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○なんせんす・さむしんぐ○

美術や音楽の感想とか、動物中心のイラストのブログ。

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六本木で美術館うろうろ。

本日のラインナップ。
1、 南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎展
2、ドラゴンクエスト展
3、メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン

 六本木界隈で、うっかりぶっ通し3展はしごして、終電で帰ってしまいました。六本木の辺りは、美術館が遅くまでやっていて危ない。
 そんな感じで、その日の美術展感想。
 
●六本木のサントリー美術館にて、南蛮美術の光と影展
 
 時は戦国、ポルトガルより南蛮人がやって来て、交易を結んだ結果、日本でつかの間開花した文化を、南蛮交易のさりげなく激動な歴史に絡めて展示します。
 展示作品は少ないながらも、教科書では、多分、多くても1ページくらいの記述で済まされてしまう南蛮貿易の雰囲気が伝わって、なかなか面白かったです。多分、まろりーみたいな日本史弱いめの初心者向き。
 
 まずは、南蛮人の屏風。帆船に乗ってやって来た南蛮人たちが描かれます。
 当時の日本人には南蛮人がこのように見えたに違いありません。髭やもみあげを生やし、鼻が高く、目は窪んでぱっちりとしている。デフォルメはするけど、とてもそれらしく見えます。
 南蛮の服を着た南蛮人は、日本の絵らしいプロポーションで、こまごまと可愛い。時々たれ目が強調されていて可愛い。大体、派手でハイカラなお洋服が可愛い。金刺繍の黒い船乗りの服、宣教師の僧服とか。裾のもったりしたズボンが可愛い。半ズボンから出たタイツ(笑)と短靴を履いた足が可愛い。あと、サルーキみたいなハイカラな洋犬も可愛い。
 黒塗りの帆船のロープに逆さまにぶら下がる人、舳先に座る人、バックギャモン(多分)に興じる人、肉の皿を運ぶ人、格子のはまった部屋(まるで牢屋のように見えたけど、本当は何の部屋なんだろう。多分日光の入る良い部屋なんじゃ?)にいる人、マストに登る人、椅子に座る人、馬に乗る人、個性溢れる南蛮人たちがいちいち色々な服を着て色々なことをしていて楽しい。誰一人として同じ人がいない、そこに描かれた人を延々と眺めて楽しむウォーリー的な屏風。
 主役の南蛮人より、岩木や犬や馬の方が描き慣れていそうでした(笑)
 基本的には、陰のない伝統的な日本の絵という感じですが、船のマストなどは、きちんと円柱に見えるように陰影がつけられていて、こういう所がきっと南蛮風なんだろうなぁ。
 日本の港に寄港する図もあるけど、背景がどこか中国風の建物の、設定がよく分からないものもありました。異国イメージなのでしょうか。
 
 南蛮貿易は、イエズス会の布教活動と密に繋がっていて、多くの宗教的な文物が日本に持ち込まれたようです。
 極小のキリスト図などを薄いギヤマンでカバーしたロケットのようなお守りなど。
 中身の銅版画は、ヨーロッパでだけでなく、日本に持ち込まれたプレス機で刷られたものもありました。
 洋式の釣り鐘は日本鋳造だそうで、昔日はどこでどのような音でどのような人たちが聞いたのでしょう。
 大きな油絵なんかももたらされました。商取引の結果なのか布教目的なのか、或いはそのどちらもなのか分からないけど、絵自体は稚拙な描きぶりから、植民地だかアジアの交易拠点だかで、現地人が描いた可能性がある、との事。結構グローバルです。
 日本などアジア圏に聖人の図像を持ってくるのに、ヨーロッパからでは遠くてしんどかったのか知ら。
 そういえば、前にどこかで「ヨーロッパへ渡った日本の屏風展」なんて逆バージョンをやっていたなぁ。あれ、見なかったけど、この展示と繋がると面白かったかも。
 
 蒔絵の祭壇など。
 蒔絵、これぞ日本の外国への輸出品の花形!
 17世紀のヨーロッパ人にまろりーが自信を持ってお薦めするお土産です。(何それ)
 模様で空間を隙間無く埋める華美なデザイン。バロック時代って黒という色を好んだようだけど、漆塗りのシックな黒い地に、螺鈿の貝殻の虹の輝きが映えます。
 より南蛮人にアピールするためか、南蛮人からの注文作なのか、西洋のものに西洋好みの蒔絵を施します。祭壇本体、ミサに使う道具、聖書を乗せる書見台、かまぼこ型の洋櫃(所謂よくある宝箱)など。聖書を乗せただろう書見台のイエズス会のマークのIHSが虹色に光ります。
 イエズス会の情熱は本当に熱い。こんな果てまでやってきて、蒔絵螺鈿の聖具など…。それら珍奇豪奢な道具を使って、遠い異国の地にもキリストの力が及んでいる事を示して信仰を固めたのでしょうか。
 何かの西洋の絵を模写した屏風。各画面、イタリア風の牧歌的な風景の中に二、三の欧風人物を配していて、一見、一連の絵かと思いきや、各々ばらばらに描かれています。一枚だけ、日本の女性が同じ画風で描かれていて、画家は修得した南蛮風の技術を日本の図像に応用したかったのでしょうか。
 
