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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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アンリ・ル・シダネル展感想

 ちらしの絵が非常に美しかったので、初めて聞いた名前だったけど、アンリ・ル・シダネル展に行って来ました。
 一言お詫び。ちょっと図版を用意するのに骨が折れそうで、ひとまず文章だけ挙げます。
アンリ・ル・シダネル参考図
画像はグーグル検索で引っかけたので、とりあえずはそちらをご覧下さいませ。雰囲気はきっと伝わるはず。

 
 簡単にル・シダネルという人について、覚えてきたばかりのことを。
 時代はだいたい十九世紀後半から第二次大戦前まで活躍した人で、モネやルノワールなど印象派の次かその次世代くらいの人だそうです。
 その穏やかで親しみやすい画風から、生前は絶大な人気を誇っていたらしいのですが、多分それ故に現在は半ば忘れられてしまったようです。――何しろ芸術の殉教者でもなければ、ミステリアスな画家でもない、呪われた画家でもないし、絵画の革命家でもないのですから、昨今は流行らないという訳です。
 美術史の流れでは、「親密派」という流派に分類されるようです。親密派とは、家族や子供、家庭の室内や食卓、庭など、多くの人にとって身近なテーマを好んで取り上げた画家をいう言葉。
 まあ、別の立場から悪意のある言い方をすれば小市民的といえますが、それはまた別のお話。
 
 さて、親密派といえばボナールやヴュイヤールが筆頭として挙げられますが、彼らに比べると我らがル・シダネル描き方が真面目だと思います。真面目というか…、つまり、ものの形は目で見えるそのままに取り、大胆なデフォルメとか強調とかジャポニスムとかお洒落なことはしません。
 まあ、時代はいわゆる前衛美術が華々しい頃で、既に美術の新しい流れは、そちらの方に傾いていた一方で、ル・シダネルはどちらかと言えば形の取り方から言えば古典主義の生き残りのようでした。
 同時代にあって美術の革新には直接には貢献しなかった、ということで現在はやや無視されがちなのかも知れません。多分それ故に同時代にあって人気を博したのではないでしょうか。前衛という未知との遭遇より、慣れた旧来のものの方が好ましいと感じる人は多いものです。
 
 ル・シダネル独特と言えるのが、室内や庭園を描いた画中に人物が全くいない事。だからといって、居るべきはずのところに誰も居ない寂寥感やシュールさは全く感じません。
〈テーブルの絵など〉
 しかし、「どこかに人の気配がある」と繰り返し説明されていた通り、画面は我々の日常の空間と地続きであり、その日常の一角が画家の精神を通り抜け、筆によってカンバスに写されています。
 そこで切り取られた画面には、何かプラスの感情が漂っているようです。その感情とは…ぴったりの言葉が思いつかないな、自らの築きあげた生活への賛美や噛みしめるような愛着と言えましょうか、でも言葉で言うほど大袈裟なものではなく、目の前のものをいとおしむ気持ち。
 そして、その喜ばしい瞬間瞬間は二度と戻ってこない、それ故の愛情。
 画面に誰もいないから、かえって親近感を呼ぶのかも知れません。何ものかを特定させる情報がない替わりに、誰のものでもある日常。それも、労苦や不安とはある程度無縁の日常。さりとて絶望的に遠くの理想郷でもない。そこにいてそこを視ているのは、絵の前の鑑賞者なのです。
 
 しかし、私の興味をもっとも惹いたのは、色そのものでした。
 ときに印象派の影響が顕著な色斑を連ねる描き方を採用するシダネル。
 その手の描方は、もちろん印象派風に、近付けば何を描いたか判別出来なくなります。判別出来なくなって、ただの色の連続と化したとき、その視野いっぱいに収まる色の、互いの響き合いが極めて美しく調和しています。
〈白の静物画など〉
 色の調和は画家の最大の関心事の一つだったようです。
 
 そのトーンは、多く明るい灰色を基調とします。ただの灰色ではありません。藤色、桃色、肉色、萌黄、浅葱、など微妙な中間調の混じるあらゆる種類の灰色です。
 それを画家は決して印象ではなく、もっと深慮をもって、選り抜きの色を一つ一つカンバスに置いています。
 そのような灰色の点々は、ある程度規則正しく並べられ、あらゆる灰色で埋められた画面は、離れて眺めると、全てが混じった輝かしい灰色になります。このような灰色は見たことがありません。
〈月夜のテラスなど〉
 
 黄昏や月夜など、薄明を好んで描いたというル・シダネル。そのような風景は自ずと太陽の光に紛れて隠された何事か世界の神秘を語っているように見えるものですが、そのことを意識しながらも、殊更声高にでもなく、彼は自然体で描写しています。己の声でその世界をかき乱さない。
 もちろん全てが薄暗く灰色という訳ではありません。黄昏に漏れ出る誰かの家の灯火が、灰色の中に、特別に鮮やかな色で差してあり、視線をそこへ導きます。
〈運河の家の絵、雪中の家の絵など〉
 それはしばしば現れるモチーフの一つ。
 
 手ずから作った自宅の庭園は今でも観光名所なほどの力の入れようで、まさに夢のような庭園。いえ、そもそも庭園というものには、人の夢を託すものです。
〈夜のあずま屋と咲き乱れる薔薇の絵など〉
 呼び物の一つであった大きなカンバス。月光に映える薔薇とは、記号としてはロマンチックとも言えますが、「蒼白く病める月の下で、陶酔の中に死んでゆく薔薇」みたいな感傷に溺れることはありません。因みに、引用元はポーの詩(笑)正確な引用ではないが、こんな感じのロマンチック描写に出会いました。
 
 晩年はヴェルサイユに暮らし、華やかでない庭園の一隅の絵など描いていたとのこと。
〈苔むしたサティールの絵など〉
 昔の栄華を知るも、今は忘れられたようになっているサティール。
 彼は今を描きますが、そこに感じられる過去の蓄積を愛していたようです。
 そうして描き出される絵は、決して「昔は良かった」という後ろ向きのものではなく、「過去を経た今がいい」という肯定。押し付けるでもなく、声高に説得するでもなく、流れてきて二度と戻らない時を愛でながら、今を生きるささやかな讃歌。
 アンリ・ル・シダネルの絵を通して、そのような価値観を追体験(あるいは擬似体験)することは、見る人の心に、穏やかな憩いと慰めをもたらすことでしょう。


 と、なんか上から目線にきりがよい感じになりました。ちょっと大袈裟な物言い。そんな大袈裟な絵ではないところが持ち味なのだけど。
 個人的で、おそらく誰にも伝わらない感想は、「クープランの<三人の寡婦>はこのような絵のテーブルを囲んでいそうだな」。それは、私の空想にのみ寄るものだから、もちろん掘り下げません。
 この記事をひと言で要約すれば、気に入った、とくに色遣いがまろりー好み、なんだけどそれじゃあ自分の備忘にならない(笑)

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