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○なんせんす・さむしんぐ○

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心の底からデューラー展!書きかけ。

 なかなか書きあがらなそうなので、途中でアップすることに。だんだん更新してきますこの記事ー。

 かねてより、楽しみにしていたデューラー展、最終日まえに行ってきました。
 そんな訳でデューラー展の感想です!

 とにかく、始めからデューラーは大ファンなのです。そもそも版画というものが大好きで、版画ほどまろりーを熱狂させる地味な媒体はありません。

 デューラーという画家についてですが、ドイツ最高の画家の一人として、彼に対する語り草は若干のご用意は私にもありますものの、それを到底は語りきれないし、良著は数々ありますので、ここでは彼の神がかった代表的な絵だけを載せるにとどめ、彼の業績や画業といった研究は個々人にお任せすることにして、思い切ってデューラーの版画に関わる話に参りましょう。
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左;油絵。<1500年の自画像>、右;水彩。<野兎>・・・どちらも眼球に映る光が窓枠のある窓から光であると分かる程、全ての部分が等しく細かく描かれていたりします。
 この超絶技巧っぷりは版画でもっともよく堪能出来ます。
f98ec561.jpeg<書斎の聖ヒエロニムス>エングレーヴィング
 いきなり大トリ的なエングレーヴィング作品。「エングレーヴィング」とは銅板画の技法のひとつで、銅の板を直に細かな彫刻刀で彫って、その溝にインクを詰め込み、刷る方法。技法上、曲線を美しく彫るのには高い技術が必要です。
 鋭く先細りした両端を持ち、滲まないくっきりとした美しい線が特徴。かなりの熟練技が必要ですが、細かな表現まで出来る技法で、19世紀くらいまでは、長らく「最も格の高い技法」とされていました。
 なのですが、そういう線で画面を埋め尽くすと、ガラスに透けて室内に射す光まで表現できるようです。
 線だけで、これ!一体、極細の線だけで窓のガラスと天井の木材とライオンの毛皮とを描き分ける人間が本当にいたのでしょうか。
 とにかく、デューラーの作品すべてに言えることですが、技巧に目がくらんで、絵の内容が見えなくなる、というのが最強の弱点。
 ・・・かつて大学の版画史の授業で教授が言っていました。
「デューラーって、テンション高いくせに、ユーモアは無いよね。」
 まさにそんな感じ。(笑)この暑苦しい執拗なパッションと、鑑賞者サービスの無い技術屋っぷり。

a34a7c8a.jpeg<メランコリア1>
 こちらもこの展示最後を飾っていたエングレーヴィング作品。先のヒエロニムスと共にデューラーの三大銅版画と呼ばれるもの。
 とにかく、画面は線だけで出来ているはずなのに、真黒(笑)。白いところがない、空間恐怖症的な構図。
 眼光鋭い有翼の人、うずくまる犬、砂時計、魔方陣、腹をひきさく蝙蝠、梯子、球体、謎の立体、虹のような光、などなど謎めいた象徴に満ちていて、いまだにこれらの解釈は定まりません。答えはそれぞれの心の中に、状態なのが魅力の一つ、という感じで落ち着いています。
 中世までは、メランコリア=憂鬱気質の人間は、子供を喰らった残忍な神サトゥルヌスの影響下にあり、根暗でひきこもりで非生産的で妄想家で「神の恩恵さえ見えない」、最悪の性格と思われていました。
 が、ルネサンスあたりから、物事をよく考え、冷静に観察・判断する、学者向きには最高の人間、と良い側面を強調されるようになりました。
 そして、デューラーは、神の作った世界をよく観察して描き出す芸術家にとっても、憂鬱気質は必要な素質である、とこの絵で語っている、というのが大体の解釈。
 憂鬱に陥った人は、こうした憂鬱気質の良い側面をデューラーの版画で見ることで、多少はその憂鬱な心を慰めることができるでしょう。
 この版画の素晴らしいところは、そうした前向きさが、版画であるが故に、多くの人が所有し、目に触れることができた、というところだと思います。
 [デューらーの「翼」についての思い。]

