無駄に格好いいっぽい記事タイトルにしてみました(笑)
先日のフェルメール展の付け合わせで、非常に小さくちょろっとだけ、ヤン・ミーンセ・モレナールの絵が掛かっていたので、ヤン・ミーンセ・モレナールのことを急に思い出して、本日はヤン・ミーンセ・モレナールについての記事を書こうと思います。色々と見ていたら、変な風に嵌った。
…無論、学術的なことではなく、まろりーの思うヤン・ミーンセ・モレナール。モレナールについての学術論文なんて読んだことないしな…。長い割に内容は薄いので、ご了承ください。
時代は例のオランダ絵画の黄金時代。17世紀に活躍したハールレムの人。(1610年~1668年)
フランス・ハルスの影響を非常に強く受けており、正確な記録にはないようですが、恐らくはハルスの弟子だったと思われます。
左;フランス・ハルス<リュート奏者>
右;ヤン・ミーンセ・モレナール<ヴァイオリン奏者>
ただ、ハルスの最大の特徴たる的確にして奔放な筆致をモレナールはあまり採用しませんでした。モレナール自身の繊細に描きたい好みかも知れないし、ハルスの晩年は、粗く軽快なタッチよりも筆跡を残さない入念な仕上がりが一般に好まれたそうなので、そういう流行の為かも知れません。
モレナールの奥さんユディット・レイステルも、当時としては珍しい女性画家(基本的に絵を描くのは男性の仕事)で、やはりハルスの弟子だったと推測されます。
ユディット・レイステル<絵を描く自画像>
画中画にもハルスの影響が見られます。
家庭で勤勉に家事をする大人しげな女性が理想(あくまでも理想)だった時代に、女性たる彼女の方がハルスの豪快な様式をよく受け継いでいたり。自画像をみると、聖書中の猛女ユディットの名にふさわしく(笑)、色々と強そうな…。自分は女性の画家であるという自負心が強そうです。十中八九、こんな派手な襟をつけて絵は描かないと思う。肖像画として、良い服を着ているけど、無理やり画家属性をくっつけっちゃった、そんな自画像かと。
このユディット・レイステル、ときおり結構えぐい絵を描くのです。特に光と闇の効果を追求した絵がダークサイド。しかも、そうするつもりは本人にもないのに、出てしまったえぐみにも思えます。
レイステル<卑しい酒飲み>
教訓的な絵。しかし、ユディット・レイステル自身も結構ビールとか飲みそう(笑)完全に見た目で判断したけど。
早速脱線しましたが、もう少しだけ別の脱線を続けて師匠と思われるハルスの系譜を簡単に辿って見てみます。
左;ヘンドリック・テル・ブリュッヘン<グラスを持って笑うバス・ヴィオル奏者>
右;ハルス<グラスを持つリュート奏者>
左の絵、テル・ブリュッヘンは、こういう当時最新のイタリアの画風をオランダに持ち帰ってきた流派。ハルスとは大体同時代、だったはず。それに影響を受けて、ハルスも同じテーマを描きます。
この手のシンプルにして空想的な絵画はよほど人気があったのでしょう。そして、画家としても凝った絵よりそれなりの質で量産出来る。これは想像ですが、お値段もお手頃価格だったのでは。
モレナール以外にも様々な画家がこれと類する絵を描いており、影響はハルスだけではなかったかとは思います。
この系譜、イタリアのカラヴァッジョ様式に由来する画風ですが、その特徴は、強い明暗、思い切った遠近法、無背景、人物胸像のクローズアップ、特に人物の表情へのこだわり、劇の舞台衣装のような当世オランダっぽくない服、などなど。そして小道具としてよく楽器を持っています。
ただ、ハルスは、この手の絵画の創始者たちの滑らかだった筆跡を、やっぱり独特の粗いタッチ(後の時代に印象派風と言われることになります)にして描いています。
ハルス<本を読む少年>
最低限の大きな筆さばきで、本から髪の毛から、あらゆるものを描き分けるハルスの腕前。そして、この生き生きとした虚ろな目(笑)ハルスの顔芸は他の追随を許しません。
さて、ようやくモレナールに戻りましょうか。
モレナール、追々お話しますが、意外と多彩な画風を使い分ける画家ですが、もっとも「ハルス風」だとまろりーが思う絵がこれ。
モレナール<笛をもつ少女>
この子は、身近にいた子のようで、他の絵にも登場します。
モレナール<猫を抱く少年と少女>
それにしても、いったいこの子たちは何だというのでしょう。
子供の絵といえば、現代ならば可愛いのがセオリー、子供=可愛いではなかったバロック時代とはいえ、……この貫禄と妖気。ハルスの子供も結構可愛いのに。まろりーは勝手に「怪物シリーズ」と呼んでいます。
そう、シリーズ。明らかにシリーズなのです。
左;<猫を抱く少年と少女>、中央<猫と少年>、右<猫を抱く少女と少年と犬を抱く男>
左の絵は最初に挙げたのよりもちょっとだけ良い顔になっている?
