廃墟と死をすぐに結ぶのは短絡的かと思うけど、でもそれが一番素直な見方だと思い直しました。普通で伝統的です。崩れ去った建築に、人間そのものを重ねて、いつかは死ぬのだと。
ことさら死臭を漂わせたり、無理に読み説いたりするのはいやらしいけど、逆に廃墟から死という概念を全く取り去るという見方は、創造的かも知れないけど誤解の危険が伴いそうです。
廃墟は各人各様の見方、描き方が出来て危ない。どのように描くか見るかは本人の資質によるものが大きそうです。
髑髏ほどはっきりした表象じゃないから、なかなか難しい。
まろりーとしてみれば、「人間的要素としての悲劇」byロスコ程度、物語を刺激して空想を面白くする、スパイシーな悲劇を廃墟に多く求めます。
というのも、ディドロ氏がユベール・ロベールの廃墟の絵を見て、具体的にどれを見たかは分からないけど、かなり大真面目に人はいつか死ぬということを痛感してしまっていて、現代人のまろりーとしては、ロココ調のロベールにそこまで深刻な感想を抱けるだろうか、と若干の違和感を覚えたもので。現代人は、もっと深刻な絵もよく知っているから、それらとユベール・ロベールを比べると、・・・どうしても廃墟のロベールは軽くて甘口。
まあ、ディドロの時代はユベール・ロベールが「標準の」画風だからなぁ。

<ルーヴルのグランド・ギャラリー改造計画案>
ちなみに、このロベールの天井から光を入れる案は現代のルーヴルに採用されていたりします。

<廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図>
で、ロベールの想像力によって、廃墟化されてしまうルーヴル。
改装して綺麗になる未来のルーヴルと、崩れ去ってしまうもっと未来のルーヴル。
廃墟といえば、古代ローマという過ぎ去った時代の遺物を真っ先に思うけど、現代のルーヴルもいつかはそうなる、というこの世の無常と人生の虚しさを感じるかも知れない。
いや、良く見ると、ルーヴルの廃墟の中にいるのは、未来人というより同時代人。つまりは、むしろ何らかの不幸、たとえば大規模な災害とかで廃墟になるかも知れない身近な未来、あるいは悪夢であると感じるかも。
ロベールがどこまで廃墟に儚い未来を思ったのか、思わせたかったのか、それはやっぱり分からない。
18世紀の一般的な考えも、ディドロがどこまで「普通」に見たかも、知らない。ディドロは、新しい考えをもたらしたがる、啓蒙思想の文筆家だし、詩的でことさら哲学的な思考の持ち主だろう。
ユベール・ロベールがどういう人かを知らないと、想像も出来ません。・・・というか・・・ロベールについて、よく知らないけど、そんなに哲学的に考えて絵を描くタイプじゃない気がします。絵を描くのが好きで、とりわけ廃墟を描くのが単純に好きで、パトロン層にも受ける売れる絵を描きたがるタイプに思えます。つまりは、市場に合わせて絵を描く職人。

前に出したこれとかも、廃墟と世界の儚さ、ヴァニタス云々の前に、稼ぐ気満々でしょう。
深く物事に拘らない割と適当(笑)なフラゴナールと気が合って仲良しだったあたり、結果的に良い絵、みたいなフラゴナール的職人タイプかと。
で、軽やかな解釈を好む傾向にあるまろりーとしては・・・ロベールのこのルーヴルの廃墟も、フランス・バロック建築という当時の慣れ親しむ近代建築を、アカデミーの規範たる古代ローマ化してみたかったのが一番の動機なのではないかと、考えてしまいます。
修行時代に親しんだ、ローマの廃墟に遊びに行きたかったのではないかと。
最近建てられたものでも、時間が経てば、フォロ・ロマーノの廃墟のようにピクチャレスクになる、なんてお茶目な冗談なのではないかとも。
奥で、誰か鍋を煮炊きして、すっかり快適?に暮らしている人がいるし、手前ではのんびりアポロン像なんかをデッサンしている人がいるし、一番手前で地面に転がってもだえ苦しむ瀕死の奴隷の彫刻(ミケランジェロの傑作)も、大切に飾られるべき芸術作品をぶち壊す、なんて諧謔を感じないでもない。で、そこまで深刻で恐ろしい絵とも思えないのよね。
とはいえ、廃墟の中で、崩れず屹然と立つアポロン像とその足元の白く光る胸像(ラファエロの胸像だそう)が、思わせぶりですが・・・。
廃墟=時の勝利=死というより、廃墟=消えない偉業=古典芸術への尊敬と愛着、が前面に出ている気がするのです。つまり、マイナスよりは、プラスの感情・・・。
多くの人間は、人間として、生きていくために死ぬことを深刻に考えてはいられないし、芸術家といえども、普通の人間としてそれほど深刻には考えない、と思う。ましてや、芸術家の必須条件が「世界を普通と変わった見方で見せる変人」ではなかった18世紀の話。
まろりーの頭が単純で能天気だからでしょうか(笑)