグいめの画風に変化。
 
フィリッピーノ・リッピ〈マグダラのマリア(ヴァローリ三連画の両翼画)〉
 こ、これは怖い(((((゜゜;)

 ボッティチェリも、繊細美麗で美人なお姉さん画風を、神秘主義的で禁欲的で宗教的にアツい画風に変えてしまったので、フィレンツェ全体で華やかな気分から、どこか重々しい気分へと変わっていったのでしょうか。

 この展示には、全く出てきませんが、レオナルドやミケランジェロは既に元気に活動しており、この二人は確か、フィレンツェにいたりいなかったり。
 ちょうどフィリッピーノ・リッピが亡くなった年に、ミケランジェロのダヴィデ像が完成しています。

 多分、同意見の人は多いんじゃないかと思うんだけど、サヴォナローラさんに嵌まる前の、ルネサーンスな感じのボッティチェリの方が素敵だよねぇぇぇ。
 全部、サヴォナローラが悪いのだろうか。少なくとも、美術的な視点で見る限りでは、サヴォナローラさん極悪である(笑)


 そろそろ締めなくては。
 締め言葉が思いつかない。


 全体でとても良かったです。

 展示の流れもボッティチェリを中心に据えて、単純明快で分かりやすかったし、なによりも絵が、説明なくとも純粋に綺麗だ。
 ボッティチェリは、最も人気のある画家の一人と思いますが、その人気の理由も分かった気がしています。

 ところで、ルネサンスの人がよく被ってる、ターバンのような、布が垂れ下がったつば無しの帽子。
 あれは、mazzocchioマッツォッキオといふさうだ。

ボッティチェリ〈マッツォッキオを被った若い男〉

拍手[2回]

ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生展の感想メモ

Bunkamuraの風景画の誕生展の感想です。Bunkamuraでは会期終わっちゃってるけど、まだ他館に巡回するから、時効じゃないよね!?


 北方の細密な宗教画。
 縦横30cmに満たない小さな画面のなかの、髪の毛や布の細密な描写が美しい。
 金糸の刺繍の施された重たげな布。
 金の絵の具を使っているのではなくて、普通の黄色とか黄土色の絶妙な筆捌きで糸の質感と、金の輝きを再現してある。

 ティツィアーノの不思議な絵。

ティツィアーノ≪タンバリンを演奏する子供≫
 自然の風景、あるいは庭園のなかで、石のベンチ?に座って裸の子供がタンバリンを掲げている。背後では小さく猟犬が兎を追いかけている。
 何やら神話的で、寓意的で、謎めいた雰囲気。瞑想的とも言えるかも知れない。子供はあんまり可愛くはないですが(笑・子供の愛らしさを表現する絵ではないと思われ)、後ろの穏やかな光の中で豊かに茂る木々の織り成す色彩など、画面全体で調和したトーンが綺麗だな。
 シリーズものらしい。元ねたが何かあるのでしょうか。他のも見てみたいな。

 アンドレア・ディ・レオーネの牧歌的風景が、一番のお気に入り。

アンドレア・ディ・レオーネ≪ヤコブのカナンへの出発≫
 牛や羊を率いて荷馬車で移動する人たち。
 どうやら動物好きなようで、画面からは動物に対する共感がうかがえます。
 荷馬車の上には、賢しそうな猿。なんとこの猿が手綱を持って荷馬車を御しています。
 で、あーすごくいいなあーって思ったのが、羊たち。
 羊毛のリアルな質感表現もさることながら、一匹一匹共感を持って描かれ、表情も動き生き生きと豊かで、鑑賞者と目が合うように描かれています。

 サルヴァトル・ローザの≪アストライアの再来≫

 個人的に注目しているローザ。アンドレア・ディ・レオーネのお師匠らしい。
 17世紀のイタリアの風景画家です。現代ではマイナーではありますが、18世紀に非常な人気を誇り、19世紀もロマン主義運動の中、ロマン主義的な解釈により、ほとんど不当なまでに(笑)評価の高かった画家なのです。
 私も詳しくは知らないのですが、画家ながら、風刺詩を発表し、批判劇を作って自作自演したり、「既存の価値観に反逆」したり(多分この辺ロマン主義伝説)、画家兼詩人になる前は山賊だったり(完全に伝説)、色々とロマンチックでアグレッシブでクリエイティブでチャーミングなキャラクターらしいのです。
 つまり、絵そのものより、そうした神話に彩られた生き方とかが評価されて今に至るという訳で、伝説も超面白いけど結局、本当はどうなんだろう?どこまでが神話でどこまでが史実なんだろう?図版じゃなくて、とにかく本物の絵が見てみたい!と熱望しているのが、ローザなのです。
 能書きが長くなりました。
 で、肝心の絵。
 遥か昔、天上界へ去ってしまった正義の女神アストライア。女神が雲をまとって羊飼いたちの元に戻ってきた、という歴史的風景画。
 うーん……。
 正直に言って……なんか、肝心の人物描写が甘くていまいち。前に見た戦闘画は力強さと繊細さがあってすごい良かったんだけどな。
 もっと別の絵も見てみたい。