真ん中の絵は猫とじゃれている少年。喉元に猫パンチを喰らって笑い声をあげています。
右は新キャラ?のおじさんまで登場して、よくわからないけど盛り上がっているようです。
何故こう可愛くもない同じ子供を何枚も描くのか。子供っぽい無邪気でコミカルな仕草が魅力だったのでしょうか。屈託のない笑顔ですが、顔が子供ながら人間離れして面白かったからでしょうか。
同一主題で繰り返し描くというのは、画家個人の特別な思い入れがあったか、あるいは繰り返し描いても売れたということで、このシリーズ結構人気があったのかも。インパクトがあって、一度見たら忘れられない、他の絵に登場してもすぐに同一人物だと分かります。
因みに、どうやら一番最初に挙げた、笛を持つ女の子の絵は、子供を「子供」として興味を持ちはじめる18世紀にも版画化されていたようです。版画は油絵より安価で大衆的=アートというよりより商業的なので、一世紀たった後でもモレナールの怪物もある程度人気があった事を示しています。
しかし、怪物たち(笑)に反して、きりっと可愛い猫。モレナールは間違いなく猫をよく観察していて、多分、猫好き。
この怪物シリーズは奥さんにも感染したようです。
レイステル<猫を抱きウナギを持つ少年と少女>
あるいは奥さんが初めに描いて、後でモレナールが嵌ったか。もしかしたら猫は同じにゃんこかも。
さて、おそらくモレナールは楽器を描くのを得意としていました。
モレナール<リュート奏者としての自画像>
ようやく出てきました、モレナールの自画像(笑)リュートはお気に入りの楽器のようで、よくモレナールの絵に登場します。
怪物シリーズとは打って変わって、真面目そうな表情で、リュートの弦を調律するモレナール。
モレナールの中で比較的有名なのがこの絵。
モレナール<スピネット(ヴァージナル)を弾く女性>
フェルメールなどはヴァージナルを弾く女性をよく描きましたが、
フェルメール<ヴァージナルを弾く女性>
室内の、奥行きがあり且つ合理的な空間と、光と影の織り成す質感と情感を描くフェルメールと違って、モレナールのこの絵は、どうも楽器の中身と女性にのみ注意が払われ、その他の要素はその2つを出来るだけ滑らかに接続させるためだけの緩衝剤のようで、逆に全体で不調和な感じがします。むしろ…セザンヌ(褒め過ぎだ(笑))。
楽器の中身の弦や弦を留めるピンの並びをよく見せる為に、楽器はやや高い位置から見下ろします。多分、「中身を詳細に描くこと」に気を取られてスピネットとしての全体は、何だか不恰好。というか、弦が斜めに張られたスピネットなのか、水平に張られたヴァージナルなのか、それすら判断に迷います。こんないまいちスマートでない鍵盤楽器が実在した可能性は否定できませんが、明らかに蓋の長さが足りないのでは。
逆に、フェルメールはわざとか偶然か、中身を描かないようにしています。それどころか、鍵盤まで描きません。うまいのか、ずるいのか。
奥から男性が入って来ています。これも画面の空いた空間に構図的に適度な大きさの入り口を描き加えただけなのか、遠近法が破綻しているような。
とにかく、描きたいものを優先に描いたらその他が困ったことになっている絵かと思いますが、その姿勢はとても素直で、まろりーはそういう他愛のないささやかな欲望に忠実な絵って好きです。
とはいえ、決してヴァージナルがいつも適当だった訳ではないと思います。
割としっかり描いている絵もあり…。クオリティが一定しないのもモレナールです。
