画家の生涯を概観するコンパクトな展示でした。
テオドール・シャセリオー<自画像>
「ロマン主義の画家」として教科書に載ってたなーってイメージしか無かったので、シャセリオーのみ詳しく掘り下げられていて、大変興味深かったです。
教科書的にはロマン主義の画家とはいえ、シャセリオー自身は「古典主義の画家アングルの弟子」を名乗り、アングルと決別した後も、自らをロマン主義だとは言わなかったみたい。
展示中も指摘されていたけど、色々な面で「中間の人」って感じでした。
新古典主義の代表者アングルの弟子。
10代の内に才能を発揮したシャセリオーは、アングルの元で古典主義の修業をみっちりします。
しかし後々、アングルと決別し、ロマン主義に傾倒して、ロマン主義のドラクラワに近づく。
つまり新古典主義とロマン主義の間。
その画風は象徴主義の画家モローやシャヴァンヌに大きな影響を与えました。
ロマン主義と象徴主義の間。
ついでに、伝統的な神話主題、「横たわるヴィーナス」の変奏として、森の中でくつろぐ裸婦を、現実に同時代の誰かと分かるように描いたりして、その方向はは写実主義のクールベやマネと同じ。でも明らかに写実主義の画家ではない。
何とか主義vs何とか主義とか、単純に2つに分けて比べると確かに分かりやすいけれど、本当はその中間って沢山あって、両極端の目立つ奴に埋もれて、両極端のどちらの特徴も併せ持つ中継ぎ的なポジションにされてしまうシャセリオー。
こう、一応「ロマン主義の画家」ってなってるけど、100%そうかと言われるとそうではないようだし、では「何主義」なのかってなると、捉えどころがなくて、カテゴライズしづらい。
しかも享年37歳。若いー。
シャセリオー、とことん不利だなぁ。
シャセリオーがもっと長生きしていたら、多分、今日もうちょっと有名だった気がする。
※ ※ ※
展示の最初は、初期作品のアングルの弟子時代。
全然知らなかったのだけど、生まれはカリブ海に浮かぶ島で、現地生まれのフランス人を母に持ち、小さなころにフランス本国出身の父親の土地に戻ってきたみたい。
そんなシャセリオーは、10代にしてアングルも認める才能を示したそうな。
伝統的な宗教主題や古典古代の世界観を描いている。
特に顔なんかは「ギリシャ・ローマの石膏像」の顔。
<アクタイオンに驚くディアナ>
一方で、古典主義者にしては、強い色調でまとめたりして、後の「ロマン主義的傾向」を伺える、という解説です。
だから古典主義的な価値観で測ると、けばくってちょっと・・・ということになるみたい。
※ ※ ※
次のセクションは、古典主義に固執するアングルを見限ってからの、ロマン主義の時代。
森の中にいる中世の服を着た恋人たちの素描。森の中で読書する隠者の素描など。
そこで、古典主義とロマン主義と象徴主義の交わる作品が、アポロンとダフネ。
<アポロンとダフネ>
確か図版の解説で、古典主義者にとっては伝統的な神話の物語の一つだったアポロンとダフネの主題は、シャセリオーらロマン主義者にとっては、詩的な創造と追い求めて叶えられない理想の象徴となり、そして象徴主義へと流れていく。
実は、この一角で一番印象的だったのは、隣に展示されていたモローのダフネでした。
思い切った黒の使い方が独特で、斬新に見えました。
ギュスターヴ・モロー<アポロンとダフネ>
自殺しようとする詩人サッポーが、険しい崖の上で暗い空と荒れる海を眺めている絵。
<サッフォー>
背景は場面を設定する舞台装置であると同時に、画中の人物の心象を反映したもので、このような背景の扱いは、やはり象徴主義への流れを用意したそうな。
緋色の衣服は強い風に靡いて、…ななびく裾はロマン。
そしてやっぱりモローも同じ主題に挑んだり。
ドラクロワのハムレットの連作と一緒に、シャセリオーのハムレットやオセロの版画がずらりと並んで、ドラクロワと興味を同じくしていたことが示されています。
※ ※ ※
カーテンを引いて特別にしつらえられた展示スペースに掛けられた割と大きな作品、森の中で横たわる裸婦。
<泉のほとりで眠るニンフ>
モデルは当時付き合っていたパリ一番の美女。名前忘れた…。彼女はシャセリオーChassériauを「セリオsério」と呼んでいたそうな。
シャセリオー略してセリオなのか…。
風景の中に横たわる裸婦。
伝統的な当たり前の画題だけど、冷静に合理的に考えるとかなりシュールでもある。
だから、失敗すると「野外で全裸になってるパリの女」みたいな意味不明な状況になってしまうんだけど、シャセリオーのは不思議と上手くバランスが取れていて、違和感が少ない。
マネの場合は、その違和感を強調してゴリ押したけど、シャセリオーは逆に古典的な神話の世界観に現実の女性を馴染ませようとした、もっと穏健な写実主義のように感じました。
印象だけで話しちゃうけど、隣にあったクールベは、現実世界の現実の女を一瞬目の錯覚で神話っぽく見えるように、でもあくまで現実世界で描くイメージです。
ギュスターヴ・クールベ<眠れる裸婦>
※ ※ ※
肖像画コーナー。シャセリオーが上手いっていうのもあるのかもしれないけど。。。
この時代の紳士服ってシルエット細身で格好いいっ。
(↑主な感想。)
<アレクシ・ド・トクヴィルの肖像>
※ ※ ※
この時代に流行したオリエンタル趣味にも手を染めるシャセリオー。アルジェへ行く。
この一角で、もうちょっと後の時代のルノワールがゲスト出演してて、彼のアルジェの風景もあった。画面がものすごく明るい。シャセリオーよりずっと明るい。輝いてる。これが印象派の光……!
