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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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森アーツセンター 世界遺産ポンペイ壁画展

最終日に滑り込みしてきました。

 ヴェスヴィオ山の噴火は、ポンペイなど周辺の町に甚大な被害をもたらしました。
 降灰、火砕流によって、ポンペイやヘラクラネウムは、町の建物と一緒に古代ローマの生活まるごと埋もれてしまった。

 それが、18世紀になって地面の下から新たに発掘されると、この発見はヨーロッパ世界に大きな衝撃を与え、一大社会現象となり、古典古代ブームを巻き起こし、新古典主義の隆盛に一役かったのでした。

 その18世紀の人々も驚かせたような美しい壁画の数々、それを「古代ローマはこんな優雅な生活水準でしたよ」みたいな歴史資料ではなく、あくまで絵画としての視点で光をあてた展示でした。
 だから、注目されるのは、歴史や社会背景云々より、様式や描かれたるもの。
 美術史大好きな歴史弱いめ人間なので、ポンペイの壁画の様式の変遷の詳しい説明は、大好物でした。むしろこういうの求めてた…!

 およその時代順に第1様式から第4様式まであって、一通り実物を見ることが出来ました。(ただ、ポンペイ周辺だけに的を絞った展示なので、この第1から第4までの様式が、ナポリ限定なのか、ローマの壁画美術全体に言えることなのかまでは、分からなかった。これは要勉強です。)

 一応様式の見分け方メモ。

●第1様式 前2世紀~前80年くらい
 漆喰に色大理石風の模様を描いたもの。
 これはギリシアの宮殿建築の模倣で、本物の大理石で化粧張りすると非常に高価になるので、漆喰で安価に再現しようようという意図。

●第2様式 前80~前15年くらい
 建築モチーフをだまし絵的に描く。
 後のルネサンスほど、正確な遠近法を用いる訳ではないが、現実世界と壁画の世界がひとつながりとなるよう描かれている。
 そして壁画の遠近法の奥に、神聖な空間が続いていることを暗示している。
 モチーフになるのは、舞台装置や祠(アエティグラ)。
 たとえば、天井の梁や格子模様とか。描かれた柱と柱の間に、鮮やかな青空を背景に、見上げる視点で神殿を描いたり。柵が描かれて、その向こうには庭がある。とか。

●第3様式 前15~後50
 うってかわって平面的で装飾的になる。
 グロテスク模様や花綱飾りで平面を軽快に区切り、空想的で遊戯的な画面構成。
 そうして出来た空間の真ん中に、画中画として、完結しら風景画や神話画を描く。
 
●第4様式 後50~
 今までの第1~3様式までの美味しいところ総取り。全ての様式が一度に盛られるようになる。
 第3様式の平面的な構図をベースとして、第1様式の色大理石模様と、第2様式のだまし絵的建築画が部分的に見られる。ネロの黄金宮がこの様式らしい。
 
全体の感想。
 完全に倒錯した感想だけれども、ルネサンスのフレスコ壁画みたいだ、と思った。

 もちろん、ローマ時代の壁画がルネサンスっぽいのではなく、ローマ時代の壁画を手本にしたルネサンスがローマっぽいのだけれど。
 
 それから、バロック時代にも受け継がれた古典的な建築の要素とかが、古代ローマの壁画の中に描かれていた。

 特に印象的だったのは、建物の屋根に謎の(笑)彫像が等間隔に並べられているものとか。ほら、バチカンの楕円の回廊の上とか、カンピドーリオの丘のカピトリーニ美術館の上とか、いっぱい人物彫像が立ってるじゃない、あんな感じのやつ。 (的確な専門用語で何て言うんでしょう?笑)

 この倒錯した既視感。
 いったい、どこでどう繋がっているんだろう?

 目の前にあるポンペイの壁画は、ルネサンス時代にはまだ発見されていない。だから、例えばネロの黄金宮とか別のローマの壁画がルネサンスの装飾に取り入れられた。

 他に具体的に何が手本なのか、私は知らないのだけど。

 そのルネサンスの人達が見た古代ローマの壁画と、私が今見たポンペイの壁画が、どんな風にリンクしているのかは、私にはまだ分からない。

 でもともかくも、古代ローマ時代の壁画は、ルネサンスに新たな解釈を加えて復興され、それが伝統となった18世紀に、またポンペイの壁画が当時の人達の前に姿を現し、再び古代ブームを呼ぶ。

 このループ堪らないなあ(笑)


 人間の背丈を超す大きさの壁画が、床に垂直に立てられ、当時を再現するように展示されたりして、そういう図版を見ただけでは分からない、大きさ、遠近感といったものが体験出来て、見に行ってよかったな、と思ったのでした。


 一番好きだったのは、神殿のある風景が描かれた壁画。その名も「牧歌的神域風景と静物」。小高い丘に大きな門があって、その向こうに神殿がある。遠くにはイタリアらしく真っ直ぐ高く伸びる糸杉。←糸杉は私にとってイタリアへの憧れを掻き立てる存在なのです。

 第3様式の画中画だけがそのまま切り取られたもの。発掘された18世紀の額装で展示されてる。それは装飾のないシンプルな茶色い枠で、他にも同じような額のものは当時の発掘物なんだろうか?