自分の家族を描いた気合いの入った絵では家族に種々の楽器を持たせています。
モレナール<画家と画家の家族の肖像>
この絵はまろりーのお気に入りでもあるので、以前当ブログでも掲載していて、その時と同じ事を繰り返し書くことにはなりますが、このような絵だからといって、モレナールの家族が音楽大好き一家で、いつも全員で仲良く合奏していたかどうかは定かではありませんし、一般民衆の家庭での音楽がここまで大規模になれるかどうか、むしろ疑わしいものです。
では家族皆が何故楽器を持っているかというと、複数の楽器はきちんと等しいピッチに調律しないと調和した音楽になりません。つまり、沢山の楽器を各人に持たせて合奏出来るというのは「モレナールの一族が調和していること」を表していると考えられます。
バロック時代の家庭に一番必要だったのは、愛情より、楽しい家庭生活より、個人の幸せより、一族の繁栄とその為に必要な調和とされていたから、モレナールの家庭自慢とも、決意表明とも、願望とも読めるのではないでしょうか。
左;モレナール<演奏するカップル>、右;モレナール<演奏するカップル>
リコーダーとテオルボ(アーキリュート)、かたやシターンとテオルボとで合奏する男女は、二人が調和した関係であることを暗示します。足の下にある足元を暖める暖房機にも、「愛を暖める」的な意味があると思われます。この場合の傍らの犬は、忠節を意味するでしょう。
一方で、一般に楽器というのは「調和」を象徴するだけではありません。画中の楽器は様々に解し得ますが、一つの典型として、「ヴァニタス(虚しさ)」が挙げられます。音は決して現実の物質世界には留まらず、必ず虚無へと消えてゆきます。つまり、楽器の音は儚いものです。ちょうど、人生のように。
モレナール<ヴァニタス画を描く画家>
机の上に種々の楽器と骸骨がてんこ盛り。
また、直ぐにこの世界から滅する音で成る奏楽の楽しみは、世俗的な一時の快楽にすぎず、そのような快楽を追うことは虚しく愚かしい行為だとも解し得ます。また、例えばリュートなどは丸みのある形が女性的とされ、何か性的な含意をほのめかす場合もあります。
ディルク・ファン・バビューレン<取り持ち女>
ハルスより年下(多分)のバビューレン作。女の子を買おうとする男と仲介役の取り持ち女。娼婦のお姉さんはリュートを弾いています。これは・・・仄めかしてはいないか(笑)
因みに、お気づきですか、上に挙げたフェルメールの絵にも、まさにこの絵が画中画として描きこまれています。…さて、フェルメールのその意図は。とはいえ、あまり何でもかんでも解釈しようとするのも危険ですが。
話を戻して。一言でいえば、楽器がしばしば慣用句として「罪深い楽しみ」や「虚しく儚い人生」を象徴します。
モレナール<虚栄の寓意>
豪華で贅沢なものに囲まれて、髪を櫛けずらせながら、満足げに鏡を覗く女性。足元に髑髏を踏みしだいて死を侮っていますが、隣の少年が、あっという間に壊れて消えるシャボン玉を掲げて、結局死は避けられないことを示しています。傍らの猿も、おそらくは女性の行為の愚かしさを示しているのではないかな。
傍らに楽器としては高価な部類のヴァージナル。壁には様々な楽器。限りある生を儚い楽しみに費やす彼女の罪悪が潜んでいます。
ここでもう一度、モレナールの愉快な「家族の肖像画」に戻ってみましょう。