ルノワール<ロバに乗ったアラブ人たち>
というのが結構印象的でした。
それはともかく、シャセリオーのオリエンタル趣味って結構好きだなぁ。
ノンポリというか、単純に異国情緒が素敵、っていう動機が強そう。勝手なイメージ。
<コンスタンティーヌのユダヤ人女性>
アルジェリアって、フランスにとっては植民地で、絵の上に政治的な目線って簡単に乗っかるんじゃないかな、って思うのだけど、シャセリオーの絵には、民族主義がどうのとか、支配と被支配の関係性とか、そんなのがあまり無いように思える。
実際、シャセリオーがどう思ってたかは分からないけどね。
いや、本当に表面的なイメージだけだけど、例えば、ドラクロワのオリエンタリズムって、暴力とエロス!人間の本質を抉るぜ!でも西洋社会だと生々しくてアブナイので、東洋でやります☆みたいな薄ら暗いところありません?(←過言です。)
あとギリシャがピンチ!トルコの魔の手から守れ!みたいな政治的なやつとか。(本当、浅い理解でごめんなさい!)
単純な好みの問題で、そういう闇属性(?)のオリエンタル趣味より、直截な憧れを載せたオリエンタル趣味の方が好きだなーっていう。
※ ※ ※
ロマン主義の画家として最高においしいのが、死後20年経って、大きな壁画を手掛けた建築がパリコミューンの戦争で廃墟と化し、そこで崩壊するままに草木の中で、作品の「断片」が残されていたそうな。(廃墟写真も展示されてた)
ロマン主義のお手本か…。
このへん、かなりテンション上がった(笑)
おいしい。
シャセリオー展における最大のクライマックスが死んだ後とか…。
崩れ去るシャセリオー作品を全き消滅から救ったのが、シャセリオーから大きな影響を受けた壁画の大家シャヴァンヌ。
シャヴァンヌは思想を異にする印象派の画家たちにも尊敬されていたって聞くけれど、仕事がでっかくて本当に尊敬するわ…。
シャヴァンヌの絵自体はシャセリオー以上に地味なんだけど、何だか、じりじりと尊敬ポイントが上がってます。先のシャヴァンヌ展、本当に絵は地味だったけど、かっこよかったものね。
参考:シャヴァンヌ展が格好良かったという感想
シャヴァンヌ、地味に格好いいぞ。地味だけど。
シャセリオー<海から上がるウェヌス>
ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ<海辺の娘たち>
おお、これはパクっている…!
今回、シャセリオーに影響を受けたとして、展示されていた絵は遠くの空の鈍い光が綺麗で好きでした。
●第3章 3人の巨匠たち
大きな山場が終了して、次からはヤコポ・ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼ、ヤコポ・バッサーノのコーナー。
緋色の壁紙は打って変わって、軽快なパステルミントグリーンの壁紙。
その時代は16世紀半ば。1530年から40年代、マニエリスムに影響されています。
劇的な明暗表現で大作を手掛けるティントレット。
華麗な色彩と古典的な格調のヴェロネーゼ。この二人はヴェネチアで活躍します。
一方、バッサーノはヴェネチアの内陸領土で活躍。叙情豊かな田園風景で、ヴェネチアや外国の宮廷でも人気を博したそうです。
ティツィアーノ後の代表格を思う様見比べられました。
もし私がパトロンだったら、個人の楽しみの注文はバッサーノ、対外用に人に見せつける絵なら優等生的なヴェロネーゼにしよう。
今回、ティントレットは、ちょっと格下げしました(笑)
ティントレット、割とショッキングだというか……。一番アレな意味で印象に残ったのが、ティントレットの動物の創造でした。
ヤコポ・ティントレット<動物の創造>
いや、これ、私の見方が何か間違っているんだろうか? 正直見ててすっごい不安になる(笑)
右から左へ駆け抜ける動物たち。何この無駄な疾走感。
画面中央で、海を指差す神様が劇的な身振りで浮いてるのがティントレット節。
でもちょっと雑なのよ……。下書きって思うくらい。鳥とか超適当。
そんな風に鳥は飛ばないよっていう前に関節とか骨格とか丸無視の、このぶらぶらでぐにゃぐにゃのゴムみたいな足とか、いや、この嘘でしょってくらいの作画崩壊なんだろう?