 西洋の銅版画を元にしただろう世界地図の屏風。地図の左右に各国の住人の装束が描かれていて、頭に羽をさしたアメリカが典型的ですぐに分かった。多分、元絵を描いた欧州人も大体の国は想像で描いているはずだけど、アメリカ原住民の典型的イメージは現代までも強烈です。
 
 一番の目玉、有名な異国の王様の騎馬図屏風。
 多少ぎこちないけれど、輪郭が無く、明暗のグラデーションで描く本格的なものですが、材料は和紙と岩絵の具という純然たる日本画です。
 馬の目が人間の目をしていて、格好良かった。たてがみのなびく様や、足を曲げ伸ばしたり、口を開けたり。
 馬のたてがみもなびくけど、王様のマントとかもちゃっかりなびいて躍動的な襞を作ります。王様の長い睫毛までぱっちり描いてあったり、細部も気を抜きません。 片方の屏風は、神聖ローマ皇帝とスルタンが互いに剣を振りかざして向き合い、今まさに馬の拍車をかけた所、といった風情。
 相対する二人の王様は、観者からは同じようなポーズの正面と背中に見えます。元絵が多分あったと思うけど、この対照性は安直にポライウォーロを思い出します。まあ、有名な図だから、イコールポライウォーロが直接の影響元とは言えないけど。
☆11月26日追記。
 この騎馬図は、ブラウの世界地図の版画が基になっているのですって。今、テレビでやってた。ぜひ、そっちの世界地図の本物もみてみたいな。
taisei.jpg
<泰西王侯騎馬図屏風>
pollaiola.jpg
アントニオ・ポライウォーロ<戦う裸体の男たち>
 この展示では、祭壇画のキリスト像や聖母子像なんかは、ぱっと見(そんなに注意して見なかった(笑))一般受けする当世風折衷バロックって感じだったけれど、日本人画家の写した絵ってぎこちなさも相まって、どことなく初期ルネサンスっていう感じがする。
 日本画家が、一体どういう絵を手本にして西洋画を修得したか知らないけど、ルネサンス時代の絵とかもあったのかなあ。イエズス会の絵ってどういう系統の絵だったのかしら。
 単純に和紙と岩絵の具のざらざらした質感が、フレスコ画のようだからでしょうか。
 写実に向かうバロック絵画と、写実の概念そのものが西洋と根本で違う日本…そこにどんな葛藤や受容があったのか、ちょっとドラマチック。
 再び田園の風景の中の人物。彼らの着ている服は立派で雅びやかな感じ。羊がたぬきくらい小さい(笑)日本に羊居ないから仕方ないけど、羊毛もぶよぶよした感じで、いかにも空想で模写した様子。でも、黒い服を着て座る壮年のおじさんの、黒いウールの服の袖に寄る皺の、光と反射光と陰と質感など、すごくそれっぽい。
 当時の日本人が、渡来の珍奇な絵画であるという事の他に、ヨーロッパの素朴なる田園への郷愁という部分にまで共感したものかどうか。田園=理想郷としての記号だったのか。鄙びたものへの愛着は日本にもあるだろうけど、この景色たり得るのでしょうか。まろりーの目は既に田園に曇っているので(自ら望んだものですが)、最早分かりません。
 ビウエラを持つ奏楽の女性など。南蛮風の絵に繰り返し登場する人。同じ一枚の図像がコピーされています。そして、多分、ヨーロッパでもよくあるポーズ。
 当時の、オランダやポルトガルの音楽とはどのようなものだったのか、長年疑問です。全く同時代の有名なオランダ人作曲家というのが分からない! しかも、ギターでもリュートでもなく、ビウエラ限定とか。(当時の人厳密に区別しないだろうけど)日本で奏された南蛮人の音楽とはどういうものだったのだろうな。
 
 さて、以後、展示はきな臭くなってきます。
 秀吉の時代に禁教令が出て、結構苛烈に弾圧されたのだそうです。
 その苛烈さが生々しく描かれているのが、日本での殉教図。何人もの人が柱に縛られ、首を斬られたりして、地面に血溜まりが出来ている。周りでは原色の赤が燃え盛り、焼き焦がす煙は黒々と渦を巻きます。殉教者達の規則的な配置は非人間的であると共に、モニュメンタルで、悲劇的な効果を上げています。
 続く一枚も殉教図。高いところから見下ろすように描いて、中央の処刑場を幾重にも囲みながら手を合わせる人々も見えます。人々は均一で淡々と描かれているけど、かえってそこに画家の執念のようなものを感じます。
 