右の方、モレナールの子供?の一人が、貝殻と麦藁ストローのシャボン玉セットを笑顔で持っています。シャボン玉、この世界一移ろいやすく壊れやすいもの、もちろんこれは儚い人生を象徴する否定句です。この時代、生の儚さを表す絵画、一括りにして「ヴァニタス画」と呼ばれますが、これは結構流行りました。まあ、テーマとして暗鬱ではあるけど、とても分かりやすく、多分ちょっと死の香りが格好良い(笑)のもあると思う。(ヴァニタス、虚しさという意味のこの美術用語は覚えておくと便利です。)ヴァニタスについての簡単な解説はこちら。
…でも、家族の繁栄を描く肖像画で、描いていいのかなぁ。
楽器を弾くからといって即物的な楽しみに耽っているだけではなく、きちんといつか死ぬということも覚えている真面目で謙虚な家族ですよ、という意味なのかも知れません。楽器の儚さとシャボン玉を持つ子供の背後の壁に、剣と天秤を持つ何だか真面目そうな擬人像も書き込まれています。
わざと様々な楽器をカタログのように描いたり、ヴァニタスを紛れこませるあたり、自分はこのような絵を描くのが得意だと主張しているようにも思われますけど。
この家族肖像画のように、モレナールはごちゃごちゃした詰め込み気味の構図を結構好むかと思う。文字情報に還元出来る絵解きの絵に創意を凝らしています。
モレナール<婚約の寓意>
様々な含意のある沢山の人物が描かれた凝って気合いの入った絵。人物のポーズに使い回し、もといお気に入りのポーズが見られますが、結婚の記念として注文されたのでしょうか、華やかで祝祭的な雰囲気です。間違ったこと言うと嫌なので、深く掘り下げないけど(笑)おそらくは、全体としては結婚の意義とつつがない結婚生活と一族繁栄の願いが語られているのでしょう。
でもモレナールの絵の中で気に入った案外気に入っているのが、このシンプルな肖像画。
モレナール<女性の肖像>
単純にご衣装萌えです。ごっちゃりしないから、女性の立ち姿が際立っています。
閑話休題。
肖像画家フランス・ハルスの弟子(推定)の実力を発揮して、肖像画もよく描くモレナール。というより、肖像画は画家にとって一番注文を取りやすい種類でした。
この時代、これも流行したのが、集団肖像画。
沢山の人を顔が解るように描く必要のある集団肖像画は下手をすると無表情の顔が延々と規則的に並んだりするし、逆に上手すぎると不平等に暗がりに追い込まれてしまう人も出るしで、構図に工夫が必要です。
フランス・ハルスはその点は真に天才でした。絵画的な欲求とパトロンの意向が過不足なく溶け合っています。
ハルス<聖ハドリアヌス市警備隊の士官たちの晩餐>
さて、翻ってモレナール。
モレナール<ある家族の肖像>
(暫定)師匠のハルスとは違って、小難しく頭脳戦を展開してきます。 画中の人物は、男女ペアを成す5つの塊に分割出来ます。
まずは小さな幼児の組、やや成長した子供の組、青春真っ盛りな若者の組、すっかり落ち着いた大人の組、髑髏を抱えた老人の組。
もうお分かりでしょうか、左から段々歳を重ねていく、人生の諸段階が描かれています。
さらにいやらしいことに、この5組はそれぞれ5つの感覚をも表しています。果物を食べる味覚、猫に引っ掻かれる触覚、花の匂いを嗅ぐ嗅覚、音楽を聞く聴覚、本を読む視覚。
ところで、このぶら下げられている猫、怪物シリーズに登場する猫と似ていませんか。ひょっとしてまさか…。
とにかく、一枚に肖像画、人生の寓意、感覚の寓意と三重の意味を掛ける。欲張りに頑張ったと思います。