 理想の庭園を描いたものの一部を切り取ったものなども。
 鳥は種類が分かるように描かれ、エジプト趣味を反映したコブラvsアオサギ図などもあった。やっぱり異国情緒って大事な要素よね。

 ナポリ王国主導で行われた18世紀の発掘というものは、多分に美的な判断が行われていたらしい。
 というのも、枠にいれて絵になるように、壁画をトリミングしたり、同じ壁画の別の部分を綺麗に組み合わせたりして、ちょっと作ってしまう。
 そして、不要な部分(!)は運が良ければ人手に渡り、しかし大半は砕かれて棄てられた、の由。
 うわー現代からは考えられない発掘法(笑)

 買ったポストカードでも。

 踊るマイナス。テュルソス杖を片手に透ける衣を翻す姿。この透けてる感じが素敵!
 やはり第3様式の一部。18世紀の発掘品で、当時版画化され、広く知られることとなった。この図像はさっそく当時の建築モチーフに取り入れられたそうです。

 

 お食事処の壁画。
 フェニックスと孔雀が描いてある。第4様式の一部。

 PHOENIX FELIX ET TUの文字があるのがすごく気に入った。

 フェニックスは幸せだ、そして君も。

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西洋更紗 トワル・ド・ジュイ展感想

トワル・ド・ジュイ(=ジュイの布)

それは18世紀に、ヴェルサイユ近郊の町、ジュイ=アン=ジョザスで生産された布で、コットンに木版や銅版で色々な模様がプリントされた素敵な布。

 ごめんなさい!参考図版はトワル・ド・ジュイ展のホームページで願います(>_<)
http://toiledejouy.jp
 いや、正直…ネットで拾える図像が、18世紀のオリジナルの布なのか、現代の普通の製品なのか、見分けがつかなくて(笑)


 以下、細かい内容メモと、展示の感想です。

 この展示の出発点は西洋にも日本にも、エキゾチックかつ馴染みのある、インドの布地。
 洋の東西を問わず、いつだって、外国のエキゾチックな文物は大いに歓迎され、珍重されるものです。
 トワル・ド・ジュイの源流には、そんな憧れと神秘の土地、東洋があったのでした。

 インドでは古来から染められてきた木綿の染め物=更紗ですが、17世紀になって、それに目をつけた東インド会社が大量に商うようになりました。

 展示資料は……うまいところ目を付けたなぁと思います。なぜなら、近世のインド更紗は、日本にも博物館資料が残っているから。海外から持ってくるより、展示物が集めやすいのではないかしら…。

 赤毛人、つまり西洋の商人が貿易で日本にもたらしたインド更紗は、もちろん日本でも大人気。

 西洋人の姿を描いた掛軸の表装が、西洋人のもたらすインド更紗だったり。(イメージぴったり!)
 貿易記録として残してある端切れサンプル帳や、コレクション、また、襦袢に仕立てられ、棗入れや巾着となった形でも、その昔西洋人を魅了した18世紀辺りのインド更紗が、大事に保管されて沢山残っている。
 豆本の形の端切れ見本とか、繊細な出来栄えにかなり感動した。趣味の極みって感じ。

 インドの柄は、たしかにエキゾチックだけれども、繊細な唐草模様や花鳥文は、普通に、今すぐスカートにでもカーテンにでも、なんでも使えそう。
 しかもエスニック調とかそういう癖のある感じじゃなく、日常生活にそこそこ馴染む形で。
 生地屋さんで今も買えそうな親近感。(笑)

 それもそのはず、制作者たるインドの側でも、輸出用に外国人好みの模様をプリントするようになったということです。
 いや、今そのまま売っても普通に売れるって。

 多分、18世紀のフランスでも「外国のセンスが素敵で、しかも使いやすい。コットンだから洗濯も楽ちん。」という感覚は、あまり変わらなかったんじゃないかと思える。

 さて、この「ウォッシャブル」という機能は、それまで羊毛や絹で服を作っていた西洋人にとって衝撃だったとか。
 …えーーなんとかして洗ってるものと思ってたけど、上着は洗ってないの…! いや、その辺の洗濯事情気になるよ? 


 さて、東インド会社が交易するインド更紗は、フランス国内で余りに売れすぎたため、1686年から1759年まで、「インド更紗禁止令」が出されてしまいます。作るのもだめ、輸入もだめ、服に仕立てて着るのもだめ。

 外交戦略なのかな。東インド会社をぼろ儲けさせ、国内の他生地産業が駆逐されてしまう恐れがあったのでしょう。

 が、素人目に見ても、良策とは思えないこの法令は、結局、関連産業の技術の発展を妨げ、密輸を増やし、国内自給率を下げてしまったそう。
 ついに解禁されたときは、産業革命を迎えた18世紀後半。
 早速、みんな大好きなインドの更紗っぽいものをフランスで作ることにしたものの、長らく禁止されていたため、フランスには技術者がいなくなっていました。

