大作ばかりで充実でした。
印象派の黎明期、多くの人達から見て「普通の芸術」だったのは、筆跡を残さず滑らかで、理想的な人体や風景、文学的な画題などを多く描くアカデミー派の絵でした。
まっとうな画家と絵の購入者なら、そのアカデミーの審査を経て、基準を満たしているものしか飾られることのない権威ある官展の「サロン」を目指すものなのですが、端からアカデミーの美学に反抗する印象派たちは、サロンに入選しないので、自分達で展覧会を開催してしまいました。
その展覧会に参加してた人達が、ざっくり印象派。(←印象派展に参加してた人の中には、印象派的とは言えないセザンヌがいたりするくらい皆で個性的なので、超ざっくり)
そんな印象派周りに的を絞りますっていう感じの展示構成で、ゴッホやゴーギャンといった後期印象派の人達にはあんまり頼らない(笑)印象派展に参加しているという理由でセザンヌが少々。
そして、スーラやゴッホに続くというよりは、印象派の父マネに始まりマネに終わる。
実は、印象派はマネに始まるとはいえ、彼は印象派と交流があって自身も影響されたけど、印象派展には参加していない。
というのも、マネにとって意味があったのは、公の展覧会でその革新性を認められることだったそうです。しかし、反アカデミーという考えは印象派と共有していました。
さて、目玉の一つ。マネの鼓笛手。 エドゥアール・マネ〈笛を吹く少年〉
楽器の絵だからね。
さりげなく、奥まった休憩場所でおまけのように、この少年が持っていたようなファイフの展示とそのミニ歴史が説明してあって、なお満足。
軍楽として実は歴史ある楽器なのです、ということです。
音声ガイドには、その甲高い音色が録音してあるようなのが、他のお客さんの音漏れで聞こえてくる。
音漏れしやすい周波数らしい…。ファイフの音だけが聞こえてきます。ラッキー(笑)
ははあ、つまりはやはり聞こえやすいということで、軍楽に採用されたんだ。
私がこのオルセー展で一番見たかったのが、実はマネの<アスパラガス(単数形)>。 マネ〈アスパラガス〉
先の鼓笛手は、画面も大きく、気合入りまくり。平面的で笛吹きだから何?って主題でアカデミーが気に入らないのは百も承知だけど、巨匠ベラスケスを引用して、わざと揺さぶろうとしている。あとは、平面的で無背景なのは、流行最先端の日本の浮世絵の影響とかもあるんだっけ。
絵画はこうあるべき、という当時の既成の概念を突き崩そうと、アグレッシヴでちょっとピリっとしている。
一方、後期の作品たるアスパラガス(単数)。
アスパラいっぽんの絵。一本のアスパラを描こうだなんて。
鼓笛手1人の絵より、さらにだから何だって絵ですが、人間たる鼓笛手1人を描くよりよほど奇抜ではないだろうか。
でも、画面も極小で、奇抜なことをしてやろうなんて気はさらさら感じないし、ちっとも気合が入っていないというか、のびのびリラックスしている。(このアスパラガスの絵が印象派が社会的に認められてきた後期の作品だからでしょうか)
だけれども、しっかり絵になっている。ただのアスパラ一本が絵になるなんてねぇ、このお洒落さんめ!
で、何でアスパラ一本かというと、ちゃんと素敵なエピソードが残っていたりする。そのエピソード込みで大好き。
マネの束にしたアスパラガスの絵を買ったお客さんが、よほど気に入ったのか釣りはいらねぇぜ! とばかりに、定価より多めのお値段を払ってくれたのだそうです。 マネ〈アスパラガスの束〉
それを喜んだマネは、さっそくこのアスパラガス(単数形)を描いて、そのお客さんに届けました。
束から一本落ちてました、と言って。
このお洒落さんめ!