 レアンドロ・バッサーノの大きな画面の装飾画連作10枚。
 1年間の人々の営みを、それぞれの月ごとに描く12ヵ月のうち、10ヵ月分がずらり。
 こういうカレンダーの絵は、中世の昔から時祷書に描かれてきた伝統で、そうした写本装飾の写しが参考として並べられていました。
 各絵は大体横幅2メートル近くある大きさで、月々の農作業が、暗い青のトーンで統一して描かれてある。
 描かれた沢山の農民たちが、各月色々な農作業をしているので、彼らが何をしているのか、理解しようとすると、結構見るのに時間かかるというか、長い間見れちゃうというか。
 どこかの宮殿の大広間やギャラリーに飾られていたのでしょうか。美術館の素っ気ない壁にけられていても、十分な迫力。

 ベルヘム! 大好きなベルヘム。ローマの水道橋のふもとにろばに乗ったお姉さんがいる風景画。

ベルヘム≪水道橋の廃墟のある風景≫
 もとの絵は、同じく素敵なローマの廃墟のある風景を得意としたアセレインのもので、ベルヘムはそれをコピーしたようだ。

アセレイン≪らばのいるローマの水道橋の廃墟≫
 ただ並べてみたかっただけの、アセレイン。
 アセレインと比べると、アセレインのが、ぱりっとしていて、ベルヘムは筆致が緩くて、色も甘いめ。
 ベルヘムは登場人物を変更していて、ろばに乗った赤いスカートのお姉さんにしているのが、いかにもベルヘムって感じです。こんな感じのろばに乗った農家のお姉さんを、ベルヘムは良く描いているのです。
 こういうところがベルヘムのセンスなんだな。
 
 白い風景。雪の積もった森の中で、暖を取る流浪の人々。

ヘイスブレヒト・リテンス≪宿営する放浪の民のいる冬の風景≫
 この絵、かなり好きです。
 画面の大半を埋め尽くしているのは、葉を落とした木々の枝で、雪が積もって白くなっています。
 枝に止まる鳥や、火を囲み森で身を寄せ会う人々が物語を添えています。
 冬の厳しい寒さと、野生の森の危険は、白と銀色のファンタジックな色彩で美しく弱められている。
 ちょっとおとぎ話のような素敵な世界観がとっても素敵。
 この図版を探すため、リテンスの絵を検索したのだけど、この方、どうやらこの手の冬の景色や雪景が得意らしい。面白い!

 世界観で面白かったのは、ルーカス・ファルケンスボルフの山道。
 というか、これは漫画です。
 画面の左端、絵の中では一番手前になりますが、切り立った道の向こうから刀を振りかざす山賊と山賊の手下、彼らに追われている旅人が必死の形相で逃げてくる。
 劇がかった大げさな身振り。その面白いどたばた劇で絵の中に誘われて、彼らのいる高い崖の上から画面中央を見下ろすと、謎の採掘現場が現れる。
 おそらく砕いた石から金属か何かを取り出したゴミと思われる、黄色い泥水が、川を濁しています。
 いいのかな、環境破壊。その黄色い泥水、川に流して大丈夫なのか(笑)
 でもこの感覚は、多分、現代人のものでしょう。往時の人は、どんな気持ちでこの採掘現場を見たものだろう。おそらくギャップがありそう。
 さらにその向こうの画面右で、峻険なぎざぎざした山と、そのてっぺんのお城。ファンタジー。

 カナレットってやっぱりすごいな。

カナレット≪ヴェネチアのスキアヴォーニ河岸の眺め≫
 小さいながら、この展示中で一番の臨場感。これがカメラオブスクラの効果なのでしょうか?  それとも、もっと現実の遠近感より強調しているのかも?
 視点は高くもなく低くもなく、人の目のリアルな高さよりは少し高いかも知れませんが、とても自然で、画中の小さな人物たちと、こちら側の鑑賞者と同じ地面を共有できるよう。奥のものは奥へ、手前のものはぐっと手前へ迫ってくるみたい。
 それで、繊細な建物と、船やゴンドラ、軽快な人物の描写。
 あーヴェネツィア行きたい! サンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ聖堂とか行きたいよー。
 やっぱりカナレット好きだわー。

拍手[2回]

なんせんす・さむしんぐ

なんせんす・さむしんぐ
お越し頂き有難うございます
美術・音楽の話題を中心に 時々イラストを描く当ブログ
お楽しみ頂ければ幸いです。
道に迷われましたら、まずは
「ご案内」にお進み下さい。

忍者ブログ [PR]