 そこで、更紗工場に投資しようと目論んだ銀行家コタンは、スイスから若き染色職人のクリストフ=フィリップ・オーベルカンプを招聘します。
 技術はあれど資金のないオーベルカンプは、コタンの出資により、1760年、わずか5人の従業員とジュイ・アン・ジョザスで工場を始めました。

 そこはヴェルサイユ近郊の村。染料を洗う豊富な水があり、布を乾かす広い草原があり、そして華やかな顧客たちからも近い土地だったそうです。

 当時の工場の様子が伺える資料が2点。
 ナポレオンが工場を視察しに来たときの様子を描いた絵と、製造過程がデザインされた柄の製品。
 製造工程柄って面白い。色々な職人さんたちが働いている生き生きとした模様でした。

ジャン・バティスト・ユエ〈ジュイ=アン=ジョザスのオーベルカンプの工場〉

 (少し気になったのは、どちらの図像にも息子を伴って描かれていたことで、多分現実にいつも息子と一緒の場面が見られたのだろうけれど、親父と幼い息子だけが仲良く登場ってちょっと珍しいかも、と。母親と子供セットはよくあるけど、それに比べると父親とセットって少ないように思うのよね。
 時代が時代だけに、ルソーの教育論(イクメン推奨)にでもかぶれたんだろうか、とそぞろ思った。ま、完全に当てずっぽうで(笑)考えても答えは出ませんけど。)


 インド更紗を模倣して、木版プリントから始まったトワル・ド・ジュイ。

  東洋イメージは得意分野です。
 創業者手ずから版木をデザインしたという、当時流行の中国風東屋の間に中国人風の人物がいる図柄が愛らしい。
 また中国人の優雅な魚釣り図とか。素朴味のある木版と、中国のファンタジーがよく合っている。

 「中国の瓦屋根型文様」という柄が、大好きだった。かなり不規則に鱗や瓦のような区切りがぐちゃっと重なっているデザインで、その瓦の間に鳥や草花が描かれている、賑やかでややテンションの高い図柄。
 こういう非対称に崩れた幾何学?模様ってやっぱりいいなー。私が何でロココが好きって、こういう容赦なく非対称なセンスにもある訳です。

 素朴な木版、とはいえ、細かいドットで装飾的な中間色を作ったり、遠近感を出したり。
 木版でドットって…版木はひたすら点々を残して周りを彫ったってことだから、結構版木作るの大変そう。


 そして後に、デザイナーとして王立絵画彫刻アカデミー会員、実力派の動物画家、ジャン・バティスト・ユエを起用。ユエはブーシェの孫弟子だそう。
 目の肥えたヴェルサイユの客たちに対する、ジュイ製品のデザインの高い意識が伺えます。

 トワル・ド・ジュイというと、代表的な模様は、そんなユエがデザインした、銅版印刷による、いかにもロココ調な廃墟に羊飼い、農民の暮らしや田園の楽しみやp優雅なお散歩など、繊細な陰影がより写実的で、ストーリー性のある単色の模様。

 だけれど実は、インド更紗を模した木版印刷の方が、もっと図案化された柄が多いそう。
 いわれてみれば、そういう柄の方が使いやすい。

 一連の黒地に小さなお花の模様は、大ヒットした図柄だそうで、同じようだけれど、少しずつ違うデザインがいくつもありました。

 その名も「グッド・ハーブス」(何で愛称は英語なのかな?)
 何がグッドかというと、お金的にグッド=よく売れる、という意味らしい(笑)

 黒い地によく馴染む暗い緑色と、小さなお花の鮮やかな赤や黄色。
 色彩としては、ウィリアム・モリスの可愛いやつ、みたい。


 その隣に展示されているのは、グッド・ハーブス柄の生地を用いた黒いケープ。
 可愛い! 手縫い! 一体何メートル手縫いでフリル寄せてるの!(笑)

 なるほど、派手からず地味からず、結構使いやすそうな生地だなぁ。

 さらには、ジュイ布の軽快なローブ・ア・ラングレーズが展示されていました。

 記録から、マリーアントワネットがこのような感じのドレスを持っていたと推測されるそうです。
 一国の王妃が、木綿のプリント生地という質素な装束を纏うのは、革新的なことだったということです。

 王妃らしからぬ、臣下のものと大して変わらない格好。長らく見た目で身分を表す機能を担ってきた衣服が、快適性に道を譲ったってことかなー。人間的な世紀だもの(笑)、美しく装うことは人間的なことだけど、人体が服に押し込めらてしまっては人間的ではないものね、うん。

 同じ空間に、キルティングのスカート。それと、赤い薄手の綿布を用いたアンピール様式の軽やかなドレス。これなら、あと一歩で現代にも着れそう。

 和服の襦袢もだけど、服飾ねた、大好きです。
 具体的にものがジュイ布で作った服が遺っているっていいな。どれくらいの値段で作れたのかな。

 さて、いかにもジュイ布という感じの繊細な銅板印刷柄。

 廃墟に羊飼い模様とか、いやもう、廃墟に羊飼いって最強でしょ。

 伝統的な主題だった牧人のいる風景。この展示ではそうした「田園趣味」を一応のテーマとして、それがファブリックという、公共向けの商品にどのように展開されたかを追います。