幼児の側の猿はまだ不完全な人間を、夫婦の楽器は調和した関係を、傍らの犬は忠節を表していると思います。因みに、インターネットによれば、右端の髑髏はこの人がこの絵が描かれたときは既に鬼籍に入っていることを示しているのだそう。それと同時に留まらない時と避けられない死を連想させます。
思えば、子供時代も青春時代も留まらず過ぎ去る人生とは儚いものです。
モレナールがどんな思いで死の表象を繰り返し描いていたのか、その一端が伺えるかも知れない一枚がこれ。
モレナール<ヴァニタス画を描く自画像>
…髑髏を描く手を止め、こちらを振り向いて意味深ににやりと笑うモレナール。
この笑顔、何となくこの絵と同類の笑みな気がする。
左;レンブラント<放蕩息子としての自画像>、右;フェルメール<ワインを持つ女性>
お酒を飲みながら女性を膝に乗せ笑うレンブラント、男にセクハラ?(笑)されながら複雑な笑みを浮かべる女性。
そしてモレナールは。
モレナールの前にいるのは、おそらく娼婦と客を仲介する取り持ち女。お金を膝に、ヴァニタス画を描くモレナールの腕を引っ張っています。
この男の、まんざらでもなさそうな顔(笑)ヴァニタス画を売ったお金で女の子と戯れようとでもいうのでしょうか。
コップに半分入ったお酒を「まだ半分」と考える。いつか死ぬから今を楽しむ。メメント・モリ(死ぬって事を覚えておけ)とは、同時に生きている事も覚えておくことです。……ってそこまでは言ってないな、モレナール。
マコト様>
返信ご不要とのことですが、やっぱり返信しちゃいます(笑)
思わず、フォルクレについて長々と語ってしまいました(笑)乱文失礼しましたー。ジュピテルは、嵐と雷(自然の猛威)がテーマとも言えるので、とってもアグレッシヴ&バイオレンスです。ごろごろとなる様を描く、流れるような繰り返し部分でも、音域が上に行ったり下に行ったり、右手5本の指でなかなか間に合いません。
この余りのサドっぷりに、フォルクレの曲は本人と息子以外、誰も弾けなかったそうです。=つまり、皆に弾いて楽しんでもらおう、なんて甘い曲ではないのかと(笑)
ユピテル様、やっぱりこんな格好よくないですよね。ユピテルといえば、気に入った女の子をものにするためには、動物になったり液化・気化までするような、破廉恥(?・笑)な神様というイメージがありますが、フォルクレの曲では名誉挽回、もとい本領を発揮した姿を見ることができます。
前の日記で挙げた<ラ・クープラン>の演奏は、かなり元気が良い演奏かと思います。クープランさんも作曲家・鍵盤楽器奏者ですが、彼の典雅で仄かな儚さの香る曲とか詩的で皮肉でユーモアに富んだ曲名とか、「私は聴衆をびっくりさせるより、感動させたいんだ」発言とか「ソロ演奏も名誉心から惹かれるけど、伴奏ほど音楽の楽しみを感じるものはない」発言とか、割と穏健で大人しい人な感じがします。
それなのにフォルクレの描写は、真っ黒で…余計にクープランどんな人だ、と思わずにはいられません。本当は腹黒だったのでしょうか。彼とてパッション&バイオレンスな曲も書かないでもないけど、<ラ・クープラン>はどうもフォルクレの悪乗り諧謔な気がしないでもない(笑)
フォルクレとクープランは歳が近く、しばしば一緒に伴奏に回ったりしたようですが、二人の仲がひたすら気になります。二人とも名手ですが、この二人の伴奏で大丈夫なんだろうか…。
三郎丸様>
お見舞いありがとうでした!
実は、異動になり、7月からは土日祝日が休みとなった。どこへ行こう?