漫画みたいで全部同じポーズ。
海の魚も非常にグロテスクな怪物魚。そいつらが全部左向きで同じポーズ。
えーまさか人間上手いけど動物描くのは駄目ってよくあるパターンなのかな。それとも値切られて手抜きしたとか?
神様が手ずから作った動物、こんな崩壊してたら、冒涜レベルじゃない?
周りのゆるキャラたちが気になって、神様が目に入ってこないし、動物の創造って主題も頭に入ってこない。
ただし愛嬌は抜群で、私はこのへんてこ動物たちのお土産グッズがあれば、欲しかった(笑)
人は完璧なものは畏怖こそすれ愛さない、本当に愛するものは、不完全なもの。っていう典型かも(笑)
隣に展示されてるティントレットの同シリーズのアベルの殺害はドラマチック。安定のドラマチック。
ティントレット<アベルを殺害するカイン>
力いっぱい相手を押さえつける殺害者の顔は影になって、その表情を読み取ることは出来ない。上手い演出よね。
殺害されるアベルも、顔は後ろ向きで見えない。抵抗してよじる体が暗色の背景に浮かぶ。傍らには不吉に転がる鹿の首。
陰惨な人類初の殺人事件の後で、バッサーノの描く、牧童たちのいる里山のような小さな風景画にほっとする。
眠る牧童と、もふもふの休息する羊たち。
画面は少し暗い。バッサーノはどれも、広野の聖ヒエロニムスなども、それくらいの暗さだった。
同じくバッサーノのノアの方舟 。
ヤコポ・バッサーノ<ノアの方舟に入っていく動物たち>
方舟に乗り込もうとする動物たちで、地表は埋め尽くされている。動物が得意なバッサーノの、動物を沢山描く口実のようだ。
ティントレットはバッサーノを見習えばいいのに。それか初めからバッサーノに頼めば良かったのかも知れない(笑)
場面はライオンのつがいが方舟に昇るところ。周りで乗船を待機する動物たちは、生き生きとして、結構正確。少なくとも興味や愛情を持って描かれています。犬も猫もウサギも羊も、普通で可愛い。普通で、ってティントレットまだ引きずってる(笑)
お猿さんが荷物の上で杖を持ってるのがお茶目。時々、動物好きの画家って、半分擬人化された賢いお猿さんを描く気がする(笑)
完全に個人的な好みで、動物に興味や共感や愛着があるような画家は好きなのよ。
バッサーノ<母羊と子羊>
これはバッサーノの絵を検索したら、バッサーノの絵ということで出てきたやつ。
バッサーノ、いいなあ!
●第4章 肖像画
今までは、神話や聖書の人物などの空想の人物でしたが、もちろん肖像画も主要な画題です。
展示された人たちのお洒落なお洋服が楽しい。
マルコ・バザイーティの男の肖像。襟元の毛皮が白と黒で十字に切り返してあって、白いファーと黒いファーを交互に配する柄にしてある。
リチーニオの、女性のベルベットに赤い服もドレスも素敵。
別のリチーニオの女性の肖像は、バルツォ帽を被っている。……イザベラ・デステが被っているあのお饅頭みたいな帽子はバルツォ帽というのか。イザベラ・デステのせいか、流行ったそうです、バルツォ帽。
首を傾け、流し目でこちらを見る。ちょっとティツィアーノを彷彿とさせる視線。
白に近い金の髪の毛は、根元だけが少し黒くなっていて、白く脱色してるのでしょうか。
カリアーニの男の肖像は美しい。一番のイケメンさん。
カリアーニ(ジョヴァンニ・ブージ)<男の肖像>
気高く空をみつめる髭の男、明後日の方向を凝視しています。豊かな髪を肩まで伸ばし、緩やかなシルエットを描くたっぷりとした黒服は、絵に存在感を与えています。手はやや小さく描かれているけれど、人差し指を伸ばした手を胸にあてて、その仕草は何か語ろうとしている。
その辺で、多分覚えられない(笑)服飾専門用語を拾う。のでメモφ(..)