 過去に何度も書いているけれどもまた繰り返すと(飛ばしていいです、この下り・笑)
 ざっくり田園というのは、理想郷・悦楽境を想起させる記号です。

 そこは人間と自然が理想的に調和した美しい場所で、無垢で満ち足りた人達が暮らしているとされるのでした。
 大切なのは、彼らは家畜の世話や農作業の合間に、自由に恋愛をし、笛を吹き歌を歌って過ごしていることです。


 古代ギリシアやローマで「快適な場所」として謳われた田園。その後、キリスト教的な意味でエデンの園や無垢な羊飼いというイメージが乗っかり、古典復興のルネサンス以降、西洋世界で絶大な憧れを掻き立てて止みませんでした。

 18世紀までは、まだ大規模に発掘されてなかったローマのフォロ・ロマーノで、半分土に埋もれ、草木にまみれた廃墟の間に、牛が放牧されていたそうです。まさにリアル・アルカディア。

 18世紀初頭でも憧れであり続けた美しく自由な田園。

 世紀後半にかけては、抑圧された人間関係や環境汚染で暮らしにくい「都市」は悪で、そういう人間の手の余り加わらない「田園」は善という対比が鋭く強調されて、田園趣味に磨きをかけます。

 さて、1738年に古代ローマの町ヘルクラネウムが、1748年にポンペイが新たに発見されると、それで巻き起こった古代ブームやら、イタリア旅行ブームやらが、伝統的な田園趣味に合流します。


 この時代の田園趣味って、18世紀の夢が全部詰まってるよね。
 それは、アルカディアの夢をもはや見られなくなった現代人にとっても、まだ十分(現代人なりにも)通用する夢だと思うのよね。

 脱線した。


 気球柄は、時事ねたを盛り込んだ柄。水素式熱気球の有人飛行に初めて成功した事件を受けてのデザインです。
 面白いのが、地面に降りた怪しい物体(潰れた気球)に、地元の農民たちが襲い掛かっているシーン。本当のエピソードなのかな~。襲ってる農民の啓蒙されてない感じに滑稽味があります。

 興味深い、アメリカ独立に関連する柄など。
 自由の擬人像が描かれた古典調のメダイヨンと、その周りに田園柄が配されている。田園=人間らしく自由に暮らせる心地よい場所ってメッセージと受け取っちゃう(笑)


 こうした銅板のデザインには、しっかり時代の流行が反映されていました。

 いかにもロココ調な、庭園の木々が不規則気まぐれに図柄を縁どるような模様から、展示の最後の方は、メダイヨンや古代のモチーフが垂直水平に配される、幾何学的なデザインへ。

 ユエさん、きっちり時代に乗るいい仕事してる!

 とはいえ、誤解なきように言えば、そもそも、ジュイ布発祥の時代って、ロココの盛期は過ぎようとして、既に新古典が興っているあたり。
 革命を経た1800年代に入ってもなお、ロココ味強いめの田園風がデザインされたりしているので、もちろん上記のデザインの変遷は厳密なものではありません。

 田園モチーフは、もとはギリシア・ローマの古典由来のものなので、ロココの時代のあとの新古典主義の時代でも、需要はあったのだと思う。本当、田園趣味ってこの時代を貫く価値観で面白いなあ。
 やはり、今でいうレトロ好きもまだいたのかも? ちょっと流行遅れ?の田園柄で古き良き時代を懐古するなんて人もいたのかなぁ。


 とりあえずは、全体に感じたこと。

 トワル・ド・ジュイって、わざとユルいめを狙っているんじゃないか、と思った。
 デッサンや技巧が完璧すぎてはいけないような気がする。

 不細工な鳥だったり、おもちゃみたいな空想の中国だったり、崩れたヴァトー風だったり、現実味のない田園趣味だったり、時事ネタに飛びついてみたり。

 大事なのは、技巧より遊び心。色彩と形の戯れ。芸術的崇高より、愛想のよさ。

 崇高な完璧さは、人を圧倒しある意味引かせてしまう、一方で、どこか不完全なものの方が愛らしく、共感を呼ぶ。毎日一緒に人間と快適に暮らせるのはこういう愛らしいやつらなのです。

 最後の方で、関連事項として、ジュイ更紗と同じ、木版印刷のテキスタイルたるウィリアム・モリスが展示されていたけど(確かに似ている!)、両者比べても18世紀のジュイ布の方が、ゆるくて、甘い。

 やっぱり、時代全体の好みとして、18世紀ってちょっとゆるい寛いだスタイルが好きなんだろうなぁー、と改めて思ったのでした。

 それにしても、トリで一緒に飾られていたデュフィのデザインは本当、感動的にうまい。フォーヴな線の躍動感と色の調和と、それが繰り返されても煩くない心地よさと、お洒落な遊び心たっぷり。いや、ほんと、どこかとぼけたところがあるけど、かつスタイリッシュ。なんてお洒落。