まろりーとして目を付けているのは、ワシントンのナショナルギャラリー展とパウル・クレー展、古代ギリシャ展かな。今のところ洋物に固まってますが、和物も要相談。
マコト様>
ありがとうございます!^^
フォルクレ、いいでしょう♪…全体的に色々な意味でかなりサドです(笑)音符の並びも難易度も結構どSですが、曲の雰囲気もとってもデモニッシュ&バイオレンス。バイオレンスだけど上品さは失わない、重々しいけど退屈させず優雅で快活、私にとっては(好きな演奏は)聞き飽きない作曲家です。
このアントワーヌ・フォルクレ自身、バイオレンスな人で、当時は「悪魔のように弾く」とまで評されたヴィオラ・ダ・ガンバ(ヴィオール)奏者です。
このアントワーヌ・フォルクレには、彼の資質を受け継いだ才能豊かなジャン=バティストという息子がいて、父アントワーヌは、この息子を嫉妬のためか修業のためか、とんでもなく虐待します。それも悪質で、暴力はもちろんのこと、精神病院という名の隔離施設にぶち込んだり、あらぬ罪を着せて国外追放を画策したり、私生活でも悪魔っぷりが激しかったそうです。ただ、息子ジャンの方も大きくなったら有力者を味方につけたりして、パパのいじめに負けていなかったようです。
同時代の音楽家がジャン=バティストを描いた肖像音楽を聞くと、どうやら健気にも?まともな大人に育ったようです。
デュフリ<ラ・フォルクレ>
生前出版されなかった父アントワーヌの遺作を息子が伴奏をつけて見事に編曲・出版したのが、現在に残るアントワーヌ・フォルクレの曲です。この辺りで、父親の音楽を後世に残したかったのか、単なる楽して金儲けのためなのか、前者だととってもドラマチックで良いですよね。本来はヴィオールのための曲なのですが、どういう訳かジャン=バティストは同じ曲をわざわざクラヴサン独奏用にも編曲・出版したのです。そんな訳で、フォルクレの曲にはヴィオール&伴奏ヴァージョンと、鍵盤独奏版の2種類があります。この2種類を聞き比べてみるのも一興かと思います^^
<ラ・クープラン>(右側は後半に<ラ・ルクレール>という別人の肖像画が続きます)
同僚の鍵盤奏者、フランソワ・クープランの肖像。本人とても穏やかそうな人なのに、こんなにどす黒く描いて大丈夫!?とちょっと思った(笑)冒頭から、唸るような低音が響きます。「クープランどんな人ww」(笑)と突っ込みたくなること請け合いです。この演奏ではテオルボを使っていますが、クラヴサンやギターを伴うことも。ギター伴奏が個人的にはとんがっていて結構好きかも(笑)
余談ながら、クープランもアントワーヌ・フォルクレの肖像<壮麗あるいはフォルクレ>という曲を書いています。この「壮麗」という言葉が、日本語で「傲慢」とも訳し得るのが、ちょっと笑えますが、やはり彼の音楽はマコトさんのおっしゃる通り、「荘厳」だと当時でも受け取られたのかも知れません。
で、まろりーが弾くのは、このクラヴサン編曲版。バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くことは多々あれど、フォルクレの曲は、ピアノで代用させることの出来ないほどチェンバロ用なために、プロの「ピアニスト」はピアノのレパートリーとして弾くことは(おそらく)ありません。
で、元の曲がヴィオラ・ダ・ガンバというチェロの音域を出す低音楽器の曲なので、鍵盤独奏用になっても低音域が半端ないという訳です。このフォルクレの曲のバイオレンスな情感は、癖になります(笑)そして、このえぐい曲が、甘ったるくて軽佻浮薄と評される「ロココ調」の時代に出版されたという・・・。
フォルクレ曲中、もっとも(奏者に対して)サディスティックな曲が、以下。
<ラ・ジュピテル>
ギリシア神話の雷神ゼウス(ユピテル)の姿を描いた曲。ギリシア神話中のゼウスもサドっ気のある神様だからか、神々しいかはともかくとして超そっくり。いえ、本家本物のギリシア神話より格好いいです、このユピテル。
おおお、HP復活、おめでとうございます!早速リンクを貼らせて頂きますよ☆←リンクフリーとのことなので
素敵な名前のサイトですね。工事完成、首を長くしてお待ちしてます^^
とりあえず、マレッラとかマレッラとかマレッラとか、ラボルドとか、ラモーとか、ギニョンとか弾いてやった!(←全部フォルクレのクラヴサン曲)