 「空間恐怖症」といいましたが、デューラーよりもっと古い時代から、空間恐怖症はむしろ伝統的であって、とにかく、余白部分があると線や図像で埋めたくなる。とにかくやりすぎてしまう、という傾向を持つ空間恐怖症。殆ど人間の本能のようなもので、現代でも全く珍しくありません。
 メレンコリアで見たように、デューラーもその気はあるにはあるけど、描きすぎずに格好良くきちんと構成、デザインする、という心配りもしっかり出来ている、と感じた一枚。右は参考図版。
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<三日月の聖母>左;1511年ごろ、右;1499年
 やっぱり、冷静によく見ると、雲とか光とかで空間埋め尽くしな感じも多少ありますが…。 ぱりっと描くべきこと描かないべきことを取捨選択して「デザイン」してある、と思いました。
 かたや、最新ルネサンスに流行った「安定した三角構図」を見せる、聖母と幼子キリスト。かたや、デューラーの前時代であるゴシックの彫刻のように、豊かな襞を垂らしながらS字に身をくねらせて立つ聖母子。
 でも、左側の三角構図の聖母子の方は、衣の襞は気まぐれ空想的で、実際のというよりは画面を華やがせる装飾効果を上げている。リアリティのない装飾的な衣紋はゴシック時代の要素です。このように、最先端と伝統と融合させているのではないかしら。伝統というのは、古くて流行遅れではあるけれど、皆が見慣れた、安心出来るものなのです。
 一方、右のS字の聖母子は、衣の中の「人体」を感じさせるように、衣をまとう体と重力とで、衣服の下で、聖母が片足に重心を掛けて、腰骨で幼児の体重を支えているのが分かる左とは逆に体の動きに従っているように襞を描くのはルネサンス風。これも、古今が融合しているように感じます。
 

 さて、この同じテーマのこの両者、同じに見えて実は決定的な違いがあります。
 その違いとは・・・と、書き差して続く(笑)



ーーーーーーー以下、推敲中の断片ーーーーーーーーーー

 さて、デューラーの影響が後々まで残り続けた、というのは彼がこのような史上最高の版画家であったことと無関係ではありません。
  一口に版画といいましても、技法は様々ありますが、とにかく古い時代の版画一般の特徴をざっくり述べますと、
1、油絵と違って、直接カンバスなどに描かないで、一度別の媒体に描かれてから間接的に紙に写される
2、油絵と違って、ほぼ同じ図像が大量に複製出来る
 ということかと思います。
 前者の特徴のため、「版画のための技巧」というものが、印刷された紙面に如実に生生しく反映されます。どんなに絵を描くのが上手くても、まずは版を作れなくてはいけません。
 特に、版画技法が現代ほど多様でなく発達していなかった時代は、レオナルド・ダ・ヴィンチ並みに上手に絵が描けたからといって、必ずしも上手に版画が作れる、という訳ではなかったのです。
 逆に、どんなに版画を作る技術を持っていても、絵を上手に描くのは苦手、という版画家も多くいました。
 それでいて、後者の特徴のため、版画の方が、実は周りへの直接の影響力が大きいこともしばしばなのです。
 版画より油絵の方が、格の高い芸術と看做されていますが、写真の発明以前は、そうした立派な絵画はその場へ行けないと、どんな絵か見ることが出来なかったのに対して、大量に印刷でき、持ち運びにも便利な版画なら、そうした場所の制限なく名画に似たものを参照することが出来るのです。かのレオナルドやラファエロの絵も版画化されたことによって、イタリアを越えて全ヨーロッパに影響を与えていったのでした。
 そして、大量に印刷でき、たいてい安価に入手出来るが故に、より一般大衆向けに描かれる、というのが版画。日本の浮世絵もそうですが、油絵よりも、即物的な「目的」があるのです。
 デューラーの場合は、聖書の物語をより多くの人に視覚的に伝える、ということです。この展示では、「絵画は神に奉仕するもの」というデューラーの言葉を引いて、宗教画の連作(というより、本来は書籍として刊行された「挿絵」)をまとめて展示してありました。*挿絵といっても、聖書の補間として描かれたものではなく、まずデューラーが絵を描き、後からそれにふさわしい説明の詩を付けていったものだそうです。
 
 

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