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エヴァリスト・バスケニスのリュートの埃の話

西洋美術館の常設の新規収蔵作品が、死ぬほど気に入った。

エヴァリスト・バスケニス<楽器のある静物>

 楽器のある静物。←とりあえず楽器萌え

 見てよ、この左側のリュート!
 埃をかぶったのを、机の上に運んだ時についた指の跡まで描写してる…!
 ああ、私の携帯カメラの画質の悪さとカメラスキルのなさよ……この写真では分かりにくいですが…(もうみんな本物見て…!(笑))

 先のモランディ(1890-1964)の展覧会に行ったとき、モチーフに積もる埃も静物の大切な要素なのだ、と解説にあった。
 ものに積もった埃は、色彩の微妙な変化をもたらすだけでなく、そのものに毎日少しずつ埃が積もるだけ流れた時間をも表す、のだそう。で、格好いいじゃないか、と感心してきたばかりです。

 つまり、バロック時代のこの埃をかぶったリュートの絵も、この埃が積もるまでの時の流れが描かれている、と言うことが出来るのです!

 (画家にモランディと同じ意図があったか定かでないが…!)

 リュートの上の埃。
 この埃が積もる間、このリュートは誰に弾かれることもなく、前面を下にして置きっぱなしにされていた。
 本来、楽器は人間が触れて音を出すもの。埃が積もることで、人間の不在を感じられます。
 これには、ある建築物が、人間が使わなくなったために廃墟と化す、廃墟の美学に通じる詩情がある。

 時の流れと、人との関係の希薄さ。
 時間ばかりではなく、楽器と人間の関係性まで語りだす埃。
 裏返しの楽器。消え去った音楽の時間。控え目に漂うヴァニタスの気配。

 そればかりか、埃にくっきり付いた手形は、放置されたリュートを画家が手に持って台に運ぶ、という動作まで物語っている。

 埃すごい! そして、埃を完璧に描写するバスケニスの腕前。バスケニス大好きになった。
 バスケニス以外にも埃を描く人っているのかな? これだけ面白いモチーフなんだから、他にも描いてる人がいそう。

 ……他にもこの静物画には要素いっぱいあるのに、埃だけ語りすぎた(笑)

 埃の積もったリュートは、この画家のお気に入りのモチーフだったみたい。


 もしかしたら、画家はこの埃を「育て」ていて、誰かが掃除してくれようとしたらば必死の形相で止めに入って、誰かが掃除してくれてしまったならば殆ど泣きそうになって、この世の無常と存在の儚さを噛み締めたのかも知れない。

 というのは妄想です。

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西洋美術館のカラヴァッジョ展感想

会期終了を翌週に控えた日曜日、ようやく西洋美術館のカラヴァッジョ展へ行けたのでした。
 カラヴァッジョとカラヴァッジョの追随者たち50点あまり、十分な間隔を空けて。

 今回、展示全体でちょっと感じたことは、少し個人的な体験に基づくことでした。

 前にカラヴァッジョの洗礼者ヨハネが来たとき。
 
カラヴァッジョ〈洗礼者ヨハネ〉
 他のカラヴァッジョ以外の同時代の作品が、どちらかといえば理想化強めの、甘美な方向の作品が多かったためか、カラヴァッジョの写実は、聖人の人体が普通の人っぽくて――なるほど同時代の人が聖人なのに高貴さがなく卑近だと言ったように――少しどぎついものに感じたのでした。

 今回は、ほとんど真逆の印象を受けました。

 カラヴァッジョ前後の、カラヴァッジョ追随者たちと比べたら、ジプシーの娘も、肩を出した少年たちも、上品に見えた。

 全くものの見方は相対的で、定まらないものだなぁ(笑)

 たとえば、冒頭のカラヴァッジョとシモン・ヴーエ。
 どちらも占い師の絵。どちらも、大きめの画面に人物が腰辺りまで描かれ、画中の物語をクローズアップしている。
  
カラヴァッジョ〈女占い師〉、シモン・ヴーエ〈女占い師〉

 若いジプシー娘の占い師が、客の男の手を懇ろに取り、指先で手の皺をなぞったりして手相を見ている。
 カラヴァッジョのは身なりのいい紅顔の若者。ブーエのは歯を剥き出しにして、いかにも下卑た笑いを浮かべるおじさん。
 若い女の子に手相を見てもらうこの間に、青年は指輪を抜かれ、おじさんは仲間のジプシーおばあちゃんに後ろから財布を取られる。
 
 若い女性に男が騙される物語は面白く、好色が身を滅ぼすという、ちょっと教訓めいところもあります。
 こういう話の枠は演劇のストーリーによくあるもので、この絵の物語は、演劇の反映との由。

 カラヴァッジョのは貴族?の若者で、ブーエのはその辺の酔っ払いと、騙され役のお育ちの違いが、絵全体の見た目の上品さも左右している。
 ヴーエのは、現実の庶民の暮らしを強調して描いているのかな? 現代でもこういう窃盗犯イタリアにいそう(笑)
 

 それから、カラヴァッジョの蜥蜴に噛まれる少年。それとその次の蟹に鋏まれる男。
 
カラヴァッジョ〈蜥蜴に噛まれる少年〉
 本当に、思いもかけず蜥蜴に噛まれてびっくりしている瞬間の人の様子が良く描かれている。
 カラヴァッジョ好み?のむっちりした肩をはだけた少年の、びくりと跳ね上がる肩、驚いて半分身を引く動作、反射的に強張った両手の指、軽く悲鳴をあげる口元、驚いて怖がったり痛がったりしている顔。
 それと硝子に透ける水だとか、激烈に背景からくっきりと浮かび上がって見える輪郭とか。