腕は完治してはいませんが、ほぼ自由に動かせるようになったので、今までのフラストレーションを発散すべく、いつものフォルクレー祭り。フォルクレとバッハ祭りはいつも不定期にかなりの頻度で開催中です。
マレッラはこんな感じの曲。
La Marella・・・Forqueray
低音域万歳(笑)分厚くけたたましい低音と半音階と付点のリズムが特徴的な曲。フランスの曲は、付点を楽譜に書かれた以上に短くかすめるのがコツ。その為に、変に力むと上手く弾けないよ。これだけ、真っ黒な曲なのに、いやらしいところがないのが不思議です、フォルクレ。むしろ、無邪気ささえ感じ…はしないか…(言いかけてやめる・笑)なんというのだろう、何かこういうものへの、朗らかな執着心とでもいうのでしょうか。いや、曲そのものが朗らかというのでは決してなく(笑)
それにしても、ユーチューブの画像のヴァトーの雅宴画、あわなすぎだろう。
さりげにバッハの平均律(のプレリュード。フーガでなく)とか大人しく弾いていたけど。さりげに片手だけでも死ぬほど難しい3声のリチェルカーレとか弾いていたけど。3声のリチェルカーレもフォルクレとはまた違った頭のおかしさがあります。冷静に頭がおかしい(笑)大体、バッハってさりげなくとんでもない不協和音を入れたりするけど、これもかなりいっちゃった曲だと思います、個人的に。
なんでも、一小節ごとに転調して、フラットが一つずつ増えて(5度ずつ調が下がる)いって、最終的には変イ短調というフラットが7つ(つまり全ての音。それ以上は下がれない)も付く調まで変わって、また一小節ごとに元に戻っていく、なんて部分もあるという・・・。
まろりーにとっては、ひたすら難しいのでそんな音楽的表現云々の問題ではないのですが。
さて、腕の戻ったまろりーは、今まで当ブログに載せた画像を整理したいと考えています。時代別、作者別、地域別に分けたい…。けど、けっこう大変そうだ。けど、やりたい。
上野まで、かの白と黒の例の物を見に行きました!
そう、皆様ご存じの。もちろんレンブラントの版画です。
以下、レンブラント展の感想ですー。
超よかった。ぞくぞくするくらい楽しかった。さすがは西洋美術館、地味ながらクオリティが違います。これは、一見の価値ありです。
レンブラントは史上最高の明暗表現の画家であります。その多彩な明暗表現の粋を、特に色彩に頼らない明暗表現が命の版画作品において、見てみよう、みたいな展示。
つまりは、版画が主な展示物。さりげなく素晴らしい油彩画を混ぜつつも、あくあで主役は版画。
特に、今回の主役は、和紙に刷られた版画だったと思います。そう、和紙。和紙のようなものではなく、日本製の紙という意味の和紙。
何年か前から、「レンブラントと和紙」という著書があり、ずっと読もう読もうと思っていたけど、今度こそ本当に読もうと思う。読まずにいられない! 読んで勉強してから展示を見に行けばよかったと激しく後悔しました。
それくらい、和紙刷りのレンブラントの版画の出来は驚異的でした。以前、確かに和紙に刷られたレンブラント版画というものは、見たことがある。けれども、その時は、和紙というものの表現力に気づくことが出来ませんでした。あまりに普通に適当に埋没して飾られていたから。まろりーの目も大分節穴でしたが。
版画制作も主なレパートリーであったレンブラント。一点ものの油彩と違って同じ画像が得られる版画ではありますが、作品によっては版に何回も手を加え、刷る紙を変え、インクを乗せる量を変え…色々と表現を試しました。
今展示は、同じ作品でも違う刷りを並べて展示し、その表現の違いをとくとご覧あれ、という感じ。
さて、和紙の問題。和紙という素材そのものについて、まろりーはちょっと詳しくないのだけれど。だから「レンブラントと和紙」読んでおけばよかった・・・。かねてから、水に強いので、水に紙を浸してから刷る銅板画によい、というくらいは聞いたことがある。
それだけでなく、レンブラント時代のオランダならびにヨーロッパにとって、遥かなる東の国の紙は強烈なエキゾチズムだった事でしょう。なにしろ、耶蘇会通信誌によると(多分?資料はあいまい…)、その島には小人さんが暮らしていて、王様は純金のお城に住んでいるけど、民衆は木と紙で出来たおもちゃのおうちに住んでいて、謎の太った半裸の像を崇めているけど、とても器用で工芸品は天下一品といいます。うわーこの素敵なメルヘン国一度行ってみたい(笑)