ドージェの肩マントはバヴァーロ。帽子はコルノ。イザベラ・デステの帽子はバルツォ帽。
ついでにメモ。
ヤコポ・ティントレットの息子はドメニコ・ティントレット。ヤコポ・バッサーノの息子はレアンドロ・バッサーノ。ヤコポ・バッサーノの師匠はボニファーチョ・ヴェロネーゼというが、この人はヤコポ・ティントレットの盟友(?)パオロ・ヴェロネーゼとは関係が無いようだ。……似たような人物名が……。
●第5章 ルネサンスの終焉
さて、そんなヤコポ・バッサーノの息子、レアンドロ・バッサーノ。ヤコポの三男坊。
ダイナミックなルクレティアは目を惹きました。
レアンドロ・バッサーノ<ルクレティアの自殺>
漆黒を背景に、貞淑なルクレティアは、胸を大きくはだけ、今自ら短剣で胸を刺すところ。
豪華な衣装は、まるで実際に金糸で刺繍をするかのように微に入り細に入り、布の質感と金糸の輝きが見事です。
展示の最後はティツィアーノを模倣したパドヴァニーノ。
名前の通りパドヴァの生まれ。後にヴェネチアに拠点を写し、ローマ旅行で初期バロックに触れる。
最新鋭のローマのバロックを、ヴェネチアの色彩感覚と融合したということです。
プロセルピナを拐うプルートー。ヴァイオリン背負ったオルフェウスと冥界に戻ろうとするエウリュディケ。
パドヴァニーノ<オルフェウスとエウリュディケ>
黒い背景に柔らかい輪郭。とくに女性の入念に仕上げた柔らかい輪郭は印象的でした。
また、きれいな顔の天使たちが死せるキリストを哀悼する、真っ当に綺麗な絵。最後のこれが特に気に入りました。
でもごめんなさい、この絵はちっとも有名でないらしく、検索で拾えませんでした。
キャプションには、ボローニャ派のカラッチ一族に近い画風、という解説がありましたが、なるほどと思う。
ローマ・バロック+ヴェネチア派=ボローニャ派、分かる気がする(笑)(あくまでも気がするだけ)
ティツィアーノの「色彩の錬金術」の遺風と、ローマバロックのシンプルさとリアリズムが合わさると、自然主義と理想化の絶妙なバランスを取ってくるボローニャ派に近付くのか~。
バロック好きの私としては、一番名前を覚えておこうと思った画家でした。
重要な画家の1000枚の絵を載っけてある辞書的な本には、パドヴァニーノ載ってませんでしたが!
本名はアレッサンドロ・ヴァロターリ。
ウィキペディアによれば(笑)、どうも同時代に名声はあったが、ティツィアーノの模倣者として、弟子を育て、17世紀までティツィアーノのスタイルを保持し続けた画家という評価のようだ。
オリジナリティを重んじる価値観からは、模倣者に留まり、創造的な画家ではなかった、ということかしら。
でも天使の絵は、普通にシンプルで優美で綺麗で好きだけどなぁ。
後のヴェネチアにとって、ティツィアーノは偉大過ぎたのかしら。
そういえば、18世紀のイギリスの代表的な画家、ジョシュア・レノルズが、まあ18世紀の古典主義的価値観でヴェネツィア派を断罪していたっけ。
ヴェネチア派は美しく優雅だが、華麗で技巧的な色彩と官能性が人を眩惑し、若者を堕落させ、正しい芸術の道から逸脱させてしまう。
とかそんな感じ。
佐賀大学文化教育学部研究論文集
ジョシュア・レノルズ卿の講話集 : 翻訳と注解 第4講話 相沢照明訳参照。
…そんなにヴェネチア派が嫌いかい。
パドヴァニーノはそういうタイプのヴェネチア派なのかしらん。
ウィキペディアでは、「物語性と官能性に特徴あり」だってさ。
因みに、レノルズ、まさかヴェネチア派の親玉をディスるのかとドキドキ期待(笑)してたら。
「ただし、ティツィアーノだけは別格だ。」
ず、ずるい…!(笑)
ともあれ、最後に、ほぼ普通のバロックな感じのパドヴァニーノを見て、ヴェネチア絵画のルネサンス以降の行く末も気になっているまろりーなのでした。
おまけ
私がこの展示を見ての疑問を見透かすように、どんぴしゃな本がアマゾンで売ってた。
「Da Padovanino a Tiepolo」
あ、やっぱり気になる人いるんだ。なんか嬉しい。
興味深いが、イタリア語の本らしい(*_*)
前編へ戻る
アカデミア美術館展の感想、というより自分メモ。自分メモすぎてあんまり人様が読めたものではなくなりました。(大体いつもだけど)
しかもまさかの前編、後編。
ルネサンスの初めから、バロックの入り口まで、時代順に並べた展示です。
章立ては直球で、1440年代のヴェネチアにもたらされたルネサンスに始まり、ヴェネチア派を頂点に導いたティツィアーノとその周辺、それからティツィアーノの後継者、特にティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノの3人に焦点を当て、最後に3人の息子世代、ほとんどバロック化した作品と進みます。