ともかく、マネがこの絵を描いた時(おそらくそう長い時間は掛けていないのでは)、彼はご機嫌だったに違いなく、そんな素敵な気分で描いた絵が素敵じゃない訳がない。
確か現代アートのロスコが言っていたことなんだけど、ロスコの作品が大きいのは「メッセージの音量を増すため」なんだそうな。作品が大きいというのは、拡声機で喋っているようなものだと。
そういうところって現代美術に限らず、もっと古典的な絵から、確かにあると思う。
で、マネのアスパラガスの小ささです。
これが大画面に描かれてたら、「皆どう、一本のアスパラ。これがゲイジュツだぜ!」みたいな嫌味な感じにもなるだろうけど、この何でもない控えめな小ささが、周りには聞こえない近距離でのお喋りの音量くらい、で余計に共感を呼ぶという訳です。
神話でもなく、理想の世界でもなく、何か物語性もある訳でもなく、この何でもない見たままの世界が絵になるんだ、どんなものでも絵になり得るんだ、芸術は自由だー(今展示の副題)という主張を始め、実際にあまねく社会に認めさせたのが印象派だったのでした。
何だか、アスパラ押しだけで長文になってしまった。しかも締めちゃった(笑)アスパラのさりげなさが魅力なのに、余計なことをした。後悔はしていない。
因みに、見たままの風景なんかを描くことは、ずっと昔からあったけれど、画家たち自身でさえ、それはプライヴェートな練習用だと思っていて、美術館に飾るような芸術とは思っていなかったところ、芸術だと言って命を懸けたところに印象派の革新がある。ということです。
アスパラ予想以上に書きすぎたので、他とくに印象に残っているのを少々。
モネの雪景の内側から輝く色彩は感動でした。
クロード・モネ〈かささぎ〉
一番VIPな位置に飾られてたから、真の目玉はこれなんじゃないかしら。
図版になったら失われてしまう輝きに満ちていて、これは本物で見る価値ありだと思います。
多分、雪の積もった朝(夕方?)に戸外でイーゼル立てて描いたのだろうけど、すごい根性…。寒くて手がかじかんだりしなかったのかな。
他にもモネは沢山あって、何だかんだいって、モネって絵が上手よね。
あとブリ美で素敵だったカイユボットの代表作がやはり面白い。
ギュスターヴ・カイユボット〈鉋をかける男たち〉
当時は生生しすぎて批判されたそうな。理想化がなってない! っていつものパターン。
この不思議な臨場感と、窓の外の光を反射する床と、反射しない削りたての床と光の当たらない床のコントラスト。
で、必ず芸術に理想化を押しつける「敵役」として登場するカバネルのヴィーナスも登場。
アレクサンドル・カバネル〈ヴィーナスの誕生〉
印象派を中心に据えると、俗悪で自由な発想の無い悪役になるアカデミーの人達…。
いや、真面目な普通の人だったはずだと思うんだけど、すっかり印象派中心主義的バイアスに掛けられてしまっていて、その戦略に嵌って簡単には抜け出せない(笑)
ひたすら色が綺麗。お肌のすべすべふっくら感がまぶしい。
しかし、色っぽいポージングといい余りに男子目線のセクシーさで、隣で子供が見てたけど、あんまり子供に見せたくない感じよね…。
美肌実現のための浅い陰影は、ひょっとしてマネ位なんじゃないのか…? でも、マネの「草上の昼食」も注釈なしに子供に見せられるかって言ったら、やはり微妙なところ…。何でお姉さんだけ裸なの? って聞かれたら、一言で簡潔に答えられない(><)
ブーグローのダンテ地獄図。
ウィリアム・アドルフ・ブーグロー〈地獄のダンテとウェルギリウス〉
ロマンチックだな~。すごく印象的で凝ったポーズ。痛そうな表情とか。
これなんだっけ、噛みつかれて背中折られて、両者とも蛇になるとかそういうシーンだっけ。いや、嘘言ったかも。忘れた。
ブーグローってカタカナだと割と簡単なのに、名前の綴りがBouguereauって文字数2倍ですごい長かったのと、大作を描いた若さ25歳くらい?に驚嘆。
彼は「通俗的古典主義」と悪口で言われているのを耳にしたこともあるアカデミー派なので、「悪役」な訳ですが、実は指輪展に行った時の西洋美術館のポストカードランキングでは可愛いきらきらの子供の絵が、売上2位でした。(1位はモネの睡蓮) ブーグロー〈少女〉
実は今だ密かに人気っぽい。
等身大の女性肖像が並ぶ人物コーナー。ドレスが華やかでした。 ホイッスラー、誰よりも地味だけどいいよね。
シャルダン頌みたいな絵。
フィリップ・ルソー〈シャルダンとそのモデル〉
神話でも何でもない風景が芸術となったように、何でもない静物もお部屋のインテリアじゃなくて深いものがある芸術なんだ! と言うことで、印象派以前にその世界観を達成していた18世紀のシャルダンの再評価がなされたのだそうです。
大画面の中央にシャルダン先生の自画像が画中画で置かれている。
その周りには、シャルダンが描いたような東洋風の陶器のポットや陶製の食器、金属のコップや果物、手の長いお猿さん、そして引き出しにしまわれている、いかにもなミュゼット。
確かに何かシャルダンぽい!
画面も大きいし、アイテム盛りだくさんでゴージャスな感じ。シャルダンの自画像の額縁もほんのりロココ調(というよりひょっとしてルイ16世様式?)で、やっぱり華やか。
そして、自然なありのまま見たままを描く静物ではなくて、計算された配置と凡そ普通でないと思われるモチーフ……。シャルダンの写実的な静物画万歳というテーマでありながら実は寓意画という。
何となくもやっとする。確かにシャルダンの気配がするけど、なんか違う感じが。いや、違うというより、自分がこのように見たいと望むシャルダン像と、この絵の目的がが違うだけかな。
つまりは、伝統的には格の低い静物画の地位を上げようと、立派で高貴そうな……まるでバロック時代の王様みたいに、高くて遠いイメージをシャルダンにのっけるルソーと、静物画の地位を上げる意図はなかった(と私は思う)親密で共感に富んだ(と
私は思う)シャルダンと、そう距離感のギャップ、かな。主観的な問題です。
真にシャルダン的な目線は、先のマネのアスパラガスにあります。
画家の目の前にアスパラが有るというリアリティと、決して現実には見えない画家の共感とが素早い筆致の中に込められています。
そしてアスパラガスに戻る。(しつこい)