しかし、展示を見ると、そんな強度だのエキゾチズムだの舶来品のレア感・高級感だの、それだけではなかった事が分かります。(確かにそれも大いにあったでしょうけど…)
刷りの効果が、普段見慣れた普通の西洋の紙に刷るのと全然違う。
多分、より沢山のインクが紙の上に乗っている。より盛り上がっているというのでしょうか。その為、インクと鑑賞者の距離がほんのわずかばかり近くなって、まるで線が浮き上がっているかに見える程。
紙自体は、西洋紙の方がはるかに白いので、白と黒とのコントラストは西洋紙の方が高いのだけど、インクが多く乗っているからか、光をよく吸収して、黒が際立ちます。
そして、朱鷺色めいた和紙の色。色というのでしょうか、何しろ、紙自体が光を放っているかのような微妙な光沢。見る角度によって表情を変えます。
高級なだけの価値はあるってものです。ショッキングな程、和紙の性能が素晴らしかった。
レンブラントみたいなセコそうな人は、人気画家レンブラントの絵が沢山それなりの値段で製造できて、一度彫った原版にちょっと手を加えるだけで、手軽に新しい絵が出来上がるからって改訂版沢山刷って、インクの乗りを変えたり、オートミール紙という光沢のない茶色がかった紙に変えたり、紙より高い羊皮紙や、東洋舶来の紙に刷って付加価値を高め価格を釣り上げたり、お金持ちで熱心なコレクターにそのすべての版を買わせて荒稼ぎをしていたに違いありませんが、それだけではなかった。やはり、版画表現の可能性を追求していたのでしょう。実利を兼ねて(笑)
どうも、出来たてでよい版が得られる最初に高級な紙で刷り、コレクター向き豪華限定版を作って、版が多少すり減ってきたら普通の紙に刷って、廉価普及版を作る、ということをやっていたようです。うーん、稼ぐ気満々。
以下、印象に残った絵の一部。
実は、芸術的な版画表現を追求するあまりに、そういった商売にならない?版画を制作していた人も中にはいたらしい。
セーヘルスというこの時代の版画家は殆ど伝説的。版画なのに非常にエキセントリックな一点ものとも言える作品を作っていたそうな。
左;ヘラクレス・セーヘルス<苔むした松>、右;セーヘルス<イタリア風景>
凝りに凝ったセーヘルスの版画は希少価値が高く、故に高価。
そんなセーヘルスの原版を手に入れて、改訂アレンジして刷ってしまったレンブラント。
→
左;セーヘルス<トビアスと天使>、右;レンブラント<エジプト逃避>
ちょっとセーヘルスは綺麗な図版を手に入れられなかったけど…。主題変わっているし(笑)しかし並べて比べてみると、レンブラントの方が、エキセントリックなえぐみが弱められて見目いいね。人物はさすがにレンブラントの方がはるかに上手…!いえ、見事なコラボレーション。
ともあれ、そんな離れ業コラボも出来ちゃう銅板画。しかも希少なセーヘルスに名手レンブラント、しかも、展示されていたのは和紙に刷ってあった。
余裕で油絵買えるくらい高そう。
レンブラント<画家アセレインの肖像>
風景画家、アセレインさんの肖像。
なんともいい雰囲気の普通のイタリア風景ならびにローマの廃墟を描くヤン・アセレインさん。
左;アセレイン<川のあるイタリア風景>、右;アセレイン<ラバのいるローマの水道橋の廃墟>
・・・実はこれらの絵の正式名称知らないや(笑)まあ、特に画家が名付けたようなタイトルは無いのだけど。
レンブラントの版画を見るに、アセレインさん、とってもいい人そうだ。なんかこう、人の良さが顔にも絵にもにじみ出ているよね。きっと。皆に好かれるいい絵を描くぞーみたいな。
そして、このレンブラントによるアセレインの肖像版画。第三段階まであって、上に掲げたのは第1段。…2段だったかも・・・。
アセレインさんの後ろに描きかけの風景画のかかったイーゼルが描きこんで、この人が風景画家であることが分かります。
ところが、隣に飾ってあった第3段。このイーゼルは見事に消され、背景は真っ白にされてしまいました。となると、この絵は画家の肖像じゃなくて、ただの帽子を被って机に向かう男になってしまう。画家という職業を示さないで、ただのおっちゃんとしてのアセレイン(笑)つまりは、人物そのものが強調されているのだと思います。
さて…色々書いていたらもう夜遅くになってしまいました。今日はこれで筆を置き、(今日書きたいことは書いてしまったので)寝ることとします。