ある人が言ったのです。ピラネージの絵はスカルラッティの音楽のようだ、と。
おそらく、その人のいう「ピラネージ」はイコール「牢獄」のことだろうけど、
ピラネージ<空想の牢獄>
そしてピラネージは「牢獄」だけじゃない、と主張しますが、それでも、スカルラッティがピラネージのようだというのならば、スカルラッティも弾かねばなりますまい。
ラモーも最近初めてきちんと弾きましたが、もっぱらフランスものを弾くまろりーとしては、ラモーはまだ自分の範囲内とも思えるのです。しかし、スカルラッティはイタリア+スペインの曲。(スカルラッティはイタリア人ですが、のちにスペインの宮廷音楽家になりました。)
ラモーも右へ左へ手をよく動かす人ですが、スカルラッティはとにかく「技巧を誇る」人というイメージが真っ先にあり、いやそもそも弾けないでしょ、と臆していました。
でも、スカルラッティがピラネージのようだというのならば、やっぱりスカルラッティも弾かねばならない。
試しに、一曲弾いてみたら、いい曲だった。聞くより、弾く方が楽しい曲。
しかし、スカルラッティのチェンバロ・ソロのソナタは全555曲あり、それぞれに固有の名前がついている訳でもなく、自分がその中のどれを弾いたのか、さっぱり分からない(笑)私の楽譜束に聞いてちょうだい・・・。
スカルラッティの最大の弱点はこれよね。固有の題名がなく番号のみで識別されるから、覚えにくい。
ピラネージ=スカルラッティというのは、まろりーもかなり納得できる考えです。
大体同時代で国も大体一緒。
驚異的な想像力の粋を尽くしたピラネージの、入口も出口も果てもない迷路のような建築と、ピラネージの1000を超えるローマや空想の建築の膨大な版画化。
スカルラッティの・・・いや、スカルラッティを語れるほど、その音楽を詳しくは知らないのだけど(笑)、フレーズフレーズを積み重ねて、555曲もの曲を書き上げる尽きぬ楽想と超チェンバロ的なフリーダムな発想。そして、絵画的というよりは、建築的な音楽のような気がします。あくまでも気がするだけ。
ピラネージの空想の牢獄、なんて恐ろしげなタイトルが付いているけど、よく見ると、その筆致は自由自在で、見ている人間を縛め苛みようという気がないようです。ただ創意への挑戦や空想との戯れを楽しんでいる風情。まあ、「空想の牢獄」は楽しみ、というよりはかなり野心作だった気はするけど。
スカルラッティも、「練習曲」と呼ばれたりするけど、宮廷に仕える宮廷音楽家として、厳しい修行のような曲ではなくって、人を楽しませようとする音楽。結果的に修業にはなりますが、多分、アクロバットな難易度の高い技巧も、楽しませるための表現を求めた結果なのかも。
ただ、ピラネージ=スカルラッティを100%押せないのは、やっぱりスカルラッティってカラフルなのです。ピラネージはあくまでもエッチング(=白黒)の人。
あと、多分、スカルラッティには、ピラネージの愛した、そして創作の核としたローマの廃墟や建築に、ほとんど興味があった気配を感じません。むしろ、ピラネージの歯牙にもかけない?フラメンコやファドといった民族音楽は心底好きみたいです。
多分、根本の美学はまったく違うのよ。上手く言えないけど。
まろりーのような人間は、音楽が絵画とリンクすると、その音楽にがぜん興味を抱きます。
ところで、図書館でユルスナール「ピラネージの黒い脳髄」とゲーテの「イタリア紀行」をセットで予約してしまった。18世紀のイタリアに行きたすぎる!「ピラネージの黒い脳髄」はその筋(笑)では有名な本なのだけど、「美術史」的に使えるのかは知らない。美術論文というよりエッセイなのかしら?小説?
(後述;ユルスナールの「黒い脳髄」、凄くいい本でした。とても的を射ていると思いました。中でも「悪魔的軽快さ」といったフレーズはとても気に入った。そう18世紀ってそういうとこ、ある。私も使おう(笑))
ところで、関係ないけど、18世紀のいいところの1つは、微妙に科学的で頭がいいけど、頭を使う方向がおかしいところだと思います。ピラネージvsヴィンケルマンとか。ラモーvsペルゴレージとか。ルソーの自然への妄想とか。ゲーテのイタリア愛だとか。
啓蒙とかいって、理性的にとんでも勘違いをしたりするのが愛らしい。また反啓蒙でメルヘンに嵌ったりロマンチック炸裂するのも愛らしい。