 このような弾圧は功を奏したようで、南蛮風は日本の伝統には根付かなかったように見えます。
 しかし、宗教色を排した華やかな南蛮人の図像は、宝船に乗って海から来る七福神のおめでたいイメージと重なって、商人などに人気となった、との事です。
 ここでも、珍奇な渡来物を勝手に日本流にアレンジする伝統のお家芸炸裂でした。

次。
 ●森ビルでやっているというドラゴンクエスト展。
 何でも25周年の記念だそうで、新作の宣伝も兼ねているみたい。
 実は、知っているドラクエ用語は、ホイミとプックルとピエールとブラウニーくらいという程度なのだけど、隣で殆どのドラクエをクリアしているというドラクエマスターが案内してくれたのもあり、僅かな時間でドラクエをやったような気分になれて、なかなか楽しかったです。
 中に入ると、観者にはドラクエの中に登場するキャラクターを選ぶよう要求されます。
 えー、強制参加やなりきり型嫌いだよーと思いつつも、「いや、結構です…」とか言うのも大人気ないので、大人しく選ぶこととします。
 戦士、武道家、僧侶、魔法使いの4つの中から選ぶのですって。
 友人はゲーム中で育てやすくて使いやすくて強いという武道家を選びました。
 じゃあ、まろりーは僧侶ね。将来、猊下って呼ばれたいからね!(←野望)ホイミしか知らない僧侶って、どれだけ役立たず(笑)
 そんな感じで、オリエンテーション的な紙切れを受け取りクイズに正解すれば、素敵なプレゼントが貰えるよ。グッズ等には興味がないまろりーはよっぽどその場で「いや、結構です…」って返そうかと思ったけど(大人気ない)
 何よりも凄いのが、開館時間が非常に長いこと。夜の11時くらいまでやっているみたい。
 ところで、あの可愛い系モンスターのスライムの原案が、えぐすぎて笑った。かなりショッキングな見た目に加え、顔に張りついて窒息死させる、という攻撃とか…。キャラクターやモンスターデザインは重要だと思った。
 パッケージやキャラクターの原画が飾られていて、楽しかったです。手書きの線の無駄の無いこと! 彩色の的確なこと! 絵の嫌みの無いこと! 万人向きの良い意味での通俗性が非常に健康的です。なんていうんだろう、オタク以外お断りって感じじゃない。途中からハイカラに凝ったCGになったけど、アナログの生々しさが素敵でした。
 ドラクエ展を見に来る人は、男女の別無く若い人が多くて、その人達の口から洩れるのは「懐かしい」という声。
 確かに、何か郷愁を感じました。スーパーファミコン時代からそれ以前の作品に。
 小さな頃は、今みたいにゲームもリアルではなくて、ずっと素朴だったけど、何でも何ヵ月もかけて丁寧に遊んだし、決してまろりー自身の体験ではないけど、新しいゲームの発売日に人皆大挙して並びました。iPhoneとか、そういうテクノロジー満載の万能の玩具ではなく、ただあまりに素朴なファンタジーの為に。
 何か、剣と魔法の世界で勇者が魔王をやっつけに行く事が「当たり前」でした。この垢抜けないほっこり感は、いくら平成育ち、平成生まれが擬古調にしてみたところで、最早再現不可能なのです。
 ドラクエそのものに直接関わる思い出は、殆ど無いのだけど(笑)、確かに一時代を共有していました。
 あと、今だに「バトえん」が売られていて、和みました。まろりーも持ってたよ! 男子から貰ったスライム鉛筆(笑)
 
 さて、次。
 ドラゴンクエスト展の入館料が1800円という、目を剥くような高額だった為に、同じく森美術館で同時に入れるという、全く行く予定に無かった「メタボリズムの建築展」にも行くことに。
 だって、ドラクエのみ1800円は不当に高いよ…。
 

●メタボリズムの建築展
 難しいです、この展示。ドラクエという軟派なものに対して、この展示は硬派で、しかも内容が「理念」に寄る。
 先に言っておかねばならないのは、まろりーは特にこの時代に関して、公平な視点には全く立てない、という事です。普段から決して公平ではないけど、この時代は特に、どう見方を変えようとしても、月の極地のクレーターの永久影のように、どうしても、見えない。
 まあ、この建築に至るまでの日本の美術史・建築史がかなり前からごっそり抜けているのだから、まともな判断が下せる訳がない。
 そういう訳で、以下はまろりーの空想。
 