とても明快に分けてあって、ヴェネチア派の流れを整理しながら体感出来ました。
ヴェネチア派そのものは多分18世紀まで続くけど、「ヴェネチアのルネサンス」の下限はその辺りまで、ということなのでしょう。
となると、ヴェネチア・バロックというのも、どんなものだろうとふと気になるけど 、不勉強でティエポロの時代まで、あまり聞くことないのよね。
とはいえ、この展示の最後の方を見ると、一見「ほとんど普通のバロック」って感じで、こう、ヴェネチア派に安直にイメージされる華やかさとか、祝祭感とか、そういうものが薄かったです。それがこの展示の固有の癖なのか、もっと一般化してもいいものなのか、私には判断が出来ないけれど。(今のとこ前者だと思ってる。)
総括終わり。
以下、個々の作品の感想メモになります。
●第1章 ヴェネチアの初期ルネサンス
ともあれ、フィレンツェにやや遅れて、フィレンツェ美術の影響を受けながら始まったヴェネチア・ルネサンス美術。
ヴェネチア派の祖、ヤコポ・ベリーニは、合理的な空間構成と、人間の人間らしい感情表現を描き出すことを目指したそうです。
展示そのものは、彼の息子ジョヴァンニ・ベリーニの聖母子像から。
ジョヴァンニ・ベッリーニ<聖母子(赤い智天使の聖母)>
解説によれば、ヴェネチアの油彩は1470年代にアントネロ・ダ・メッシーナによってもたらされたとのことで、ベリーニ作品は既に板に油彩でした。
正直に言って、何人かいるベリーニという画家を、まだ全部ごっちゃにしている(笑)ベリーニ一族展とかもやってほしい。是非。
この聖母子の上に舞い飛ぶ、真っ赤なケルビムが、お土産でピンズになってて、要らないけど欲しかったです。あと、ヴェネチアのシンボル、聖マルコの有翼ライオン。欲しい。
聖マルコのライオンは出てきませんが、次のヒエロニムスの死の場面で、早速お付きのライオンが出てきます。こちらはテンペラ画。
ライオン、飼い主に先立たれてこれからどうなるんだろう。
結構、ライオンぽい。画家はちゃんとライオンの本物見れたのかなー。
ライオンは画面の左隅で大人しく伏せをして、葬送のミサを眺めている。ライオンの向こうには線的な遠近法で、回廊が奥まで続いている。
アントニオ・デ・サリバの受胎告知は印象的でした。
アントニオ・デ・サリバ<受胎告知の聖母>
アントネロ・ダ・メッシーナの模写と見られるそう。物語の説明は一切なく、黒背景の中央にマリアだけが、読んでいた聖書から顔を上げて、こちらを見ている。青い布を被ったマリア様の美人な顔立ちを引き立てるシンプルな黒い背景。
光は自然で、驚いたように宙に浮く右手の、指先の短縮法が鑑賞者を画中に引き込みます。
隣のマレスカルコの受胎告知も、マリアだけのガブリエルなし。こちらは背景があり、場面を室内に置いています。繊細に描かれた書見台の、黄色い唐草装飾が華やかで、壁や書見台、窓など垂直と水平に区切られた褐色の画面に彩りを添えます。柔らかい光に照らされたマリアの顔は、アントニオ・デ・サリバより空想的。
初期ヴェネチア派のコーナーで、一見画風のちょっと違う絵がありました。
それはフランチェスコ・モローネの絵。解説によればお隣?ヴェローナ派。だそう。
んー、ヴェローナって大体ヴェネチアの辺りじゃないのか…(超乱暴)
イタリア美術は地方毎に色々あって、影響したりされたりで難しいなぁ。面白い。
ジョヴァンニ・ベリーニの他に、マンテーニャとデューラーの影響もあるそうで。
絵は、なるほど北方混じりの感じがする。光沢がある緑の布の質感のこだわりが、ちょっとエグい。
マリアの顔は、たれ目の儚げな色白美人さん。
この画家は、健康的な美女よりこういう蒼白い顔の女性が好みなのかしら(笑)
全体少しヒビが入ってて、顔も傷みで少しぼんやりしてしまって、それがいっそう儚げに見える。
●第2章 ティツィアーノの時代
ロッコ・マルコーニ〈キリストと姦淫の女〉
沢山の人物がひしめく華やかな画面。
姦淫の罪で大勢の男たちに取り囲まれてしまった女。そこへキリストがやってきて、彼女を責めるなら、今まで罪を犯したことの無い奴だけにしろ!と言って女を助けてあげるキリスト。
主役のセクシー担当(?) 、姦淫の女。ちょっと冷たい目付きで、横目に画面左を睨む。全然反省してませんね。
一番手前の一番明るいところで、目立つように描かれています。
身なりはゴージャス。金の髪に、真珠の鎖と青のリボンを巻き付けて、美しく結い上げる。緑と金の(当世風?)ドレス。
背景の古代風の円柱に、唐突に紙切れが張り付けて描かれていて、画家の名前が超目立つように書き込まれています。自己主張激しいな。
ふと画中、一人の男とバッチリ目が合ってぎょっとする。髭面4分の3正面。前にいる男の影になって、首だけが見える。こちらをじっと見つめているのはこの人だけである。