 実際に蜥蜴に噛まれた人を観察したのだろうか?
 およそ現代の東京人には、花瓶に活けられた花の中から蜥蜴が出てきて噛まれるなんてことがあるとは、とても信じられない(笑)
 でも、蜥蜴に噛まれた人がこういう動作をするかどうかは、実見してないから、この絵が「現実」かは分からないけど、蜥蜴に噛まれるってこんな感じに違いない。

 それに対応するのが、ピエトロ・パオリーニ帰属の蟹に鋏まれる少年。
 
ピエトロ・パオリーニに帰属〈蟹に指を挟まれる少年〉
 そもそもの画力の差は置いといて。

 こちらは、分かりやすいというか、わざとらしいというか。
 カラヴァッジョのようなリアリティは薄く、これみよがしに蟹を手に持ち、蟹に指先を鋏ませて、カメラ目線で痛そうにしている。「挟むよ…挟むよ…アーッ挟んだ!ご覧ください痛い!」みたく、ちょうどリアクション芸人みたい(笑)

 きっとカラヴァッジョは絵の中の人が動き出さんばかりの臨場感や現実感、目騙し的な効果を大切にして、一方で、対する蟹少年は、カンバスの向こうは現実の投影ではなく、あくまでも絵であって、記号としての「痛み」とかを表現したかったのかな。

 
 楽器の絵はだいたい好きだ。
 カラヴァッジョとカラヴァッジョ追随者の辺りには、楽器の絵が多い。
 それは、カラヴァッジョのパトロンが音楽好きだった影響なんだとか。
 確か、バロック絵画に楽器や音楽の絵が多いのは、この時期に楽器と器楽が発達したことの影響、と言っているのを見たことがある。(それまで最も正確な音程が出せる楽器は人間の声だったという)
 パトロンの音楽好き、楽器の発達、そしてカラヴァッジョの楽士の絵。全部まとめて繋がっているのだろうな。

 ところでいま読んでいる本に、カラヴァッジョの時代の約50年後ですが、ネタか本気か、1オクターブ32鍵という無駄に発達したチェンバロが紹介されていたりとか、バロック時代の楽器の発展興味深い。

「普遍音楽――調和と不調和の大いなる術」著:アタナシウス・キルヒャー(1650)、訳:菊地賞、工作社

 それはさておき。
クロード・ヴィニョンの絵がお気に入りです(笑)
 粗っぽく、がさついた筆触が目立つ。この展示中、もっとも下手な部類の絵。
 
クロード・ヴィニョン〈リュートを弾く男〉
 男がリュートを抱えて、机の上に平らに置かれた楽譜を覗き込みながら弾いている。
 その表情といったら!(笑)
 眉は深く皺が寄り、目を細くして、しかめっ面。たらこ唇からは唸り声とか、あっ違、とか言ってる声が漏れているのかも。
 この苦悶の表情。
 爪弾く右手は強張ってぎこちなく、それに呼応するように、筆遣いもどこかぎこちない。

 こんなに力いっぱい苦しそうにあっぷあっぷしながら楽器弾く人初めて見た(笑)
 彼が10分後にリュートを投げ出して、二度と弾かないんじゃないかと心配です。
 がんばれ、君の楽しい音楽ライフはここからだ…! なんて応援しちゃう。

 絵柄の不安定さと、リュート苦吟ぷりがよく合っていて面白い(笑)
 一番愛らしい、謂わばゆるキャラ的な共感を呼ぶ絵かもしれない。


 果物籠を持つ少年と、バッコスは素晴らしかった。
 
カラヴァッジョ〈果物籠を持つ少年〉
 解説には少年の顔はわざとぼやけていて、しっかり描かれた果物籠とその中身とを対比させているのだとか。

 とくに画面右下で、暗くなった背景に、光が当たってくっきりと浮かび上がる枯れかけの葉っぱ。青々としていなくて、傷んで黄色と緑とがまだらになったその葉っぱ。素晴らしい3D効果で、飛び出さんばかりです。きっと、この葉っぱは特に見て欲しかったに違いない。
 

 バッコスは、有名な絵で、しみじみ良い絵だなぁと。見ていて凄く幸せ。

カラヴァッジョ〈バッコス〉
 白を基調にした調和の取れた画面。白く滑らかな少年の肌と、白い服、白いクッション、白いテーブルクロス。暖かく穏やかなベージュの背景色。
 筋肉はあるけど、ほどよくむっちり肉付いた腕。その片腕でクッションに凭れた体重を支えている。その体重のかかった腕の固さと柔らかさ。
 もう片方の腕は平たい硝子の大きな杯を捧げ持ち、こちらに差し出している。なみなみと注がれた赤黒いワインの透明感と波紋。
 器に山と盛られた熟れた果物を前に、実った葡萄の大きな冠を被ったお酒の神様は、ちょっと語弊があるけれど、豊穣を言祝ぐおめでたい感じ。
 きっと、だから見ていて幸せなんだなぁ。
 良く見ると、少し垂れ目の気怠い目の、黒々とした下睫毛がチャームポイントでした(笑)