 間違ってるかも知れないけど、この展示で私が見たメタボリズム建築論とは。
 
 1960年から70年ごろの日本。戦争で荒れた国土は回復に向かい、人口が増加し、都市部に密集して行きました。
 そこで問題になるのが土地。如何にして限りある都市空間に増え続ける人口を受け入れるか。如何にして人口増加で悪化する住環境を快適にするか。
 その一つの回答がメタボリズム建築。
 日本語でいうと新陳代謝。生物が新陳代謝するように、建築も新陳代謝して人間と共に成長しよう、という柔軟で画期的でスタイリッシュな考え。
 一度建ててしまっても、人が増えたり、構成人が変われば容易に増改築出来る建築。
 メタボリズムの都市は、沢山の人をなるべく都会に住まわせようという計画。
 経済の発展と共に、永遠に増え続けるかに見える人口は次々と都市へ集中し、あっという間に飽和するに違いない「近未来」。
 例えば、人間の住める僅かな土地を最大限有効活用するために、例えば、必ずしも日光の必要ない道路などは下層に通して、その上に明かり採りの吹き抜けのある明るい居住区を何段も重ねる重層構造を持たせます。
 一戸の住宅としては、徹底的に効率化を図るべく、各部屋は一定の規格で完璧に統一されます。必ず居住者全てが利用する水道、配線、昇降機などは纏めて一ヶ所に集めて、人が増えればそれを繋ぐようにして、簡単に個室を増設出来るようにしたり。
 再現CGの都市などは、その生真面目さと不気味なBGMの相乗効果で、新品の近未来的なネクロポリスのよう。多分、それこそドラクエの音楽とか使っていたら違った印象になっただろうけど(笑)、発展を極めて、それ故に滅び、都市を残してそのまま人間だけが消えてしまったような悲劇的な悪夢。
 なぜそこに人間が住むことが出来ないか、それを先に考えるべきだよ(笑)
 ユーモアがないのです。どんなに秩序だって美しくとも、斬新で便利で人を利するとしても、ユーモア無くば駄目なのです。ユーモア! すなわち、辞書のままの「偕謔」という意味でなく、血が通っていて人間的であるというほどのユーモア。
 非常に理路整然とした無駄のない街並みは、内側で完璧に調和しています。あたかもそれを乱す存在を認めないように。
 人柄を反映するはずの個人邸宅は許されず、新たに建て増される同一の個室に押し込められる都会人。
 無限に増殖する様は、ピラネージの牢獄にも似ているけど、あの黒白のエッチングから、千変万化の空想を弄する愉悦と、気まぐれな線の戯れと、軽快な精神を全て無くしたような。
piranesi14.jpg
ピラネージ<牢獄(14番目の)>
 その都市は最高に幸せなことと思う、全ての住民が画一的ならば。同じ性格で同じ好みを持ち、同じ方を向き、同じに生きられたなら。そして、世界がそれだけで完結していれば。
 いや、6、70年代は、ひょっとしてそういう一面があった気もする。同じ方向に皆の未来や希望などというものが存在すると…。
 価値観の多様化と細分化が叫ばれて久しい昨今ですが、それだけ広大な世界を持つ現代に狎れた身には、再現CGのような閉ざされ規律正しい都市に住むなんて無理な話。内部は統一され調和しているけど、外側の「自然」とは不調和著しい。ああ、例えば、いくら美しくともヴェルサイユ宮殿には住めないような。本当、自然に帰りたくなっちゃうよ(笑)
 けだものじみた無秩序も醜いが、行き過ぎた調和も考えものです。その中間も結局生きづらいのだから、人間を生きるって難しいぜ!
 ちなみに、友人とはドラクエ展を見たばかりで、このメタボリズム都市のスラム化した最下層で暮らす主人公が、絶対の規律を敷いて民衆を支配する政府に対して解放運動を繰り広げる、なんて何処かで聞いたようなファンタジー考えてました(笑)近未来空想には、うってつけの空想源です。
 
 このメタボリズム建築というものは、私の目には、非常に「ゴシック」でした。ルネサンス人が前の時代の芸術をゴシックと呼ぶ時のゴシック。当時の流行りなのか、打ちっぱなしのコンクリートのたわんだ外壁などが前時代的。つまりは、古臭く、小汚く、洗練を欠き、悪趣味どころか無趣味で醜怪。
 ちょっと強調して言い過ぎたけど、この不変性を棄てて新陳代謝する建築が、今や多く老朽化して「現存せず」となっているとは切ないことで。
 
 展示を出ると、ドラゴンクエストのテーマが聞こえてきて、凄く前向きで清々しい気になった。

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