<廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図>
前回からの続き(笑)
さて、この絵を描いたのは1796年。
革命の後!
そして、旧政府主催の官展に毎年出品し、貴族の邸宅を飾るための仕事をしたかどで投獄されたあとに描いたもの。
貴族の夢を体現したような、廃墟と羊飼いとアルカディアを描いたユベール・ロベールは、出獄したあと取り壊されるバスティーユを描くなど、まさかの「革命画家」として活躍したそうな。
市場の求める絵を求めるように描く、まさに職人芸術家。素晴らしい。こういう人、フラゴナールもそうなんだけど、まろりーは好きだ。
現代ではあまりこの迎合的な姿勢は芸術家としては評価されないのだけど、まろりーは画家の鑑だと思います。現代と芸術家の役割を取り違えてはいけない。
で、本題。
王政時代に建てられた王権チックなルーヴル宮殿が崩れるのは、ひょっとして、王権を倒した共和制権への政治的なアッピール☆なのかしら・・・。
王権、崩れちゃいますよね!みたいな…(笑)
廃墟=消えない偉業=古典芸術への尊敬と愛着に見えたアポロン像も・・・。
フランスの共和制権は、共和制で発展した(と見做された)偉大なるローマの美術を指向しました。またそれは旧体制的で享楽的なロココ様式と真逆であったために(あるいは真逆になるようにしたために)強烈なロココのアンチとして流行した訳です。
つまりは、王権的な宮殿が崩れたあとで、共和制を体現するローマの彫像がしっかりと立つ、それを画家(ロベール)が称揚してデッサンする、なんて図式が・・・
読み過ぎかな?(笑)ごめん、妄想です!
7月14日拍手お返事>
うれしいお言葉、ありがとうございます!100の感謝を!!
ピクチャレスクすぎて良い。
ピラネージの絵はこんな感じ。
http://www.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&tbs=isch%3A1&sa=1&q=piranesi+roma&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=
一群のティボリの絵がとくにピクチャレスクでお気に入り。
http://www.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&tbs=isch%3A1&sa=1&q=piranesi+tivoli&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=
ピラネージをこう呼ぶ人もいるらしいです。
「ロマン主義的古典主義者」と。・・・そうだよね、ローマの廃墟はロマンだよね。
ユベール・ロベールを探しているのだけど、ピラネージの方がインパクト&影響力が強く、資料が遥かに多いのでついついピラネージ。
ローマの廃墟。
廃墟と、避けられない死と滅びの感覚とは、容易に結びつくだろうけど、それではあまりに短絡的過ぎる。最終的にそういう結論にいくにしても、洒落ている方が好みです。
つまりは、避けられない死と滅びの悲愴な感覚を味わいたいがために廃墟を求めている訳ではないと思うのです。
まさか、ローマに居てアルカディアを夢見たウェルギリウスも、後世、荒廃して葡萄畑と牛の放牧場になっていたローマそのものにアルカディアが夢見られるなんて、思いもしなかっただろうな。
しかし、まろりーの親しむローマの廃墟は、いまや考古学的に発掘され、草木も生えぬ史跡と成り果ててしまっているのでしょう。廃墟ではなく、史跡に。
ピラネージの廃墟すら失われた現代、呪うべきは科学の明晰さ!というのがロマン主義の論調かな(笑)
そのローマの遺跡には、ローマの時代の壮麗だけでなく、そのローマを夢見る17、18世紀の廃墟と田園の夢も詰まっているのです。
廃墟はファンシーなものに限ります。未来のメメント・モリより、流れ去った時への甘美な哀惜を(笑)
・・・論点がずれました。つまり、単純に廃墟はピクチャレスクな点で良い。
煉獄山を再登攀する気になりました。果たして地上楽園に至れるのか、などと思っていたのですが、図書館で「バロック」という直球なタイトルの歴史の本を見かけ、魅力を感じ、借りてしまった。
地上楽園は遠く・・・
地獄はウェルギリウス先生と一緒にすごく楽しく巡れるのですが!(笑)
蔵書の整理をしなければ。大幅に減らさねば・・・。しかし要らない本は殆ど所有しないから、手放すものを選ぶのはなかなか難しい。
人はしばしば物に縛られます。自由のために、何も一切を持たない、必要すら感じない、そんな自由な境地に憧れます。しかし、同時に、俗を生きる享楽者ですので、全てを所有したい。
常に、正反対の両立しない欲求が1つの魂に同居します。おそらくは、大抵の人間がそうだろうと思っています。
まろりーの解決策としては、ごくごく当たり前のこと。それは本当に必要か、それは持つに値するか、それは購う値段と価値が吊り合うか、吟味すること。
ものを所有するということは、殆ど自分と自分の価値観との対話です。長考に及ぶこともあれば、瞬時の直感に頼ることもある。
そして、信仰じみて思うことは、本当に必要なものは、自分に相応しいものは、適宜ものの方から眼前に現れるだろう、という漠とした確信のようなもの。それは一度手放したものも、また必要になれば、何かの形できっと戻ってくると思うのです。
欲しいと思っても結局手に入らなかったものは、本当は必要なかったものなのだとも。
結果、ものには自分が投影されてしまう。逆に、どのような自分でいたいかをものでコントロールすることも出来る。
ものとコンセプト。
自堕落に成り行きで所有しない。
コンセプトが見出せなくなったものは迷わず捨てよ。
・・・しかし、大抵のものは自分がそれまで所有していた意味を保っているので、問題はその上で何を手放すかなんだ・・・。
ああ、「必要」というものが無くなればな!(ふりだしに戻る)
6月7日、拍手お返事>
遅くなりました!ちょうどようやく更新する気になりました。
最近は構想だけ(まろりーは創意と呼びます)はあるのですが、それを顕現させる技量が圧倒的に足りず、(そして技量は日々低下の一途を辿る&基準が日々上がる・・・)自分が良しとするものに至らず、それでこの場の更新が滞りがちになる、という訳です。
そして、インターネットの世界は自分の足枷になるべきではない(自分に決定的な影響を与えてはならない)、と考えていますので、その状態を改善させるための特別な努力はしないことにしています。
そんなのんびり超マイペース一方通行サイトですが、当面はそんな感じで進めていこうと思っています。