初のティツィアーノ工房作品。
ティツィアーノ工房<ウェヌス>
今まで全て宗教画だったけど、急に半裸のヴィーナス。……この顔、絶対他の絵で見たことある。同じ顔の使い回しだ(違)
ティツィアーノ<鏡を見るウェヌス>
と思ったら、こういう絵も描いているので、人気の絵のコピー作品ってことなのかな。
茶色い服が中途半端に肩からずりおちて、はだけてる。のを、例の恥じらいのポーズで押さえている。毛皮とウールの当世のドレスだろうか? 褐色の背景と溶けて曖昧でわからないけど、ギリシャのギリシャっぽいひらひらではない。
ヴィーナスの傍らのゴシック調の宝石箱(?)で、場面はむしろヴェネチアの香気と色気。さりげなくルビーの指輪が意味深に置かれているのが素敵。
後期ティツィアーノの聖母子像。
ティツィアーノ<アルベルティーニの聖母>
金褐色の落ち着いた画面。悲しげにキリストを見つめるマリア。彼女の膝の上で、だらりと力なく垂れた赤子の右手は、来るべき死を暗示するそうな。
確かに、十字架から下ろされ、墓地へと運ばれるとき、その死体はこのように重力に従っている。なるほどー。
明るく照らされるキリストの体。その光のもたらす深い影が、人物を絵の中で浮かび上がらせます。
判然としない風景。草木の生えた地面と、その境目の曖昧な空、金の光を受ける分厚い雲。
マリアの顔は先のヴィーナスとは全然別人で、繊細でほそやかなかんばせをしている。
美しい絵です。表面に一層、白いフィルターがかかったようになって、ワントーンパステル調に上がっているように見える。
これは絵の傷みなんでしょうか。それとも当初から彩度低い色調気味に描かれたのでしょうか。ひょっとして、ティツィアーノの系統の絵って、ちょっとした傷みなら目立たない気がする(笑)
そして、真後ろに目玉の「あれ」があるなぁとちょっとした圧力を感じつつ(笑)
振り向くと「色彩の錬金術」。同時代にそう評されたとか。
聖堂後陣風の半円の空間。一部屋まるごとで空間を盛り上げてくるVIP置き。高い天井に、緋色の壁紙。人が小さく見える。
高さ4メートルを越えるティツィアーノの受胎告知!
金色の雲から舞い降りる鳩と天上から降りる天使たち。わずか隙間に見える青空と、雲の黄色の対比。
左からの強い光を受けるガブリエル。近づけば衣は、白や灰色、桃色やブルーグレイの何色ともつかない……明るい色。
翼を広げたガブリエルは、マリアの方へ一歩踏み出し、身を乗り出したところ。
マリアはそれに呼応して、恐れか謙譲か、一歩身を引く。そこは少し暗くなった場所で、さらには頭のベールとそれを摘まむ手で、顔に影を作っている。
ガブリエルの光が眩しくて、遮光してるのかな?って思ったんだけど、説明書き曰く、この身振りはガブリエルの声をよく聞こうとするポーズ、とのことです。
マリアの手前の、目の高さにあるガラスの花瓶には、窓枠越しの外からの光が映り込んでいます。これだけが、この超現実な画面において、我々の現実世界との接点に思える。
その花瓶に刺さるバラのようなピンクのしみ。多分、お花だと思うんだけど、筆触が荒すぎて判別不能です(笑)
そういう訳で、場面はおそらく室内なのかしら?とも思うのだけど、天上から漏れてくる神秘のもやが、背景の柱と床以外の建築要素を覆ってしまい、むしろ遥か遠くまで霞んで見える屋外に見える。いや、屋外にしか見えない(笑)
そのまま近い位置で上を見上げる。最も明るい部分を改めて見てみると、雲が筒状に立ち上がっている。遠くからは、明と暗、黄色と褐色のグラデーションだった色彩が、奥行きをもって立ち上がっているのです。
地上に満ちて暗い影を作っている金褐色の雲は、高みに昇るにつれて、暗い朱鷺色から、輝くクリーム色 、そしてアイボリーへと明るくなっていく。その先は黄色と対称の、遥か遠くに見える小さな青空。
その遠くの青空から金色の光を受けて鳩が降りてくる。
絵の真下に立って見た方が、遠くから全体を眺めた時よりも、円筒の雲の高さ、立体感が出てる。
空を舞う天使たちの遠近感や立体感や浮遊感も、真下からの方が迫力があるように見えました。
遠くの雲間に舞うケルビムたちは明るい天上の光を浴びて、より地上の近くを飛ぶ天使たちは、地上の強い光に照らされて、くっきりとした影を作って浮かんでいる。
画面右上の天使の、こちらに足の裏を見せて浮かぶもの、画面左上を飛ぶ天使の、翻る赤い衣の辺りがお気に入りです。
この天上世界はこうやって視界に収まりきらない近くから見上げるのが、私は好きでした。
現地の本来の設置場所ではどれだけ近寄れるのかな。美術展では1.5メートルくらい?の下から見上げられました。
そして気になる、最下部の格調高い署名、TITIANVS FECIT FECIT.ティツィアーノが作ったり、作ったり。