 
 アミンタの嘆きも結構好き。

バルトロメオ・カヴァロッツィ〈アミンタの嘆き〉
 牧歌的で、かつ物憂げ。リコーダーを吹く少年に、相槌を打つでもなくタンバリンに凭せた腕に気怠げに頬を乗せる少年。ちょっとこのポーズ格好いいし。転がる果物。誰も手に取らないヴァイオリン。

 楽器の絵も好きですが、牧歌的な絵も好きです。だから、牧歌的な楽器の絵はすごく好きです。
 タイトルの由来は、画中の楽譜から。タッソーの牧歌劇「アミンタ」を元にした歌で、主人公アミンタが恋する人が死んだと思って歌う嘆きの歌が書かれているそうです。


 オラツィオ・ジェンティレスキの聖カエキリアで、ようやく正統派?の美少女出てくる。

オラツィオ・ジェンティレスキ〈スピネットを弾く聖カエキリア〉
 カエキリアの弾く楽器の鍵盤の適当すぎるまっ平らな描写と、椅子が高すぎる(あるいは台が低すぎる)のが気になるのを除けば(笑)、展示中一番繊細で情緒的で綺麗な宗教画です。カラヴァッジョよりエグくない「綺麗」なタイプ。
 普通の意味での綺麗さで言ったら、これが一番綺麗でした。
 (あとはラトゥールの煙草飲みが全部の絵と比べても綺麗だった)

 このジェンティレスキさん。解説には、カラヴァッジョの友人とあったけど、カラヴァッジョの裁判記録には「ジェンティレスキは私に話しかけてこないので、友人ではない」という発言が残されている。どんな距離感なんだろう(笑)


 センセーショナルな斬首主題セクション。斬首だけで纏めてくるとは。
 バロックといえば残虐な流血場面ですね!(過言)
 これもカラヴァッジョの斬新な表現が、斬首の流行の起爆剤になった、という解説文。
 
 メデューサ格好いい!

カラヴァッジョ〈メデューサ〉(ごめんなさい!メデューサには他にバージョンがあって、この図版がこの展示に来たやつかどうか分からないです)

 凸型の木の板にカンバスを貼ったものに、血の滴るメデューサの首が描かれている。それでメデューサの、人を石にする首のついた神話のミネルヴァの盾をイメージしている。
 かっと目を見開き、口を大きく開けて叫び声をあげてる。髪の毛の蛇がうねうねとのたうって、不気味なことこの上なし。

 凸型の画面! その自ずとこちら側に飛び出してくるフォーマット。
 カラヴァッジョ本人の着想なのか、こんな感じのものをカラヴァッジョに描かせようと思ったパトロンのセンスなのか、ナイスセンスです。

 お土産にこれの缶バッジとか、ペンダントとかなってたけど、ちょっと欲しい! けど要らない! 魔除けになりそう。


 聖カタリナの首。
 暗い背景の中に、白い生首がごろりと転がされてある、小さな絵。

マッシモ・スタンツィオーネ〈アレクサンドリアの聖カタリナの頭部〉

 小さいというより、描かれた首は現実の人間の大きさくらい、その人間の頭だけを収めるのにちょうどの画面。
 血の気を失った白い肌が目立つ。真珠で飾られ綺麗に結われた髪、虚ろに少しだけ開かれた瞼と唇。目鼻立ちは、まだ死の間際の苦悶の表情をわずかに残していつつも、美しく高貴に描かれている。
 まだ乾かない首の、見えない断面からは生々しく血が流れる。傍らにティアラとこの首を斬った剣。そして殉教者を表す棕櫚。
 残虐だけれど、美しい。
 殉教した聖人の首を描くという陰鬱なシリーズの一枚だそうで、他のもちょっと見てみたい。


 新発見されたというカラヴァッジョのマグダラのマリア。隣にアルティミジア・ジェンティレスキのマグダラのマリア。
 どちらも殆ど、あるいは完全に気を失った状態で、重力に従って首を仰け反らせて倒れ込んでいる。
 
カラヴァッジョ〈法悦のマグダラのマリア〉
 これ、図版では背景真っ黒ですが、もっと繊細な背景でした。左端に、かすかに細い十字架が見える。

 アルティミジア・ジェンティレスキは、先のカエキリアを描いたオラツィオの娘。
 当時にしては珍しい女性画家(画家は本来男性の職業)です。
 
アルティミジア・ジェンティレスキ〈悔悛のマグダラのマリア〉

 荒野で修行をしているマグダラのマリアは、上半身には何も着けておらず、意識を失って仰け反る無防備な上体を晒している。
 彼女は首を後ろに垂れて、顔が良く見えない。そのために特に明るく描かれた裸身に目線が集中する。