なぜ、二回繰り返す!(笑)
正直、近寄って一番最初に目に入ったけど、敢えて突っ込まなかったんだけど。
いや~描くも描いたり、ティツィアーノよくやったよね~って気持ちなのかな、やっぱり。
ちょっと図版を覗いたところ、このFECIT FECITの部分は、元々はFACIEBATとあって、後世に直されたらしい。
fecitは完了形ですが、faciebatは未完了過去形です。
faciebatの教科書的な意味としては、作っていた、作りつつあった、作ろうとした。とか。……うん、これだとまだ未完なのかな?作っていたけど駄目だったのかな?って感じがしてちょっと不安になりますね。
ティツィアーノ本人の気持ちとしてはfaciebatだったのかしら。どんな意味をこのシンプルな言葉に込めてたのかな。
まさかの後編へ続く
1430年代にドイツのライン川上流地域で発生した銅版画。
多作の銅版画家イスラエル・ファン・メッケネムの生きた当時、銅版画は開発されたばかりの新しいメディアでした。
その発生の起源は、彫金の技術に由来すると考えられています。
金、銀、その他金属に微細な彫刻を施す工芸の技が、銅の板に絵を彫りつける技術に応用されたのでした。
その黎明期の銅版技法がどんどん発達していった時代を生きたのがメッケネムでした。
メッケネムも金銀細工師と銅版画の修行をしました。
金や銀といった高価な素材を使う金銀細工師は、アーティストの中でも地位が高く見なされていたらしく、もっぱら銅版画をよくしたメッケネムも、時折金銀細工師を名乗りました。
メッケネムは大量のオリジナル、
コピー作品を作り、銅版画の普及に貢献。
初期には、逸名の版画家「E.S.の画家」に師事したとみられる。そして、彼が亡くなると、その原版を相続したとされるそうです。
推定お師匠E.S.の画家。
久し振りに見た、E.S.の画家!
本名は残っていなくて不明だけれど、銅版画作品にイニシャルの「E.S.」だけが署名されているから、こうあだ名される。
解剖学的には古風だけど、繊細な線刻で柔らかな陰影。顔もおだやかで綺麗で上品で素敵だ。
E.S.の画家ってメッケネムのお師匠(推定)だったんだ!
推定お師匠E.S.の画家をコピーするメッケネム。同時期のメッケネムは初期でまだぎこちない。
メッケネムや推定メッケネムの父、E.S.の画家が並ぶなか、10作品め位で、マルティン・ションガウアー出てくる。
少し古風なE.S.の画家と、ぎこちないメッケネムの後に見るので、うまい!超画力と思う(笑)
メッケネムも、ションガウアーをコピーして頑張るけれど、至らず。逆にションガウアーの旨さが際立ちます。
適格で魅力的な深い陰影。メリハリのある線刻。画面には奥行きもある。人物は力強く、かつ優美な表情。 足の血管まで的確に描く細密さ。
例えば、聖母の死の場面。
マルティン・ションガウアー〈聖母の死〉
描かれた本の文字まで、本当に読めそうな文字らしい描写です。
同じ絵をコピーしたメッケネムですが、再現率は高いものの、文字などの細部にも省略化が多く、全体で詰めが甘い。(多分、完全コピーを目指していた訳ではないと思うけれど。)
メッケネムの聖アグネスの絵とか。
メッケネム〈聖アグネス(ショーンガウアーに基づく)〉
羊を連れた聖女のシンプルな構図です。タイトルに「ションガウアーに基づく」とかあって、これもションガウアーのコピーだと分かる。
アグネス、もとのションガウアーは展示されていないんだけど、原作はもっと格好いいんだろな~と思ってしまう。ごめんなさいメッケネム。
さて、ドイツ銅版画といえばデューラー。
デューラーはまた別格です。
一本の線の出力、線の表現力が違うと思いました。
メッケネムのがおおむね均質な線だけど、デューラーは、画力はもちろんのこと、一本の線の中に、太い部分と細い部分が幅広く自在に変えてある。
ちょうど歌手で、強い音と弱い音を的確に歌い分るける人と、音は外さないけど一生懸命に一本調子で歌う人とがいるようなのと似ているかも。
このメッケネム展における重要人物が、ハートマン・シェーデル。同時代のコレクターです。
彼はメッケネムの版画を多数蒐集し、そのコレクションがそのまま(だったと思う…)現代に受け継がれて、こうして展示されているそうです。
彼には不思議な癖があって、なぜか版画に描かれた女の子、天使など人物の唇を赤で塗るという…。髭面の東洋人まで、紅さしてて…何なんだろう、このこだわり。
メッケネム〈東洋人の頭部〉(↑これは展示には来てない別の刷り)
服とかは塗らない。他に同じ赤で屋根とか、退色してるっぽいけど、青で塗られた形跡があったりとかもした。
大人の塗り絵というか、何か色を塗りたくなっちゃう本能というか(笑)
正確な意図は分からないけど、ちょっとその時代の一般人のこだわり?の行動が垣間見れて、ほほえましく思いました。
メッケネムの宗教主題の版画は、美術品より礼拝用という実用的な性格が強かったようです。
全部集めて一つの作品になるものや、免罪機能が付与された作品とかもありました。商売上手。
免罪機能付きの聖グレゴリウスの絵は、後の時代に、免罪されると記述された一番下の文字の部分だけが切り取られているらしい(笑)
メッケネム〈聖グレゴリウスのミサ〉
あーやっぱり後世に免罪ってヤバいよ、みたいな感じになったんでしょうかね…どうだろう。
さて、メッケネム版画展なのに、一番好きだったのが、こうした礼拝用のメッケネム版画を上から水彩絵の具でがっつり塗ってしまったもの。一見全く版画作品には見えない(笑)
磔刑図で、中央にキリスト、左右にマリアとヨハネ、天使たち。
左:メッケネム〈磔刑〉右:ドメニクス・ロッテンハマー彩色
やっていることは大人の塗り絵なのですが、まあプロの画家の塗り絵は、すばらしい出来映えで、雲母のきらきらの(高級そうな)青い絵の具のマリア様が美しい。
鮮やかな赤、緑、黄色。金と銀(黒ずんでいる)で施される後輪や輪郭やハイライト。
鮮やかな天使の極彩色の翼、薔薇色の天使の衣。この衣も、金でハイライトが施してある。
もともと線刻を重ねて暗くされていた背景は、鈍い紺色で塗られ、鮮やかな人物たちを引き立てています。
とても丁寧な仕事。保存は良好、本当に礼拝対象として、いわば色彩によって荘厳して大事にされたんだなぁ。
多作のメッケネムは、宗教画以外にも、もちろん世俗主題も手掛けます。
同時代の油彩に比べて、銅版画の方が世俗主題は豊富だそうで、油彩より容易に複製できる銅版画の性格が影響しているものと思われます。
(とはいえ、現代人が考える印刷物よりは高価だったらしいけど、展示でははっきり書かれていなかった。)
もちろん恋愛主題は人気でした。
中世のミンネザング(貴婦人と騎士の宮廷恋愛)主題も取り扱われました。が、15世紀のメッケネム当時は、宮廷恋愛=不倫=社会通念に反する=教訓や警告を表す図像として、華やかながらも皮肉な感じに描かれることも多いそうです。
指輪を持った美女の周りで、滑稽に躍り狂う伊達男たちとか。彼らの中に、舌を出した道化師も紛れ込んでいます。
メッケネム〈モリスカダンス〉
因みに、モリスカとはムーア風のという意味の由。
こうした多くの世俗主題の版画は、宗教画と違って元絵が分からず、もしかしたらメッケネムのオリジナルかも知れないそうです。
聖人のお守りやお祈り用の一枚絵以外にも、聖書の物語連作なんかも描くメッケネム。
メッケネムとションガウアーが並べてあって。(時々、デューラーの木版)
ほぼ同時代ながら、はっきりと構図上の哲学の違いが顕れていました。
メッケネムは説明的です。一つの画面に複数の場面を詰め込む、異時同図法。だから物語の時間の流れを追うことが出来ます。
ションガウアーはある目立つ一時点に集中して、1枚1場面の単純な構図。こっちの方がスタイリッシュに見えるのよねぇ。
でも、どっちもそれぞれの画風に合ってる気がする。
油絵とは違って、同じ絵を何枚も複製出来る銅版画。
油絵より格は低いとされるものの、より多くの人の目に触れ、メディアとしての影響力は大いにありました。
そんなメッケネムの版画の伝播力は、絵画の世界だけでなく、見本や図案として工芸品にも及びます。
例えば、メッケネムの装飾イニシャルが本の装飾として張り付けられたりしたらしい。やっぱり実用的。
個人的には…メッケネムってこうしたオーナメントなどのデザイン方面の方が素敵だと思う。
メッケネム〈大文字アルファベットR、S、T、U〉
この手の装飾図案で、狩人とうさぎのモチーフは、お茶目でお気に入り。
中世から写本の端っこに描かれてきた「狩人を狩るうさぎ」
立場逆転で、うさぎが狩人を狩ってしまう図柄です。
手足を枝に縛られローストされている狩人。鍋で煮込まれる猟犬たち。
人間がうさぎにそうするのは、ただの食事風景なのに、うさぎが人間にそうすると、可愛い顔して何て残虐なうさぎだ!となってしまう皮肉。
さて、今回の展示の花形、メッケネムとションガウアーとデューラー。
活動場所はドイツ国内でそれぞれ北と西と南と、見事に遠く離れているのですが、著作権侵害の概念が微妙なこの時代、お互いにコピーしたりされたり、参考にしたりされたりと、しっかり影響しあっていて、同じ画像を何枚も印刷できる版画の伝播力の強さに、やっぱり版画って面白いなあと思ったのでした。
この伝染力が、版画の醍醐味の一つよね。
でも一番の感想は、ごめんなさい、ションガウアー格好いいわ~メッケネムよりションガウアーだわ~ションガウアー展もぜひ……!でした(笑)