 解説によれば、マグダラのマリアを口実に、女性の裸体を描きたかったのだろうということです。
 確かに、生身の女性の体に少しびっくりするくらいの生々しさで、それは隣のカラヴァッジョ以上だったと思う。本当に目の前のモデルにこの人がいて、その人の体をそのまま忠実に写したのかも知れないと想像するほどです。

 
 グエルチーノの聖ヒエロニムス。
 
グエルチーノ〈手紙に封をする聖ヒエロニムス〉

 とてもダイナミックなポーズと半裸の格好で手紙に封蝋をしている。
 なんか状況としては不自然だけれど(笑)、この間の展覧会でとても気に入ったばかりで、グエルチーノかなり好きだわ。
 グエルチーノって、カラヴァッジョみたいにぱりっとした陰影で、本当に画面から飛び出してきそうなんだけれど、カラヴァッジョほど苛烈でない上、甘ったるくもないから、凄くちょうどいいです。

 グエルチーノもカラヴァッジョ並のリアリティと3D感なんだけれど、美術館の解説では、グエルチーノが直接カラヴァッジョに影響を受けたというよりは、初期カラヴァッジョに影響を与えたボローニャ派の自然主義を、ボローニャ派のグエルチーノも共有していたのだろう、ということです。
 カラヴァッジョもいいけど、ボローニャ派もいいなー。ボローニャも行ってみたい。

 やっぱりバロックって良いものですね。


次ページ余談。

 カラヴァッジョ展の後で見た常設展で、新規収蔵作品がすごく好きだという話。
 埃を被ったリュートの絵が素敵すぎる。それの埃の話。
 このリュートが、カラヴァッジョ展のちょっとしたお気に入り、苦しそうなリュート弾きさんの放り出したリュートの末路じゃないこと願う(笑)

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損保ジャパンのフランスの風景 樹をめぐる物語 感想

正式名称「フランスの風景 樹をめぐる物語-コローからモネ、ピサロ、マティスまで-」

 時に、風景というよりは「その樹」を描いた、という性質の風景画がある。

 そんな木を主役にした絵を集めたという展覧会だと思ったのだけど、違った。

 普通に、18世紀末からバルビゾン派を経て、印象派→後期印象派までのフランス風景画を並べた展示でした。
 全体からは「樹をめぐる物語」はあまり感じなかったのよね。。。

 その絵の中で樹がどんな役割――象徴的だったり、構図上の問題だったり――を果たしているのか、その樹の描き方は、それ以前、あるいは同時代とどう違ってどう同じなのか、樹を描くことの意味とは、とか、なんかそういう解釈を聴けるものと思ってたんだけど。
 そういう踏み込んだ内容ではありませんでした。

 ううーん、展示のタイトルと中身にギャップあり、と感じました。
 自分で考えろってことですね・・・。 あるいは、図録に丁寧に描かれていたのかも。
 
 そういう絵も無いことはなかったけど。


 一番好きだったのは水彩画。

 バルビゾン派の中では、生前もっとも成功したといわれているらしいフランソワ・ルイ・フランセという画家の絵。

 古式ゆかしい?イタリアの風景。

 雪の積もるボルゲーゼ宮を入り口の階段横から眺めた情景。古代風の女性彫像が立ち、古代の神殿ぽい柱の折れたやつが草の中に転がっている。
 雪が積もって、明るい薄桃と灰青色と、ハイライトの柔らかな白が基調となっている。
 イタリアいいわ~ボルゲーゼと古代彫刻素敵だわ~。軽やかな色使い、癒されるわー。
 ・・・こういうキャッチーな絵が個人的に好みなだけだー。

 
 シニャックの、絹にテンペラ、という珍しい素材の作品。

 油彩よりも非常に軽やか。絹とテンペラの素材としての軽やかさたるや。
 画風はいつものシニャックといった感じですが、白を基調にした画面は、色がとても綺麗で、樹のあたりの光の具合が素敵。
 そういえば、シニャックの水彩画も色の組合せが綺麗なのよね。

 それにしても、絹にテンペラとは。
 絵は扇形になっていて、本当に扇にするつもりだったのか、ただのそういうフォーマットなのかしら。


 ロマン派やバルビゾン派のご先祖としての、18世紀末の風景素描が見れたのは良かった。個人的な趣味で(笑)

 18世紀では、その辺の樹を描いただけのただの現実の風景は、創造的じゃない、詩的じゃないと評価されて、まだ風景画の地位は低かったのでした。
 
 だからといって現実の風景を描くことが無価値だという訳ではなく、もっと上位の神話画を説得力をもって生き生きと描くには、先人の絵を模写するのではなく、現実の自然を模倣することから始めるべきだ、と言われます。

 そこで、戸外での、外光による風景画(の習作)の制作が盛んに行われるようになり、そうしたアトリエの外の自然を自然のままに描こうという姿勢が、後のバルビゾン派や印象派などの土壌の1つとなっていった。
 というようなことが、お土産屋さんで売られている「ローマが風景になったとき」っていう素晴らしい本に書かれているから、みんな買って読めばいいよ←宣伝

 だから、展示は18世紀の素描から始まってるわけですね。
 と、脱線したまま、戻る気もなく筆を置きます(笑)素敵なオチが思い付かないよ!

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なんせんす・さむしんぐ

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